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26話目

穏やかな陽光が窓辺から差し込み、カーテンを揺らす風が、春の香りをふわりと運んでいた。

 とある昼下がり――ヴァルドリヒは、デスクに向かいながら手を止め、ゆっくりと視線を上げた。


「そろそろ離れから本館に移ろうかと思う」


 彼の言葉に、ルーシーは椅子に腰掛けたまま、小さく瞬きをする。


「……もう、執務も再開されたんですね」


 ヴァルドリヒの回復は順調で、すでに仕事にも復帰し始めていた。

 それ自体は喜ばしいことなのだが――ルーシーにとって、朝から気が重いことがあった。


 それは、自分が今 メイドではなく、豪奢なドレスを纏わされている ということだった。


 朝、目を覚ますなり、専属侍女の コリー によって、強制的に支度を整えられたのだ。

 ふんわりと広がるスカート、繊細な刺繍の施された生地。

 鏡に映った自分は、まるで「侯爵夫人」そのものだった。


 ルーシーは、ため息混じりにスカートの裾を指でつまむ。


「私は……メイドを解雇というわけですね?」


 そうぼやくと、ヴァルドリヒは静かに席を立ち、ゆっくりとルーシーへ歩み寄る。


「メイドよりも重要な仕事があるだろう?」


 そう言いながら、彼はそっと彼女の前に立ち、ルーシーの黒髪を指に絡める。

 艶やかな髪をそっと引き寄せ、彼の唇が柔らかく触れた。


 ――ルーシーの髪に、 キスを する。


「っ……!」


 思わぬ仕草に、ルーシーの顔が一気に熱を帯びた。

 心臓が跳ねる。胸がいっぱいになる。


「も、もう!」


 慌てて彼から距離を取ろうとするが、ヴァルドリヒの手が彼女の腰を引き寄せる。

 ルーシーの息が詰まった。


「キス……していいか?」


 低く囁かれた声に、ルーシーの喉がひくりと動く。

 心臓の鼓動がますます早まるのを感じる。


(ずるい……こんなの……)


 彼の瞳がまっすぐにルーシーを見つめていた。

 その熱を帯びた視線に、ルーシーは耐えられず、そっと視線をそらす。


「そ、そんなこと……聞かないで……ください」


 しどろもどろになりながら呟いた瞬間だった。


 遠慮なく、ヴァルドリヒの唇が、ルーシーの唇を塞いだ。


 柔らかく、けれど確かに深く。

 まるで確かめるように、彼の唇がルーシーのものを優しく啄む。

 触れ合うだけの甘いキスでは済まされない――。


「っ……」


 ルーシーは目を閉じ、彼の温もりを感じるしかなかった。

 ヴァルドリヒの手が、そっとルーシーの頬を包み込む。

 親指が唇の端を撫で、さらなる甘さを求めるように、彼の唇が何度も触れた。


(もう……! 本当に……こんなに甘やかして……!)


 けれど、そんな幸福に包まれながらも、ルーシーの心の奥では、

 "自分がヴァルドリヒの唯一の弱点になっている" という不安が、どこかにくすぶっていた。


「侯爵様……」


 ふと漏れた言葉に、ヴァルドリヒが唇を離す。

 だが、彼はすぐに目を細め、ルーシーの顎をそっと持ち上げた。


「違うだろ……ヴァル」


 ルーシーの瞳が揺れる。


「……そう呼んでくれ」


 まっすぐに見つめられたまま、逃げ場はなかった。

 彼の手が、優しくルーシーの背に回される。


(呼ばなきゃ……でも……)


 小さく息を吸い込み、ルーシーは震える声で――。


「ヴァル…………んっ。」


 言い終わるか終わらないかのうちに、再び 彼の唇が、ルーシーの唇を奪った。


 先ほどよりも強く、甘く。

 彼の手がルーシーの腰をしっかりと抱き寄せ、逃がさないように支える。


 柔らかな唇が重なり、呼吸が交わるたびに、ルーシーの思考は甘さに溺れていく。

 熱を帯びたキスは、確かな想いとともに、ルーシーをどこまでも奪い去っていった――。


 ――こうして、甘い時間が、ゆっくりと過ぎていくのだった。



――――――――――

――――――――


夜が更け、侯爵邸は静けさに包まれていた。

 廊下のランプもひとつ、またひとつと消され、館はゆっくりと眠りに落ちていく。


 ルーシーは自室の椅子に腰を下ろし、窓の外をじっと見つめていた。

 月明かりが広がる庭の向こうに、ひときわ高い門がそびえている。


 ――私が、彼の足を引っ張るわけにはいかない。


 そう決めたはずなのに、心の奥が締めつけられるように痛む。

 ヴァルドリヒの声、優しく触れてくれた手、誓いのように交わしたキス。

 どれもが、彼女をこの場所に引き留めようとしていた。


 けれど、どれだけ幸せな時間を過ごしたとしても――

 彼の「唯一の弱点」でいるわけにはいかない。


 「おやすみなさいませ、ルーシー様」


 専属侍女 コリー が丁寧に礼をし、静かに扉を閉めた。

 遠ざかる足音が、夜の静寂へと溶けていく。


 カチリ


 部屋のランプの炎が消され、闇が広がる。

 ルーシーはベッドに横たわり、静かに目を閉じた。


 ――寝たふりをしなきゃ。


 遠くで扉が閉まる音や、見回りの騎士たちの足音が聞こえる。

 だが、それも次第に遠のき、やがて館全体が静まり返った。


 ルーシーはゆっくりと目を開ける。

 心臓が早鐘のように鳴っている。


 もう、行くしかない。


 慎重にベッドから抜け出し、暗闇の中、手探りでランプを手に取る。

 マッチを擦り、小さな炎を灯すと、部屋の隅がぼんやりと照らされた。


 (時間がない……)


 急いでクローゼットを開け、最低限の荷物をまとめる。

 動きやすい服、少しの食料、銀貨数枚。


 ――このままでは、目立ちすぎる。


 ルーシーは用意されていた豪奢なドレスを脱ぎ捨て、地味な旅人の服 に着替えた。

 長い髪を手早くまとめ、侯爵夫人の証となる指輪や装飾品も外す。


 侯爵家の人間である証を、すべて消さなければ。


 小さなバッグに荷物を詰めながら、目の奥がじわりと熱くなる。


 (私がここを去っても……ヴァルドリヒは、大丈夫だよね……?)


 思わず唇を噛む。

 このまま彼の元に残っていれば、きっと幸せな時間を過ごせる。

 それでも――。


 「私のせいで彼が命を狙われるなんて、絶対に嫌……」


 ルーシーは手を強く握りしめた。


 ――私は、彼の足枷になりたくない。


 (誰にも気づかれずに……門番をどうにかしないと)


 部屋の隅に置かれた ワインの瓶 に目が留まる。


 「これなら……使えるかも」


 ルーシーは瓶を掴み、小さく息を吐いた。


 緊張と焦燥が胸を締めつける。

 それでも―― 彼のために。


 私は、行かなければならない。


◇◆◇◆◇


 ルーシーは静かに扉を開け、廊下を覗いた。

 見回りの騎士の姿はない。

 だが、門を出るには警備の目をどうにかしないといけない。


 ――どうやって門番を引きつける?


 思考を巡らせる中、館の片隅にあったワインの瓶を握りしめた。

 少しの騒ぎを起こせば、その間に門をすり抜けられるかもしれない。


 ルーシーは慎重にワインの瓶を開け、近くの通路に静かに注いだ。

 強い酒の匂いが漂う。


 (あとは、気づいてくれるかどうか……)


 館の奥で見回りをしていた兵士が、鼻をひくつかせた。


 「……? なんだ、この匂いは?」


 数人の門番が騒ぎを聞きつけ、そちらへと向かっていく。

 ルーシーはその隙を狙い、影に紛れながら門の近くへと忍び寄った。


 (いける……!)


 夜の冷たい空気が肌を撫でる。

 門の脇に立っていた兵士は、まだ騒ぎに気を取られている。


 ルーシーは、そっと門の影から抜け出し、一歩ずつ静かに進む。


 ――あと少し。


 門をすり抜け、館の敷地を出るまであと少し。


 しかし―― その瞬間、背後で誰かが足音を立てた。


 「……?」


 心臓が跳ね上がる。


 (見つかった……!?)


 ルーシーは咄嗟に身をかがめ、闇に紛れる。

 だが、兵士は騒ぎの方へと視線を向けるだけで、彼女には気づかなかった。


 (よかった……!)


 ルーシーは素早く門を抜け出し、館の外へと走り出した。


◇◆◇◆◇


侯爵邸を抜けたルーシーは、夜の町へと向かってひた走る。

 ひんやりとした夜風が頬を撫でる中、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。


 (ここまでくれば……)


 しばらく全速力で走った後、彼女は一度立ち止まり、息を整えた。


 「はぁ……はぁ……」


 町へ着くまでは油断できない。


 焦りと恐怖が入り混じる中、それでも一歩ずつ進むしかない。


 ルーシーはフードを深くかぶり、人目を避けながら静かに歩き始めた。


 目指すのは、侯爵家から遠く離れた場所。

 ヴァルドリヒの影が届かない、どこかへ――。


 それが、彼のためになると信じて。

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