表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/43

28話目

朝日が昇りはじめるころ――

 バタン、と扉が閉められた瞬間、ルーシーの体は無造作に抱えられたまま、ベッドの上へと落とされた。


 「きゃっ……!」


 ふかふかの布団が衝撃を吸収するも、ルーシーは息を詰まらせる。

 次の瞬間――強い影が覆いかぶさった。


 「ヴァル……私……っ」


 抵抗する間もなく、ヴァルドリヒはルーシーの両手首を掴み、そのままシーツに押し付ける。

 身体の動きを完全に封じられ、ルーシーは彼の瞳と真正面から向き合わざるを得なかった。


 彼の金色の瞳は、激情に燃えていた。

 それは、いつもの穏やかさや優雅さとは程遠い――

 嫉妬と執着に染まった、獣のような視線だった。


 「っ……!」


 抗う間もなく、ヴァルドリヒの唇が降ってきた。

 それは、噛みつくように激しいキスだった。


 甘さなんて、かけらもない。

 押しつけるような深い口づけが、息を奪い、ルーシーの全てを支配する。

 逃げ場なんてどこにもなく、ただ彼に絡め取られていく。


 「ん……っ、や……っ」


 ルーシーは唇を離そうとするが、ヴァルドリヒの腕はさらに強く、彼女の手首を押さえつける。

 まるで、「逃がさない」と言わんばかりに。


 「俺が……嫌いか……?」


 唇を離した彼の声は、低く、かすれていた。

 まるで喉の奥から搾り出すような声だった。


 息も整わないまま、ルーシーは必死に首を振る。


 「違います……誤解です……!」


 「じゃあどうして……」


 ヴァルドリヒは、ルーシーの頬を掴み、まるで追い詰めるように言葉を落とした。


 「どうして……荷物をまとめて、屋敷から出た?」


 その問いに、ルーシーは息を呑む。


 (どうして……って……)


 彼の問いは、怒りよりも、もっと深い感情を滲ませていた。

 それは――絶望にも似た、痛切な想い。


 「それは……」


 声が震える。

 言葉が喉に詰まり、すぐには答えられない。


 ヴァルドリヒは、息を荒げながら、顔を近づける。

 指先が、ルーシーの顎をきゅっと持ち上げた。


 「侯爵夫人としてのレッスンが辛いなら、やめたっていい。……何が、いったい嫌になったんだ」


 その声は、苦しげだった。

 叱責ではなく、懇願にも似た響きだった。


 「何も……何も嫌じゃありません……」


 ルーシーは、震える声でそう答える。


 ヴァルドリヒは、一瞬だけ目を伏せた。

 だが、次の瞬間――


 「なら、どうして……」


 再び彼の視線が突き刺さる。

 まるで、すべてを見透かすような眼差し。

 その瞳の奥にあるのは、怒りではなく、むしろ――恐れだった。


 「俺を、置いて行こうとしたんだ」


 そう言われた瞬間、ルーシーの目に涙が溜まる。


 「……あなたの弱点になりたくなかった……ただ、それだけなんです……」


 ヴァルドリヒの身体が、一瞬、硬直する。


 「……っ」


 ルーシーは静かに涙をこぼした。


 「私は……あなたの足枷になりたくないの……」


 ポロリ、と涙がシーツに落ちる。

 彼のために、彼を守るために――

 ただ、それだけの想いだった。


 ヴァルドリヒは、じっとルーシーを見つめたまま、息を詰める。


 そして――彼の顔が、苦悶に歪んだ。


 「……それで……」


 搾り出すような声だった。


 「それで……完璧になった俺に、何が残る?」


 彼の言葉に、ルーシーはハッと目を見開いた。


 ヴァルドリヒの表情が崩れる。


 ――静かに、確実に、深く歪んでいく。


 「……ルーシー、お前がいなくなった俺に、何が残るんだ?」


 彼の声が震えていた。


 それは、執着。

 それは、狂おしいほどの愛。

 それは、彼自身の『存在理由』そのものだった。


 ヴァルドリヒは、強くルーシーの手首を握りしめる。


 「……お前が俺の弱点だと言うなら、そうだろうな」


 息が詰まるほどの言葉だった。

 彼の瞳は、ルーシー以外、何も映していなかった。


 「でもな、ルーシー……俺には、お前しかいないんだ」


 ――俺には、お前しかいない。

 その言葉が、どこまでも深く、響いた。


 「お前がいなかったら……俺は、何のために生きる?」


 その声は、切実で――どこか、壊れそうなほど儚かった。


 「お前を手に入れて、それでも足りない。お前がいても、不安なんだ」


 彼はルーシーの頬を撫で、濡れた瞳を見つめる。


 「なのに……俺から、お前を奪うな」


 ルーシーは、息を詰まらせた。


 (ヴァル……)


 彼の愛は、狂おしいほどに深い。

 重く、逃げ場のないほどに。

 でも、それが――彼のすべてだった。


 そして、ルーシーもまた、逃げられないことを悟った。


 「……ヴァル……」


 そっと彼の名前を呼ぶと、ヴァルドリヒは息を吐き、再び唇を重ねてきた。


 今度のキスは、先ほどとは違う。

 激しさの中に、どこかすがるような、哀しげな温もりがあった。


 (……この人は……こんなにも、私を求めている)


 それが、嬉しいのか、苦しいのか――。

 ルーシーには、もうわからなかった。


 けれど、ただ一つ、確かだったこと。


 ――彼からは、逃げられない。


 ヴァルドリヒは、ルーシーを決して手放さない。

 そう悟った瞬間、ルーシーはもう、ただ彼の腕の中にいることを受け入れるしかなかった。


―――――――――――

―――――――――


 薄桃色の光がカーテンの隙間からこぼれ、しっとりとした空気の中を静かに照らしていた。

 ベッドの上では、白いシーツがゆるやかに乱れ、二人の体を覆っている。

 まだ名残惜しそうにルーシーの肩を抱き、ヴァルドリヒは静かに指を梳かすように彼女の黒髪を撫でていた。


 「婚前交渉は……しないと決めていたのにな……」


 彼の声は、低く甘く、どこか自嘲気味だった。

 けれど、その指先はまるで宝物を扱うように、優しくルーシーの髪を撫で続ける。


 ルーシーは、まだ熱の残る体を少しだけ縮こまらせた。

 彼の肌の温もりが触れるたびに、まるでさっきまでの甘い時間が呼び起こされるようで、胸がじわりと熱くなる。


 「……お前が逃げると思うと……止められなかった」


 ヴァルドリヒの指が、そっとルーシーの頬を撫でる。

 触れるたびに、彼の想いがひしひしと伝わる。

 まるで、彼自身の全てを刻み込むように、慈しむように。


 「既成事実を……作りたかった」


 その言葉に、ルーシーの喉が小さく鳴る。

 彼の声はどこまでも深く、執着に満ちていた。


 (狂おしいほどの愛……)


 それを感じてしまうたび、どうして自分が逃げようと思ったのかさえ、わからなくなる。

 彼の愛は甘く、強く、抗えないほどに深い。

 まるで全身を絡め取られるように――。


 ヴァルドリヒは、シーツの隙間からルーシーの左手を取り、そっと薬指に 指輪 をはめた。

 ひんやりとした金属の感触が、熱を帯びた肌に優しく触れる。


 ルーシーは、目を丸くしながら指輪を見つめた。

 それは繊細で美しいデザインだった。

 まるで、夜空の星を閉じ込めたかのような、小さな輝石が施されている。


 「本当は……あの街でのデートの終わりに渡す予定だったんだ」


 ヴァルドリヒは微かに目を細め、少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。


 「……なのに、あんなことに…。」


 彼の言葉に、ルーシーの胸がきゅっと締め付けられる。


 「これには……お前が逃げられないように幾重にも魔法がかけられている」


 ヴァルドリヒは、ルーシーの指にそっと口づける。

 薬指に触れる唇の感触が、息を詰まらせるほど甘くて、どこか震えそうになる。


 「だから……俺から離れるな」


 その言葉は、まるで呪いのように、けれど優しく響く。

 彼の指が、ルーシーの手を包み込む。

 その手はとても温かくて、ずっとこのままでいたくなるような感触だった。


 ――魔法なんて、本当はかかっていない。

 そんなことは、わかっている。


 でも――


 (この嘘に、甘えてもいい……?)


 彼の腕の中で、ずっとこのままでいたい。

 彼の愛に、溺れたままでいたい。


 そんな気持ちが、理性よりも先にルーシーの心を満たしていく。


 「……はい……」


 ルーシーは静かに頷き、指輪をそっと握りしめた。

 その瞬間、ヴァルドリヒの顔がほんの少しだけ、安堵に緩む。


 「……いい子だ」


 囁かれた声に、再び甘い口づけが落とされた。


 ――もう、逃げられない。


 でも、それでもいい。

 彼の腕の中で、こうして愛され続けるなら――。


 息が詰まるほどに甘く、痺れるような愛が、ルーシーを絡め取って離さなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ