表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/43

23話目

宿屋の中、静寂の中に微かに布の擦れる音と医師の低い指示の声が響いていた。


 年配の医師は、慎重にフローレイの傷の治療を進めていた。彼女の服の脇腹部分をそっとめくり、すでに施されていた止血の処置を確認する。傷は深くはないが、出血が多かったためか、彼女の顔色は少し青白い。


「ふむ、悪くない処置だ。だが、これ以上の無理は禁物だぞ」


 医師が手早く薬草をすりつぶし、軟膏のようにして傷口に塗る。その手つきは熟練のそれだったが、フローレイは痛みを微塵も顔に出さず、ただ淡々と治療を受けていた。


 ルーシーは、その様子を不安げに見つめていた。


(本当に、大丈夫なのかな……)


 そんな彼女の心配を察したのか、フローレイは小さく笑った。


「ルーシー、そんな顔しなさんな。私は丈夫さ」


「でも……」


「ねえ、ルーシー」


 フローレイはふと、遠くを見るような目をした。


「この世界ね……もともとよくあるロマンス小説だったのさ」


「……え?」


 ルーシーは思わず息を呑む。


 フローレイの指が軽く布を弄ぶように動きながら、彼女は続ける。


「それも、もう終わってるんだ」


 淡々とした口調だったが、ルーシーの心にはずっしりと響いた。


「……終わってる?」


「そうさ。よくある話だろう? ヒロインが王子様と恋に落ちて、悪役令嬢は破滅して、めでたしめでたし。それで幕は閉じたんだ」


「……じゃあ……」


「この世界は、物語の『その後』ってわけさ」


 フローレイは肩をすくめ、どこか達観したような笑みを浮かべる。


「だから、ルーシー」


 彼女はルーシーの瞳をまっすぐに見据えた。


「あなたはこの世界を謳歌するといい」


「……!」


 その言葉に、ルーシーは息をのむ。


(終わってる世界だったなんて……)


日本での私は、もうきっと死んでしまっている。だから、帰りたいとも思わなかった。

 でも、まさか転生した先が『すでに終わった世界』だったなんて――。


(……少し、ほっとしたかも。)


 ルーシーは、そんな自分の心の反応に驚いた。


 物語がすでに完結しているということは、これから先、誰かが決めた「運命」に翻弄されることはないということ。

 ――つまり、ヴァルドリヒは “物語の中の運命の相手” ではなく、 ただヴァルドリヒという一人の人間としてここにいる ということ。


(彼ほどの美貌なら、きっとこの世界ではヒロインと結ばれる運命の王子様みたいな存在だったんじゃ……。)


 だが、もう物語は終わっている。

 彼は「物語の主役」でも、「決められた運命の人物」でもない。

 ただ彼自身として、この世界を生きている。


(それなら……私も。)


 ルーシーはそっと胸に手を当てた。

 この身体が、本来の持ち主に引きずられることもない。

 この世界には、ルシメリアとして生きていく場所がある。

 “誰かが用意した役割” ではなく、 “自分の意思” で生きていける――。


(……良かった。)


 そんな安堵が、彼女の心を静かに満たした。


―――その時だった。


「……うっ……」


 微かな呻き声が聞こえた。


「侯爵様!」


 ルーシーはすぐにヴァルドリヒの元へ駆け寄った。


 彼はベッドの上で苦しげに顔を歪め、荒い息を繰り返していた。

 まだ意識は戻らないが、苦痛にうなされ、身体が小刻みに震えている。


(このままじゃ……)


 ルーシーはヴァルドリヒの体勢を確認する。


  ――背臥位(仰向け)のままだと、肺が圧迫される。

 毒の影響で呼吸が浅くなっている今、このままではさらに息苦しくなってしまう。

 最悪、気道が詰まる危険だってある。


(なら……体位を変えないと!)


 ルーシーは素早く動き、ヴァルドリヒの肩に手をかけた。


「すみません、少し動かしますね」


 まず、ヴァルドリヒの 片膝を立てさせ、その膝を支えながら ゆっくりと横向き にする。

 この時、 彼の顔が下を向きすぎないように、手で軽く頭を支えながら調整した。


(よし、あとは……)


 上側の腕は、枕のように頭の下へ。

 そして、下側の腕は楽な位置に調整し、 身体を安定させるために膝を少し曲げた。


 これが―― 「回復体位リカバリーポジション」 だ。


(この姿勢なら、気道が確保されるし、呼吸も楽になるはず……)


 ヴァルドリヒの荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていくのを感じる。


(よかった……)


 体勢を整えたことで、胸の圧迫が軽減され、呼吸がしやすくなったのだろう。

 まだ苦しそうではあるものの、先ほどよりは随分と安定している。


 ルーシーはそっとヴァルドリヒの額に手を置いた。


「侯爵様……。」


 微かな熱が残る彼の肌を感じながら、ルーシーはじっと彼を見守った。


(お願い……どうか、早く目を覚まして……。)


彼の顔色は青白く、かすかな汗が額に滲んでいる。

 解毒剤は効いているはずだが、体力の消耗は激しく、完全に回復するには時間が必要だった。


 ルーシーはそっと彼の額に触れ、熱を確認する。

 少し熱があるものの、危険なほどではない。

 それでも―― 彼が目を覚ますまでは、気が抜けない。


――――――――――

――――――――


しばらくして、ヴァルドリヒは侯爵邸の離れへと運ばれた。

 動かす際には、負担がかからないよう慎重に体勢を整え、担架を使用して揺れを最小限に抑えた。


「ゆっくり……衝撃を与えないように……。」


 ルーシーの指示のもと、数人の使用人が息を合わせ、細心の注意を払ってヴァルドリヒを運ぶ。

 侯爵邸の本館ではなく、離れが選ばれたのは、静かで療養に適した環境だったからだ。


 広々とした部屋には、清潔な白い寝具が整えられ、窓からは柔らかな日差しが差し込んでいた。

 フローレイと医師の協力のもと、ヴァルドリヒの体調管理は徹底されることになった。


ヴァルドリヒが目を覚ましたのは、それから2日後のことだった。

 それまでの間、ルーシーは一睡もせず、彼のそばで献身的に介護を続けた。


 ―― 彼の命を、なんとしても繋ぎ止めるために。


ルーシーは、彼の手を取り、わずかに動く指先を確認する。

 毒の影響がどれほど残っているのか、慎重に観察しながら、できる限りの処置を施した。


 彼が長時間寝たままでいることの危険性を理解していたルーシーは、定期的に筋肉刺激を行い、血栓(エコノミークラス症候群)を防ぐためのケアを怠らなかった。


 「……よし、少しだけ力を入れて……。」


 彼の足を優しく持ち上げ、ゆっくりと曲げ伸ばしを繰り返す。

 無理に動かすと負担がかかるため、慎重に、しかし確実に血流を促した。


 手足の関節をほぐし、筋肉の萎縮を防ぐために優しくマッサージを施す。

 意識がなくとも、体が固まらないように―― 彼が目を覚ました時に、すぐに動けるように。


「……点滴を用意して。」


 フローレイが使用人に指示を出し、すぐに異世界技術である点滴を準備する。


 この世界には、まだ点滴の概念は一般的ではない。

 しかし、フローレイは異世界の医療知識を活かし、独自の手法で静脈から水分と栄養を補給する方法を確立していた。


「血管が見えにくいな……。ルーシー、少し腕を温めてやってくれるかい?」


「はい!」


 ルーシーはヴァルドリヒの腕を優しく摩擦し、温めることで血管を浮き出させる。

 フローレイは冷静に針を刺し、ゆっくりと点滴を流し込んでいく。


「これで、少しは楽になるはずさ。」


 フローレイはそう呟き、ヴァルドリヒの表情を確認する。

 すぐに劇的な変化があるわけではないが、確実に体に必要な水分と栄養が補給されている。


 ルーシーは、ヴァルドリヒの顔をじっと見つめた。


(……大丈夫。必ず、目を覚ます。)


 彼の額の汗を拭いながら、そっと囁く。


「……待ってるから。」


 それは、彼だけでなく、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。


 彼がこのまま目を覚まさなかったらどうしよう――。

 そんな不安が何度もよぎった。


 だが、ルーシーは絶対に諦めなかった。


彼の隣にいると決めたあの日から――プロポーズを受けた瞬間から、彼を全力で支えようと誓ったのだから。


20話目、タイピングミスで ルシメリアがルリメリアになっていましたので、訂正しました! ルシメリアです!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ