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27話目

夜はまだ明けきらず、あたりは静まり返っている。空にはかすかに星が瞬いているものの、東の空はわずかに白み始めていた。

 町の入口へと続く石畳の道は、朝靄が漂い、夜の冷気をまとっている。辺りにはまだ人気はなく、聞こえるのは、ルーシーの荒い息遣いと、自分の靴音だけだった。


 (やっと……ここまで来た)


 足を止め、ゆっくりと息を整える。

 全速力で走ってきたせいで、肺が焼けるように痛い。心臓の鼓動はまだ早く、冷たい夜風が汗ばんだ肌を冷やしていく。

 だが、あと少し――このまま、もう少し進めば――。


 しかし、その時。


 「やぁ……。ルーシー。」


 突然、耳に届いた、よく知る声音。


 ルーシーは息を呑んだ。

 視線を前へ向けると――そこには、黒馬の手綱を握った フローレイ の姿があった。


 まるで ルーシーがここに来ることを最初から知っていた かのように、彼女は薄く笑みを浮かべて立っていた。


 「フローレイ様……!?」


 信じられない光景に、ルーシーの足がすくむ。


 黒馬のたてがみが夜の闇に溶け込み、馬はじっと静かに佇んでいた。

 フローレイはその横に立ち、特に急かすわけでもなく、ただルーシーを見ていた。


 (どうして……? どうしてここに……!?)


 驚きと困惑が混じったまま、ルーシーは無意識に後ずさる。

 だが、今はこんなところで立ち止まっている場合ではない。

 何かを言われる前に、ここを離れなくては――。


 「……あの、用事がありますので」


 そう言って足を踏み出す。

 フローレイの横をすり抜け、町の中へ進もうとしたその瞬間――。


 ガシッ


 「……!」


 手首が掴まれる。


 フローレイの指は細くしなやかだが、掴んだ手は決して放そうとしない強い力を持っていた。


 「帰るよ」


 低く、冷静な声。

 その言葉に、ルーシーの体がびくりと震える。


 「離してください……」


 必死に腕を引こうとするが、びくともしない。


 フローレイは、僅かに微笑を深めた。


 「当ててやろうか?」


 「……?」


 「ヴァルドリヒの足を引っ張りたくないと思っているんだろ……?」


 心の奥まで見透かされたような言葉だった。


 「……っ!?」


 ルーシーの思考が一瞬、凍りつく。


 どうして、それを――?

 自分は誰にも何も言っていないのに。

 どうしてフローレイは、まるでルーシーの心の中を読んだかのように、的確に言い当てるの?


 驚きと困惑で硬直していると、不意に 腰を強く掴まれる。


 「きゃっ……!」


 気づけば、ルーシーの体は宙に浮いていた。

 フローレイが片腕で軽々と抱え、黒馬の鞍の上へと押し上げる。


 (え……!?)


 思考が追いつく前に、彼女の背後から フローレイ自身が馬に跨った。


 「ちょっ……!?」


 驚く間もなく、フローレイの腕がルーシーの腰をしっかりと支える。


 「ヴァルドリヒが再び毒を盛られたらどうする?」


 彼女の声が、すぐ耳元で囁かれる。


 「また逆戻り……いや、ルーシーがいなければ 次は死ぬだろうね」


 その言葉が、突き刺さるように重く響いた。


 ルーシーは、ぎゅっと唇を噛む。


 「……フローレイ様が助ければいいのでは?」


 絞り出すように言うと、フローレイは小さく笑った。


 「気力の問題さ」


 馬を軽く叩き、ゆっくりと進ませながら、彼女は淡々と続ける。


 「結構、無理してるんだよ。アイツは」


 「……」


 「ルーシーの存在で、どうにか保ってるのさ」


 ルーシーは思わず、拳を握りしめる。


 (ヴァルドリヒ様が、私のことで……?)


 今まで考えないようにしていたこと。

 彼の 支えになれているかもしれない という可能性。

 だが、それが本当に彼にとって良いことなのかどうか――ルーシーには、まだわからなかった。


 「ですが……」


 それでも、自分が彼の『弱点』になるのは――。


 「ルーシーがどれだけ逃げようとも、私が阻止してやるさ」


 フローレイの言葉が、強く響く。


 「だから、あきらめな」


 ルーシーの胸が、ぎゅっと締め付けられる。


 彼女の言葉は、まるで 「お前は逃げられない」 と決めつけるような冷静なものだった。

 しかし、なぜかその言葉には 優しさ も含まれているような気がした。


◇◆◇◆◇


ルーシーを乗せた黒馬は、静かな町を抜けて、侯爵邸へ向かって進んでいった。

 夜明け前の冷たい空気が肌を刺すようにひやりとしている。

 ルーシーは、馬の揺れに身を委ねながら、ぼんやりと考えていた。


 (……私は、本当にここへ戻るべきなの?)


 ヴァルドリヒが自分を必要としているとフローレイは言った。

 けれど、それは彼を弱くすることにはならないのだろうか――。


 「…っ。」


 不意に、フローレイが小さく息を呑んだ。


 ルーシーは驚いて振り向く。


 「フローレイ様?」


 彼女の腕が、ルーシーの腰を支える力がわずかに緩む。

 それと同時に、彼女はわずかに眉をひそめ、苦笑しながら肩をすくめた。


 「……刺されたところが痛むんだよ。まったく。病み上がりに乗馬なんてするもんじゃないね。」


 フローレイの声は淡々としていたが、確かに わずかな苦痛 がにじんでいた。


 ――そうだった。


 この間、町へ繰り出した時、フローレイは ルーシーを庇って刺されていた。

 敵の狙いがルーシーに向いた瞬間、彼女は何の迷いもなく前に出て、攻撃を受けたのだ。


 (まだ傷が癒えてないのに……こんな無理して……!)


 ルーシーは、心の中に沸き上がる罪悪感を押し込めながら、そっと問いかけた。


 「……大丈夫なんですか?」


 フローレイはルーシーの頭をぽんぽんと軽く叩き、軽く息を吐く。


 「このくらい、どうってことないさ」


 そう言って 気にするな というように笑ってみせたが、その表情は少しだけ青ざめているように見えた。


 (どうってことないわけないでしょう……!)


 ルーシーは、彼女の顔色を窺いながら、それ以上何も言えなかった。

 それでも、フローレイがこうして自分を迎えに来たという事実は、彼女がどれだけ無理をしているのかを物語っていた。


 ――それから、しばらくして。


 侯爵邸の大門が見えてきた。

 空が徐々に白み始め、あたりは仄かに青い光を帯びている。


 門の前には、数人の門番が警戒の目を光らせていたが、

 フローレイの乗る馬が近づくと、一人が驚きの声をあげた。


 「ル、ルーシー様!? いつの間に外へ……!」


 門番の動揺した様子に、ルーシーは思わずぎくりとする。

 自分がこの屋敷を抜け出したことがバレたら、きっとヴァルドリヒは――。


 (どうしよう……)


 しかし、すぐにフローレイが何食わぬ顔で答えた。


 「私の用事に付き合ってもらっていただけさ」


 涼しい顔でそう言うと、門番は戸惑いながらもそれ以上追及できずにいた。


 「そ、そうでしたか……」


 ルーシーは心の中で、フローレイに感謝する。

 彼女の言葉がなければ、今頃 屋敷を抜け出したことが発覚し、大騒ぎになっていたかもしれない。


ルーシーは静かに馬から降りると、侯爵邸の門をくぐった。

 フローレイが後ろで馬の手綱を軽く引きながら、ささやくように言う。


 「いいかい? 私がうまく誤魔化しておくから、何も考えずに――」


 ――だが、その瞬間。


 目の前に、黒い衣を纏った ヴァルドリヒ が立っていた。


 「……っ!?」


 冷たい夜気の中、彼の 金色の瞳 が静かに輝いている。

 その表情は、決して怒りを露わにしているわけではなかった。

 しかし、無表情なほどに、 底知れぬ冷たさ が滲んでいた。


 「侯爵様……!?」


 ルーシーは思わず息を呑む。


 ――なぜ、ここに?

 まだ夜明け前だというのに。

 ヴァルドリヒがこんな時間に外へ出ることは、ほとんどないはずだった。


 彼は、ゆっくりと足を踏み出し、静かに口を開く。


 「……随分、早起きじゃないか。」


 その声音は、穏やかで―― しかし、どこか 底冷えするような響き を帯びていた。


 (嘘……どうして……気づかれたの……?)


 戸惑うルーシーの隣で、フローレイが軽く肩をすくめる。


 「深夜に…怪しい人影を見たという者がいてな。」


 ヴァルドリヒは言葉を続けながら、じっとルーシーを見つめる。


 「……そうかい。悪かったね。少しルーシーを借りたんだ。」


 フローレイは、あくまでも軽い調子で言い、歩き出そうとする。

 だが、その言葉にヴァルドリヒの表情は 一切変わらなかった。


 「見え透いた嘘はよせ。」


 ヴァルドリヒの 低く、鋭い声 が響く。


 その一言に、ルーシーは ビクリ と肩を震わせた。


 (怒ってる……)


 ヴァルドリヒの足音が静かに近づいてくる。

 それは、獲物を狙う 猛禽 のような、一切の迷いを感じさせない動きだった。


 「こ、侯爵さ――」


 次の瞬間、ルーシーは 強い腕に抱き上げられていた。


 「きゃっ!」


 驚いて身をよじろうとするが、ヴァルドリヒの腕は微動だにしない。

 彼の体温が、ルーシーの肌をじんわりと包み込む。


 「侯爵様っ!! あのっ!!」


 必死に言葉を紡ぐが、ヴァルドリヒは涼しい顔のまま答えた。


 「ヴァルと……呼べと言ったはずだが?」


 その一言に、ルーシーは息を詰まらせる。


 (そ、そんな……!)


 彼は 完全に聞く耳を持っていない。

 まるで 逃がさない と言わんばかりに、ルーシーをしっかりと抱え込んだまま歩き出す。


 「ヴァル!! 降ろしてください! 私は……!」


 ルーシーは 必死に抗おうとする。

 だが、ヴァルドリヒの腕の力はまるで鋼のように固く、彼女の抵抗など簡単に押さえ込まれてしまう。


 「だめだ。」


 ヴァルドリヒの声は、 容赦なく断ち切るような響き を持っていた。


 「お前は俺の傍にいる。それが、俺にとって何よりも必要なことだ。」


 まるで、決して覆せない 絶対的な約束 のように――

 彼は静かに、しかし確信を持ってそう告げた。


 ルーシーの心臓が、大きく跳ねる。


 (こんなの……ずるい……)


 彼の 強引な優しさ が、苦しくて、でも心のどこかで安心してしまう。

 ――けれど、それでも。


 (私は……あなたの足を引っ張りたくないのに……)


 夜明け前の冷たい空気が、侯爵邸を包み込む中。

 ルーシーは、ヴァルドリヒの腕の中で どうすることもできず、ただその温もりに包まれていた。

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