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25話目

それからしばらくして、ヴァルドリヒの体調は急速に回復していった。

解毒剤の効果もあり、体力は戻りつつある。

日に日に顔色が良くなり、食事の量も増え、歩くことさえできるようになった。


――風呂場にて


 湯気がもうもうと立ち込める浴室。

 仄かに香る薬草の香りが、熱を帯びた空気の中にふわりと溶けている。

 壁に灯されたランプの柔らかな光が、水面をゆらゆらと照らし、静かな空間を作り上げていた。


 ヴァルドリヒは、浴槽の縁に腕を乗せ、目を閉じたまま座っている。

 彼の身体はかつて戦場を駆け抜けた強靭な体つきだったはずだが、今はすっかり変わり果てていた。

 五年間の床に伏せる生活のせいで、筋肉はすっかりそぎ落とされ、かつての逞しさはほとんど残っていない。

 薄くなった腕や肩の骨格がより際立ち、胸板もかつての厚みはなく、どこか儚げな印象を与えている。

 それでも――彼の背には、数えきれないほどの古傷が刻まれていた。

 癒えたはずの傷跡が今もなお浮かび上がり、彼がどれだけの苦痛を耐えてきたかを物語っていた。


 ルーシーは、湯桶の中に布を沈め、静かに彼の背中へと手を伸ばした。

 湯に濡れた布が、そっと肌に触れる。


 ヴァルドリヒの肩がわずかに揺れた。


「湯浴みの世話をされるのは、お嫌いではなかったのですか?」


 彼の背中を優しく撫でながら、ルーシーは静かに問いかけた。

 彼女の指が、背骨に沿ってそっと滑る。


 ヴァルドリヒは、ゆっくりと目を開けた。

 湯気の向こうで、ルーシーの顔がぼんやりと浮かび上がる。

 彼女は、淡々とした仕草を装っているが、その手つきはどこか躊躇いがちだった。


「メイドはな」


 低く、かすれた声が浴室に響く。


 ルーシーは「やっぱり」と思いながら、古傷を避けるようにしながら背中を流し続けた。

 前に世話をされるのを嫌がったからだ。

 だが――彼の続く言葉が、思わぬものだった。


「だが、恋人にならいい……」


 布越しに触れていたヴァルドリヒの背筋が、僅かに震えた気がした。


 ルーシーの手が止まる。


「……どういう理屈ですか」


 彼女は、目の前の痩せた肩と、無数の傷跡を見つめながら、聞き返した。

 ――不思議と、胸の奥が落ち着かない。


 ヴァルドリヒはゆっくりと肩をすくめ、壁に背を預けるようにして、彼女をちらりと見た。


「お前だから、触れられるのが心地いいんだよ」


 低く甘い声音が、じわりと肌に染み込むようだった。


 ルーシーは一瞬、息を止めた。


 心臓がどくんと跳ねるのを感じる。

 湯気のせいか、顔が一気に熱くなった。


「な……!」


 慌てて目を逸らし、再び背中を流そうとする。

 だが、彼の背に触れた途端、再びゆっくりとした声が落とされた。


「ルーシー」


 指先をそっと引き寄せられ、彼の温かい手がルーシーの手の甲を包み込む。

 湯の温度よりもずっと熱い、その掌に、思わず身が竦んだ。


「全く……甘えたになってません?」


 視線を向けると、ヴァルドリヒはどこか楽しげな笑みを浮かべていた。

 戦場で見せる冷徹な表情とは違う、まるで猫のように気まぐれで、けれどどこか安心しきった顔。


「甘えたで悪いか?」


 彼は少しだけ上体を起こし、顔を近づけてきた。

 まるで、湯気の中で囁くように。


 ルーシーの喉がひくりと鳴った。


(近い……!)


 思わず布で彼の肩を押し戻す。

 しかし、ヴァルドリヒは余裕の表情を崩さず、逆にその手を軽く握りしめる。


 指先同士が触れ合い、心臓の鼓動が大きく響く。


「……もう」


 ルーシーは、精一杯平静を装ったが、声が少し震えてしまった。


(ほんとに、もう大丈夫そうね……)


 そう思いつつ、彼の顔をちらりと盗み見る。


 ヴァルドリヒはどこまでも穏やかで、どこか幸福そうな顔をしていた。

 その表情が、どうしようもなく 甘い。


「ふふ……」


 ルーシーは小さく笑い、彼の髪にそっと手を差し入れた。

 濡れた金髪が指の間をすり抜ける。


「今日は特別に、甘えさせてあげます」


 そう呟くと、ヴァルドリヒは満足げに目を細めた。

 彼はゆっくりと息を吐き、微かに力を抜いた。


「ルーシー……」


「はい?」


「これからも、ずっと俺のそばにいてくれ」


 彼の言葉に、ルーシーは思わず手を止めた。


 まるで誓いのようなその言葉に、心臓が跳ねる。


(ずるい……)


 何か返そうとして、けれど、言葉が出てこなかった。


 湯気の中、ただ静かに二人の時間が流れる。

 温もりに包まれながら、心地よい沈黙の中に身を委ねるしかなかった。


―― 甘く、心を溶かすような、湯浴みの時間だった。


――――――――――

――――――――


夜の廊下は静かだった。

 ろうそくの灯りが長い影を床に落とし、窓の外では月が高く昇っている。


 ルーシーは軽く肩を回しながら歩いていた。

 ヴァルドリヒの世話が終わり、久々に一人の時間ができた。

 湯浴みの後の余韻がまだ肌に残る中、静かな夜の空気を吸い込む。


(ふぅ……ようやく、ひと息つける)


 そう思いながら廊下の角を曲がった、その時だった。


「……っ!?」


 視界に飛び込んできたのは、血まみれのギルクスだった。


 彼はちょうど、真っ赤に染まった手袋を外しているところだった。

 その顔には疲労の色が濃く、だが表情はどこまでも冷静だった。


「ギルクス様……」


 ルーシーは息を呑んだ。


「……あぁ、すみません」


 ギルクスは手袋を片手に、何でもないことのように言った。


「先ほどまで、捕えた医者を拷問しておりました」


 その言葉に、ルーシーは一瞬、言葉を失った。


(やっぱり……そういうことだったのね)


 ヴァルドリヒに毒を盛った医者。

 捕えられたと聞いていたが、当然、ただで済むわけがないとは思っていた。


「それで……何かわかったのですか?」


 ルーシーは彼の背中を追いながら尋ねる。

 ギルクスは無言で歩き出し、彼女も自然と足を早めた。


◇◆◇◆◇◆◇


ギルクスの執務室に入ると、暗がりの中、暖炉の火がわずかに揺れていた。

 ギルクスは机の向こうに座り、短く息を吐いた。


「えぇ……どうやら、王室からの使いパシリとでも言いましょうか」


「王室が……?」


 ルーシーの眉がひそまる。


「何故……」


 ギルクスは手袋を捨てるように机に置き、冷たい目をルーシーへ向けた。


「ベルア大陸の統一を果たした今、英雄の力が邪魔になったのでしょうね」


 その言葉に、ルーシーは背筋が凍るような感覚を覚えた。


(統一が終わった今、ヴァルドリヒ様の力は……不要、だと?)


「それでは、今後も……」


「はい」


 ギルクスは頷き、ため息をつく。


「ですが、現在フローレイの協力もあり、彼女の出身地である イゾーナ大陸のラクシャル国 が、一時的に敵を演じてくれるそうです」


「……敵を、演じる?」


「そう。こちらからは莫大な金を支払うことになっていますが」


 ルーシーはギルクスの言葉を反芻しながら、ラクシャル国の名に引っかかるものを感じた。


(イゾーナ大陸のラクシャルって、確か……)


 ルーシーはふと、過去の記憶を探る。

 前にヴァルドリヒが、あの国で 「私と同じ髪色と目の者を見た」と言っていた。


 ――でも。


(フローレイ様がラクシャルの民なら、本来、黒髪に赤い目をしているはず。でも……)


 フローレイ・アシューは 青髪に紫の瞳。そして褐色肌。


 どう考えても、ラクシャルの特徴とは一致しない。


(どうなってるのかしら……?)


 思考を巡らせるが、明確な答えは出ない。


 すると、ギルクスが静かに言った。


「ですから、しばらくは外出を控えてくださいね」


「え?」


 ルーシーが驚いてギルクスを見つめると、彼は微笑みながらも、その目は冷静だった。


「あなたはヴァルドリヒ様の唯一の弱点ですから……」


 その言葉に、ルーシーは一瞬、息が止まる。


(唯一の……弱点?)


 まるで、彼の存在を脅かす危険因子のように聞こえた。

 ギルクスの言い方に悪意はない。むしろ、心から彼女を守ろうとしているのだろう。


 だが―― 「弱点」と言われたことが、胸の奥に引っかかった。


(私は……ヴァルドリヒ様の邪魔な存在?)


 知らず知らずのうちに、拳を握りしめていた。

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