21話目
街の中心で、祝福の声が響き渡っていた。
花びらが舞い、笑顔が溢れ、人々の喜びが空気を震わせる。
ヴァルドリヒとルーシーの姿を見て、領民たちはこぞって拍手を送り、歓声をあげていた。
――そんな中、ヴァルドリヒは静かにルーシーを抱きかかえたまま、ギルクスの側へと歩み寄る。
そして、彼女をゆっくりと地面に降ろした。
「ルーシー、先にギルクスと一緒に馬車に戻っていてくれ。」
「え?」
ルーシーは驚いたようにヴァルドリヒを見上げる。
彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、どこか迷いなく言葉を続けた。
「俺は、忘れ物を取りに行く。」
そう言いながら、ヴァルドリヒはそっとルーシーの左手を取った。
指先が触れ、彼の指がルーシーの薬指のつけ根をなぞる。
(あ……。)
指輪――。
彼の意図を察した瞬間、ルーシーの顔は一気に熱を帯びる。
指輪を取りに行くために、わざわざ戻るというのか。
その事実に、胸がきゅっと締め付けられた。
「……はい。」
ルーシーはそっと頷いた。
だが、すぐに不安が胸をよぎる。
「ですが……何かあったら大変です。護衛を……。」
ヴァルドリヒは静かに目を細め、微かに微笑んだ。
「あぁ。」
その返事を聞いても、なぜか胸騒ぎが消えない。
ルーシーは一瞬、何か言いかけたが――
「……。」
ヴァルドリヒがふいに顔を寄せ、ルーシーの頬に軽く唇を押し当てた。
「えっ……!?」
瞬間、視界が真っ白になるほどの衝撃を受け、心臓が跳ね上がる。
領民たちの歓声がより大きくなり、笑い声が混ざる中、ヴァルドリヒは彼女を見つめ、そっと離れた。
「すぐ戻る。」
そう告げると、護衛の一人を連れ、ヴァルドリヒは足早に街の奥へと向かっていった。
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――――――――
ヴァルドリヒと護衛のリースは、ジュエリーショップの前で足を止めた。
店先には、整然と並ぶ宝飾品が陽の光を浴び、煌めいている。
ヴァルドリヒは静かに扉を開き、ゆっくりと店内へと入った。
「侯爵様、お待ちしておりました。」
店主が深く頭を下げ、手元の小さな箱を持ち上げる。
ヴァルドリヒはそれを無言で受け取り、慎重に蓋を開いた。
そこには、繊細な金細工が施された指輪が収められていた。
優美なカーブを描く細身のリングには、小さな宝石が光を帯びるように埋め込まれている。
何度も調整を重ねた特注のもの――ルーシーの指にぴったりと合うように作られた、それは誓いの証だった。
彼は、指輪を指でそっとなぞる。
(……ルーシー。)
この指輪を彼女の薬指にはめる時、自分は何を思うのだろうか。
歓喜か、安堵か――。
いずれにせよ、それは自分の人生を決定づける瞬間となる。
「お喜びになるといいですね。」
隣に立っていたリースが、微笑みながら声をかける。
ヴァルドリヒは小さく頷いた。
「あぁ……。」
ルーシー、お前をしっかりと守れる男として――
これから、ずっと側に――。
指輪を大切にポケットへとしまい、店を後にする。
扉が閉まり、街のざわめきが再び耳に入る。
彼は前を向いた。
視線の先には、馬車二台と、ルーシー、ギルクス、フローレイの姿があった。
ゆっくりと、しかし確実に歩み寄ろうとした、その時――。
「ぐはっ……!」
背後で、苦しげな声が響いた。
「リース!」
ヴァルドリヒが反射的に振り向くと、護衛のリースが胸を押さえ、膝をついていた。
その顔は苦痛に歪み、唇の端から血が零れている。
そして――
「おっと、動かないでくださいよ、侯爵様。」
冷たく、皮肉めいた声が耳に届いた。
ヴァルドリヒは素早く敵の方向を睨みつける。
そこに立っていたのは、一人の男。
薄笑いを浮かべながら、彼はゆっくりと手を広げた。
「何者だ。」
低く鋭い声で問い詰めると、男は肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。
「この顔を、お忘れですか?」
横目でちらりとその顔を確認すると、ヴァルドリヒの表情が硬直した。
(――まさか。)
数年もの間、自分を苦しめ続けた、あの男。
――自らに毒を盛り続け、身体を衰弱させた、かつての主治医。
「……貴様。」
ヴァルドリヒの声には、怒りと嫌悪が滲んでいた。
「おや、そんなに睨まないでください。私はただ、あなたに ‘少しだけ’ 過去を思い出していただきたくて。」
にやりと笑いながら、医者は顎をしゃくった。
「ご覧ください、あの黒髪の女のすぐそばにいる者を。」
その言葉に、ヴァルドリヒの心臓が冷たく縮こまる。
(まさか……!)
慌ててルーシーの方へ視線を向ける。
そこにいたのは――侯爵家の制服を着た、見知らぬ男だった。
(ギルクス……なぜ気づかない!?)
ギルクスは何事もないように立っているが、その男が完全に護衛の輪に紛れ込んでいるのを見て取れないはずがない。
(――まさか、ギルクスが気づけないほど、巧妙に入り込んでいたというのか?)
「……何が目的だ。」
医者は薄く笑いながら、手に持っていた小さな瓶を揺らした。
「簡単なことです。――もう一度、この薬を飲んでいただきたい。」
「……それだけでいいのか。」
「これは、あの時飲ませていたポーションの原液。つまりは……。」
ヴァルドリヒの奥歯が軋む。
自分を長年苦しめた、 ‘あの薬’。
少しずつ体を蝕み、弱らせ、戦えなくする薬。
あれの ‘原液’ ということは――
(……この場で俺を終わらせるつもりか。)
彼は小さく舌打ちした。
「………いいだろう。」
静かに言い放つ。
「その代わり、すぐにあの者をルーシーの側からどかせろ。」
医者は満足げに笑い、指で合図を送った。
すると、ルーシーの近くにいた男は、すっと距離を取る。
(今だ……。)
ヴァルドリヒは短く息を吐き、小瓶を受け取った。
「まずは一口、お飲みください。」
「チッ……。」
彼は舌打ちしながら、青黒い液体を口に含み――
――ゴクリ。
喉を通過した瞬間、胃の奥が焼けるような感覚に襲われる。
「……っ。」
しかし、歯を食いしばり、耐える。
その時、医者が手で合図を送ると、ルーシーの近くにいた男が完全に距離を取った。
――これで、少なくともルーシーは安全だ。
「侯爵様ー!」
その瞬間、明るい声が響いた。
ルーシーが、無邪気にこちらへ手を振っていた。
ヴァルドリヒは彼女を見つめ――
静かに、残りの薬を全て飲み干した。
(……すまない。)
そして。
「侯爵様!?」
ルーシーの叫びが響く。
だが――
その一瞬の隙を狙い、医者は素早く踵を返した。
「逃げろ!!」
手下の男たちも、一斉に四方へ散らばる。
「ギルクス様!!」
ルーシーが絶望的な声を上げると、ギルクスは即座に判断し、医者を追った。
その瞬間――
「きゃっ!」
ルーシーの背後に、気配が迫った。
鋭い殺気が背中を貫くような感覚。
(――しまっ……!)
間に合わない、と悟った瞬間だった。
「……っ!」
ルーシーの視界が突然、影で覆われる。
刹那、鈍い音が響く。
「フローレイ様!!」
ルーシーの目の前で、フローレイが身を挺して、敵の攻撃を受けていた。
男の短剣は、フローレイの脇腹をかすめていた。
致命傷は外れたが、血がじわりと彼女の衣服を濡らす。
しかし、フローレイは痛みを表に出さず、きつくルーシーの腕を掴んだ。
「それより、早く!!」
「えっ……?」
「侯爵様を!!」
フローレイの声が、ルーシーを現実へと引き戻した。
(……そうだ!!)
ルーシーは咄嗟に地面に崩れ落ちたヴァルドリヒのもとへ駆け寄る。
「侯爵様!!」
顔色は青ざめ、瞳はかすかに揺らいでいる。
意識はまだあるが、呼吸が浅くなっているのが分かる。
(毒が、もう回り始めてる!!)
ルーシーは震える手を伸ばし、彼の頬を軽く叩く。
「しっかりしてください! すぐに吐かせますからね!!」
――ここで、ためらってはいけない。
ルーシーは震える手でヴァルドリヒの顔を支え、彼の青ざめた唇を見つめた。
呼吸が乱れ、喉がわずかに痙攣している。意識が薄れかけている今、無理に吐かせれば誤嚥の危険がある――。
(でも、このままじゃ……毒が体に回り切る!)
「侯爵様、すみません!!」
ルーシーは素早く彼の体勢を整えた。
誤嚥を防ぐため、まずは適切な角度を確保 する――横向きの体勢では不十分だ。
彼の頭をわずかに持ち上げ、 約30度の角度 にする。
(これで、胃の内容物が気道に入るのを防げる……!)
だが、それだけでは足りない。
自然に吐き出させるには、 嘔吐反射 を促す必要がある。
(直接指を入れるのは危険……ここは!)
ルーシーはヴァルドリヒの胸元に手を滑らせ、みぞおちのすぐ下に両手を当てた。
そして、一定のリズムで "胸郭を圧迫" しながら、彼の腹部に 「ハイムリック法」の応用技術 を加える。
「……っぐ……! ……っ!」
ヴァルドリヒの喉が痙攣し、腹筋がかすかに収縮する。
ルーシーはそのわずかな反応を逃さなかった。
(よし……もう少し!)
下顎を軽く押し上げ、舌の付け根に圧をかける。
これにより 舌根が喉奥に押され、強制的に嘔吐反射が促される のだ。
次の瞬間――
「っ……ぐはっ!!」
ヴァルドリヒの体が痙攣し、胃の中の青黒い液体が勢いよく吐き出された。
地面に滴り落ちるそれを見て、ルーシーはほっと息をつく。
(……間に合った!)
だが、まだ終わりではない。
このままでは毒が完全に抜けるわけではない。
(次は……解毒剤を!)
ルーシーは急いでフローレイから預かった 解毒剤 を取り出した。
だが――ヴァルドリヒの意識は完全に薄れかけている。
口に運んでも、飲み込む力がないかもしれない。
このままでは、解毒剤が気道に入り、窒息の危険すらある。
(誤嚥せずに飲ませる方法……!)
ルーシーは深く息を吸い込んだ。
「すみません……侯爵様……!」
そして、解毒剤を 自分の口に含む。
次の瞬間、彼の 顎を支え、わずかに後ろへ傾ける。
(角度は……これでいい!)
彼の呼吸に合わせて、少しずつ、慎重に解毒剤を流し込んでいく。
その際、舌の裏側―― 舌下 に薬液を流し、少しずつ吸収させることで、誤嚥を防ぎつつ確実に体内に取り込ませる。
(お願い……ちゃんと飲み込んで!)
ルーシーは彼の喉の動きを注意深く見守った。
やがて――
喉がわずかに動く。
(よし……!)
確実に、解毒剤が体に入った。
ルーシーはゆっくりと口を離し、震える手でヴァルドリヒの額を撫でた。
「お願い……侯爵様……。」