24話目
二日間続いた静寂を破るように、朝の光が柔らかく差し込んでいた。
離れの部屋の空気はひんやりと澄んでいて、鳥のさえずりが遠くで聞こえる。
ヴァルドリヒのそばに座り続けていたルーシーは、疲れを隠しきれない顔で静かに彼の手を握っていた。
彼の顔はまだ青白いものの、呼吸は安定している。
――そして、その瞬間。
ルーシーの手のひらの中で、かすかに指が動いた。
ハッとして顔を上げる。
ヴァルドリヒの長い睫毛が、ゆっくりと震えるように動き――そして、まぶたが静かに開かれた。
「……ルー……シー……?」
掠れた声が、小さく部屋に響いた。
「侯爵様!!」
ルーシーの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
ずっと待ち続けた、その声。
思わず目に涙が滲み、彼の手を強く握りしめた。
「良かった……喋れるみたいですね……。」
彼の頬にかすかに赤みが戻り、弱々しくも目を開けているのが嬉しくて、言葉が震えた。
ヴァルドリヒはぼんやりとした視線のまま、ルーシーの顔を見つめる。
喉が渇いているのか、少し唇を動かした。
「水を……」
「待ってくださいね、すぐ持ってきます!」
ルーシーは机の上の水差しからカップに水を注ぎ、慎重に考えた。
この状態のヴァルドリヒに、普通のカップで水を飲ませるのは危険だ。誤嚥してしまえば、肺炎を引き起こす可能性もある。
(この世界にはストローもないし……でも、こういうときは――)
ルーシーは素早く、そばにあった 小さなスプーン に水をすくった。
介護の現場では、飲み込みが難しい人にはスプーンで少量ずつ与えるのが基本だ。
「侯爵様、少しずつ飲んでくださいね」
彼の唇にスプーンをそっと当て、わずかに口を開かせる。
舌の奥ではなく、 舌の先に落とすように 水を流し込む。
ヴァルドリヒはわずかに喉を動かしながら、ゆっくりと飲み込んだ。
ルーシーは彼の反応を見ながら、少しずつ水を口に運ぶ。
「そう、ゆっくり……無理せずに……」
喉がごくりと鳴るたびに、ルーシーは安心する。
このやり方なら、一度に流れ込む量が少なく、誤嚥する心配もない。
ヴァルドリヒはかすかに目を細め、弱々しくも言った。
「……ありがと……う。」
その掠れた声を聞いて、ルーシーは心の底から安堵の息をついた。
「まだ無理はしないでくださいね。手足は動きますか? どこか痺れたり、感覚がないところは――」
ルーシーが優しくヴァルドリヒに問いかけながら、そっと彼の手を握り直す。その温もりが、まるで彼の生きている証を確かめるようで、胸がじんわりと熱くなった。だが、彼が返事をする前に――。
「私の仕事を取る気かい?」
突然、背後から軽快な声が響いた。
「わっ……フローレイ様!」
ルーシーが驚いて振り向くと、フローレイが腕を組みながら立っていた。口元にはお決まりの笑みを浮かべているが、その瞳はしっかりとヴァルドリヒを観察している。
「まったく……また先にいいところを持っていかれちまったよ」
彼女は軽く肩をすくめながら、ヴァルドリヒの脈を取り、呼吸の音を確認する。その手つきは迷いなく、まるで“生きていることを確かめる儀式”のようだった。
「今回もルーシーの処置が完璧だったんだ。また命を救われたようだね、侯爵。」
ヴァルドリヒはルーシーの顔をまっすぐに見つめる。ルーシーは、どこか恥ずかしげに目をそらそうとしたが、その前に彼が口を開いた。
「そうか……また……。」
彼の声は弱々しくも、確かに喜びを滲ませていた。
まるで“何度でも君に救われるのは悪くない”と言わんばかりに。
しかし、その余韻を楽しむ間もなく――。
「おっと、動かないほうがいいよ」
フローレイが軽く指を振る。
「無理に動くと、痛い目を見るよ。特に……ほら、こいつのせいでね」
彼女は指で点滴の管を示しながら、少し真剣な顔をした。
「体が衰弱しすぎてたから、排尿のためのカテーテルも入れてあるし、点滴もしてる。変に動かれると、抜けちゃったりして余計に面倒なことになるんだからさ」
ヴァルドリヒの表情が、わずかにこわばる。
「……なんだそれは……?」
彼の声には、知らないものへの警戒と戸惑いが混ざっていた。
それも無理はない。この世界には、そんな医療技術など存在しなかったのだから。
フローレイはため息をつきながら、肩をすくめた。
「まったく、こっちの世界の人間は、こういうものに慣れていないからなぁ……」
彼女は点滴の管を軽く指で弾きながら、わかりやすく説明を始める。
「簡単に言えば、体に直接水分や栄養を入れるための道具さ。お前さんは二日間、ろくに飲まず食わずだったからね」
ヴァルドリヒは少しだけ目を見開いた。
そんなことが可能なのか――と、信じられないような表情を浮かべる。
「……そんなことができるのか……。」
「できるとも。このルーシーの提案でね」
フローレイはルーシーをちらりと見やる。
ルーシーは、少し気恥ずかしそうに視線を落とした。
「すぐに作ったよ。とはいえ、素材を手に入れるのにとても苦労したけどねぇ……何せ、何もないところから作らなきゃならなかった」
フローレイは腰に手を当て、苦笑混じりに言った。
「透明な管を作る技術がまず必要だったし、針の素材も純度の高い金属が要る。採取して、加工して、試作品をいくつも作って……やれやれ、私は医者のはずなのに、最近はまるで職人みたいさ」
「そんなに……?」
ヴァルドリヒは、点滴の管をじっと見つめる。
異世界の技術とはいえ、彼の身体を支えているものが、それによって作られたものだと実感すると、少し感慨深くなった。
「そりゃそうさ。魔法で何でも作れるわけじゃないしね」
フローレイは、どこか誇らしげに点滴の管を指で弾く。
「でも、おかげでこうしてヴァルドリヒが回復する手助けができたってわけだ」
「……そうか……。」
ヴァルドリヒは点滴を見つめたまま、静かに考え込むような表情をした。
この世界には存在しなかった技術――それが、今まさに彼の命を支えている。
それを作り出したのは、ルーシーとフローレイ。
彼はふっと息を吐き、静かに呟いた。
「異世界は……進んでいるんだな……。」
ヴァルドリヒがぽつりと呟く。その声には驚きと、どこか遠い憧れのような感情が滲んでいた。
フローレイは、そんな彼を見下ろしながら軽く鼻を鳴らす。
「当たり前だ。魔法もなけりゃ、魔力もないしね。科学の力だけでやっていかないといけない世界だ、進んでて当たり前だよ。」
彼女は腕を組みながら、どこか誇らしげに続けた。
「まぁ、もともと、点滴については前々から作ってはいたからね。ポリエチレンを作るのには本当に苦労させられたよ。」
「ぽり……えちれん?」
ヴァルドリヒが眉をひそめる。初めて聞く言葉に警戒するような眼差しを向けるが、フローレイは気にする様子もなく続ける。
「点滴の管を作るには、ゴムだけじゃダメでね。透明で柔軟性があって、体液に影響を与えない素材が必要なんだ。ポリエチレンってのは、そのために必要なものなんだけど……まったく、原料を探すのに苦労したよ。石油がないこの世界でどうやって作るか、試行錯誤したからね。」
「そんなことまで……。」
ヴァルドリヒは静かに呟き、点滴の管をじっと見つめた。その先には、自分の腕に繋がれた細い針がある。それが今、自分の命を支えているのだと思うと、ただただ感嘆するしかなかった。
ルーシーはそんな二人の会話を聞きながら、ふと心の中で考え込む。
(前々から点滴を作ってたってことは……フローレイ様、異世界の医療をもっと本格的に広めようとしてるってことよね。でも、それなら……)
ルーシーはちらりとヴァルドリヒの横たわる姿を見つめた。
(今度、私もオムツを開発してみようかしら……。)
介護士だった頃、長期の療養や寝たきりの患者のケアにおいて、排泄の管理は避けて通れない課題だった。今、ヴァルドリヒがカテーテルを使用しているのも、その必要性からだ。しかし、異世界にカテーテルがないことを考えれば、当然オムツも存在しないだろう。
もし、少しでも衛生面や負担を減らすことができるなら、きっと役に立つ。異世界でオムツが普及すれば、病人や老人の介護が格段に楽になるのではないか――。
(まずは、素材を考えないと……紙オムツは難しいから、布オムツ? でも、吸水性のある布となると……)
そんなことをぼんやり考えていたその時――。
「ルーシー……。」
ふいに、自分の名前を呼ばれた。
「……え?」
ルーシーが顔を上げると、ヴァルドリヒがゆっくりと目を開き、彼女の方をじっと見つめていた。
「近くにいてくれ。」
かすれた声だった。だが、その響きには確かな温もりと、かすかな不安が滲んでいる。
ルーシーは、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
(……この人は、強い人なのに。)
戦場で誰よりも恐れられ、国を救った英雄。
それなのに、今はまるで迷子の子どものように、自分のそばを求めている。
ルーシーはそっと彼の手を握りしめ、優しく微笑んだ。
「……はい、もちろんです。」
ヴァルドリヒの指が、わずかに彼女の手を握り返した。