20話目
外の喧騒が嘘のように、誰もいない店内には、淡い陽の光が差し込み、心地よいハーブの香りが漂っている。
テーブルを挟んで向かい合うのは、ルーシーとヴァルドリヒ。
だが――
(なんでこんな雰囲気になってるの!?)
ルーシーは、ヴァルドリヒのまっすぐな視線を前に、内心、頭を抱えそうになっていた。
彼の瞳は、いつもよりもずっと深く、強い意志を宿している。
それに耐えきれず、ルーシーは思わず視線をそらしながら、震える声で言った。
「ま、待ってください……その……。」
手元でカップを握りしめる。
「たまたま、侯爵様のお世話をすることになっただけで……それを……勘違いなさってるのでは?」
どうにか冷静さを装おうとするが、声がわずかに裏返る。
「私はただ、本当に仕事をしていただけなんです。」
ルーシーは必死だった。
侯爵様の気持ちは、嬉しい。
けれど、これはあまりにも急すぎる――そう思わずにはいられなかった。
しかし、ヴァルドリヒは静かに首を振る。
「……わかっている。」
ゆっくりとした口調で、彼は言葉を紡ぐ。
「お前が、ただの ‘仕事’ だと思っていることも……俺に ‘特別な想い’ はなかったことも……。」
それでも――
彼の声が、かすかに震えた。
「それでも、俺はお前が……ルーシーがいい。」
その言葉に、ルーシーの胸が小さく跳ねる。
(なんで……そんな顔するのよ……。)
彼の瞳には迷いがなかった。
まるで、ずっと決めていたと言わんばかりの、揺るぎない光を宿している。
次の瞬間、ヴァルドリヒは静かに胸元に手をやった。
そして、ごそごそと何かを取り出す。
――それは、一枚の紙だった。
彼は、それをルーシーの前に差し出す。
「これは君の身分だ。」
ルーシーは戸惑いながらも、それを手に取る。
紙に記されていたのは―― 『ルシメリア・トランジス』
見慣れない名前に、ルーシーは目を瞬かせた。
「ルシメリア……トランジス?」
「君を、トランジス子爵の養女として、戸籍を作った。」
「――か、勝手に!?」
ルーシーは驚愕し、思わず声を上げた。
まさか、身分まで用意されているなんて――!
これは、もう後戻りできない状況では?
ルーシーは慌てて紙を見つめ、頭を抱える。
「えっと……つまり……?」
「まだ、逃げる気か?」
ヴァルドリヒが、じっとルーシーを見つめる。
その視線が真剣すぎて、ルーシーは思わずたじろぐ。
「い、いえ……逃げるだなんて……!」
言い訳を探して、ふと視線を落とす。
そのとき―― 違和感 に気づいた。
このテーブル、何かがおかしい。
ルーシーが座っているテーブルだけ、 他の席よりも高さが低い。
そして、それに合わせて椅子の高さも異なる。
(……あれ? もしかして、このテーブル……。)
ルーシーは、ゆっくりとヴァルドリヒの車いすを見やる。
この高さ―― 彼の車いすにぴったり合わせて作られたものだ。
まるで、 最初からここに座ることが決まっていたかのように。
(これ……事前に準備されてたの!?)
そう察した瞬間、ルーシーの心はざわついた。
(どれだけ周到なのよ、この人……!!)
ルーシーは深く息を吐き、震える声で呟いた。
「……どこの馬の骨とも知らない記憶喪失の女に、どうしてそこまで……。」
ヴァルドリヒはルーシーをじっと見つめたまま、静かに問い返す。
「どうしてだと思う?」
その問いかけに、ルーシーは息を詰まらせる。
(……そんなの、こっちが聞きたいわよ。)
彼の金色の瞳は、まるで真実を見透かすように、強く、熱を帯びていた。
その視線から逃げるように、ルーシーはふと、口を開く。
「……私、異世界から来て、この体に憑依しているんです。」
震える声だった。
「それでも……それでも、侯爵様は……私がいいと……?」
ヴァルドリヒは迷いなく、頷いた。
「問題ない。」
「えっ?」
「そうだと思っていた。」
「――どういうこと!?」
驚きのあまり、ルーシーは身を乗り出す。
(なんで!? なんでそんなに動揺しないの!?)
普通なら、 ‘異世界人です’ なんて言われたら、疑うなり、驚くなり、動揺するのが普通では!?
「どういうことですか!?」
思わず問い詰めると、ヴァルドリヒは肩をすくめ、 あまりにもあっさりと こう言った。
「医者のフローレイがそうだからだ。」
「えーーーーーー!?」
ルーシーは椅子から飛び上がらんばかりに身を乗り出し、ヴァルドリヒをまじまじと見つめた。
「フローレイ様が、異世界人……!? ちょっと待ってください、そんな重要なこと、今さら言うことですか!?」
しかし、そんなルーシーの混乱ぶりをよそに、ヴァルドリヒはくすりと笑いながら、余裕たっぷりの態度で言った。
「ははっ……フローレイから少し聞かされてたんだ。」
「なっ……!?」
ルーシーは耳を疑った。
「俺が喉を詰まらせたとき……なんだったか…… ハイムリック法というやつをやってくれただろう。」
「あ……。」
ルーシーは思い出す。
ヴァルドリヒが食事中に喉を詰まらせ、思わず咄嗟に取った行動。
それは、異世界――つまり、日本の医療知識だった。
「それが、異世界の技術らしい。フローレイがそう言っていた。お前が 、同じ憑依者かもしれない ってな。」
ヴァルドリヒは、まるで当たり前のことを話すような口調で言う。
「そんな簡単に信じちゃったんですか……?」
ルーシーは思わず、疑問を口にする。
「むしろ、フローレイ様が異世界人だというのを、どうやって信じたんですか?」
この世界に生きる人間が ‘異世界’ なんて概念をすんなり受け入れるはずがない。
それなのに、ヴァルドリヒはまるで最初から、そんなものは当然という顔をしている。
「彼女が異世界人なのは、明白だった。」
「……は?」
ヴァルドリヒは椅子の背にもたれながら、ゆっくりと語り出す。
「フローレイは、誰も知らない ”注射器” というものを発明し、 ”点滴”を作り、 ”顕微鏡”を用いた治療を提案してきた。その他にも、理解の及ばぬ知識をいくつも持っていた。」
「そ、そんなことって……。」
ルーシーは言葉を失う。
(……それって、完全に異世界の医学技術じゃないの!?)
「侯爵家は、それらの研究を支援している。」
「!!」
(つまり、フローレイ様はこの世界の医療を発展させるために、異世界の知識を使っているってこと……?)
もしそうなら―― 彼女は、この世界に転生した異世界人で、しかもかなり長い間、この世界に適応して生きてきた ことになる。
(それなら……!)
ルーシーは、急に胸がざわつくのを感じた。
(もしかして、フローレイ様なら、この世界がどこかの物語の世界なのか知ってるかも……?)
(聞いてみなくちゃ……!)
そんなことを考えていた、その瞬間。
――ヴァルドリヒの手が、そっとルーシーの手を包み込んだ。
「……えっ。」
指先が絡まり、優しく握られる。
それだけで、心臓が跳ねた。
「それで……返事は?」
彼の声は、低く甘い。
まっすぐな瞳が、自分のすべてを映し出すように見つめている。
(え、待って、ちょっと……! こんなシチュエーション、耐えられない!!)
顔が赤くなりながら、ルーシーは言葉を探す。
(もう、新しい身分まで作られてるし……断る理由も……。うう…どうしてこんなにキラキラしてるのよ。)
そして、覚悟を決めた。
「……わかりました。」
息を整えながら、ゆっくりと続ける。
「でも、私は ‘憑依’ だと思っています。だから……もしかすると、いつか ‘この身体の本来の持ち主’ が戻ってくるかもしれません。」
ヴァルドリヒは、黙って聞いていた。
「それだけが……不安です。でも、それでも良ければ……お受けします。」
震える声で、そう告げた。
ヴァルドリヒの目が、かすかに見開かれる。
そして――
「……ルーシー。」
次の瞬間、彼は勢いよく立ち上がった。
「えっ?」
次の瞬間、ルーシーの視界がふわりと浮いた。
「きゃっ……!?」
驚く間もなく、 お姫様抱っこ される。
ぐるりと一回転。
「こ、侯爵様!? ちょっと、何やって……!?」
顔を真っ赤にしながら、ルーシーは慌てて彼を見つめる。
しかし、ヴァルドリヒはただ笑いながら、こう言った。
「……実は、もう動けるんだ。」
「…………は?」
「驚かせたくてな。」
にやりと悪戯っぽく微笑む。
ルーシーはしばし沈黙し――
「やっぱり動けるんじゃないですか!!」
「いや、リハビリがまだ完全じゃないからな……タイミングを見ていただけだ。」
「嘘だッ!!」
ルーシーは涙目になりながら叫ぶ。
(もう!! この人、最後の最後まで……!!)
しかし――
ヴァルドリヒは、彼女をそのまま抱きかかえたまま、カフェの扉を開けた。
そして、外へ出ると――
「おおおおおおおおお!!!!」
「ヴァルドリヒ様!!!!」
「ルーシー様、おめでとうございます!!!」
外には、領民たちがずらりと並んでいた。
手には花束、拍手の嵐。
まるで、 すべてを見透かしていたかのように。
ルーシーは、ヴァルドリヒの腕の中で硬直する。
「ま、まさか……これ……。」
ちらりと視線を向けると―― ギルクスが満足げに微笑みながら頷いていた。
(……ギルクス様!! 絶対、最初から仕組んでたわね!?!?)
心の中で叫びながらも、ルーシーは 観念した。
(……もう、いいや……。)