2話目
侯爵家に通され、案内されたのは広々とした客室だった。
重厚な木の扉をくぐると、室内は柔らかい光に照らされ、上質な絨毯が敷き詰められている。壁には見たこともないような美しい刺繍のカーテンがかかっていて、窓の外には手入れの行き届いた庭園が見えた。豪華すぎて場違いな気がする。
そんな部屋の中央に、長いテーブルが置かれ、そこには一人の男性が座っていた。
「初めまして、私はギルクス・オルクナイ。ゲレルハイム侯爵家の補佐官だ。」
銀色の長い髪がさらりと肩に流れ、灰色の瞳が静かにこちらを見つめている。端正な顔立ちだが、どこか疲れた雰囲気をまとい、鼻の上には細い眼鏡が乗っていた。
彼の前の机には、一枚の契約書が置かれている。
「君の名前を聞こう。」
名前——。
一瞬、思考が止まる。自分の本当の名前は、わからない。でも、何か答えなければ……。
「ルーシーです。」
咄嗟に、手元にあった布に刺繍されていた名前を口にしていた。
ギルクスは少し目を細めたが、特に疑うことなく、次の問いを投げかける。
「門番から聞いたが……君は、英雄を救いたいと言ったそうだな?」
英雄——。
その言葉が胸の奥に響いた。
「はい……。英雄のことだけは覚えていたんです!」
思わず強く言い切る。
「名前までは思い出せないのですが、確かに……ゲレルハイム侯爵だったことだけは、はっきりと覚えているんです。」
ギルクスの表情がわずかに変わる。
「つまり、記憶喪失なのか?」
「……はい。目が覚めたら、すべての記憶を失っていました。でも、侯爵様のことだけは、どうしても忘れられなかったんです。記憶がなくなっても……きっとそれほど、私の心の奥深くに根付いていたんでしょう。」
ギルクスはしばらく私の言葉を噛み締めるように黙り込んだ。
静寂が落ちる。
そして——
「……君が誰であれ、何でもいい……。」
そう言った彼の瞳には、涙が浮かんでいた。
「ただ、世話をするだけでいいのだ。」
その声は震えていた。
英雄を救いたい——その言葉が、どれほど彼にとって重かったのだろうか。どれだけ待ち望んでいた言葉だったのか。
「……はい。」
私は静かに頷いた。
心の中では、正直ちょっと申し訳ない気持ちがあった。
(なんか、すみません……みなさん。)
でも、介護士だった私なら……。
——なんとか、なるかもしれない。
そう思った矢先、ギルクスが私に黒い布の束を手渡した。
「これが制服だ。」
広げてみると、白いエプロンがついた黒いワンピース。袖口や襟元にはフリルがあしらわれていて、まさに……。
(コスプレ!?)
だって、これ、完全にメイド服じゃない!?しかも、クラシックタイプのやつ!
ギルクスは私の反応を気にも留めず、静かに眼鏡を押し上げる。
「荷物はないようだな。」
「……はい。何もかもなくて……。」
小さく息をつくと、彼は少し考えるように視線を落とした。
「わかった。だいたいのものが揃った部屋を用意しよう。」
「ご迷惑おかけします。精一杯務めさせていただきます!」
自分でも驚くほど、真剣な声が出た。どうせここにいるしかないのなら、やるしかない。
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ギルクスの案内で、まずは部屋へと通された。用意されたのは質素ながら清潔な部屋で、ベッドや洗面台、簡単な収納棚も備わっている。想像していたよりもずっとまともで、少しホッとした。
部屋を軽く見渡し、クローゼットを開けてみる。すると、その下のタンスの引き出しの中に、きちんと畳まれた下着が揃っているのを見つけた。
「……ラッキー! 神様ありがとう!!」
思わず心の中でガッツポーズ。下着問題をどうしようか悩んでいたけど、これでひとまず安心だ。
さっそくメイド服に着替えると、思っていた以上にピッタリだった。生地は意外としっかりしていて、動きやすそうなのが救いだ。
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「では、ついて来い。」
ギルクスが私を促し、私は急いで後を追った。
「ヴァルドリヒ・ゲレルハイム。それがこの侯爵家の主の名だ。」
その名を聞いた瞬間、心臓がトクンと跳ねる。
そのまま廊下を進むと、屋敷の本館から少し離れた、まるで別館のような建物へと案内された。
ここに——侯爵様が?
入り口には、門番と同じような武装した兵士たちが立っていた。
「万が一、命の危険があれば、この兵に言え。」
ギルクスがそう言った瞬間、背筋に寒気が走った。
「……はい。」
命の危険? いやいや、普通のメイドにそんな注意いる? まさか、私がここに入った瞬間、死ぬかもしれないってこと?
不安が胸をよぎる。けれど、もうここまで来たのだ。今さら引き返せない。
私はランプを手に持ち、おそるおそる扉を押し開けた。
瞬間、鼻をつく強烈な悪臭が襲ってきた。
「っ……!!」
思わず口元を覆う。糞尿のきつい匂い、それに生ゴミの腐敗臭が混ざり合って、空気そのものがどんよりと淀んでいる。
(……慣れた匂いね。)
介護士時代に何度も経験したことのある臭いだった。そういう意味では驚かない。でも——侯爵様って、まさか若年性の認知症か何か?
そんな疑問を抱きながら、視線を奥へと向ける。
暗がりの中、ぼんやりと浮かび上がる細いシルエット。
ベッドに横たわる、力なき男——侯爵様。
髪は乱れ、肌は青白く、骨ばった体はまるで今にも消えてしまいそうなほどに華奢だった。
(……衰弱がひどい。)
おそらく、まともに食事を取れていない。いや、それどころか、ここでまともな生活ができているのかすら怪しい。
私はランプをそっと床に置くと、あたりを見渡し、手近な燭台を拾い上げた。そして一本ずつ蝋燭を灯していく。
ぼんやりとした明かりが広がり、次第に部屋の全貌が見えてきた。
「……ひどい。」
惨状、という言葉では片付けられない。
床には糞尿が散らばり、食事の食器はそのまま放置され、腐った食べ物が悪臭を放っている。水は桶に適当に入れられ、もはや汚れた雑巾のような臭いがした。
普通の人なら、ここに足を踏み入れた瞬間、吐いていたかもしれない。でも——
(こういうの、結構当たり前だったのよね。)
介護士時代、こういう環境を何度も見てきた。驚くほどではない。でも、それでも——。
(まずは掃除からね。)
私は深く息を吸い込み、袖をまくった。
戦場はここだ。
介護士としての経験を、今こそ生かす時——。
私は大きく息を吸い込んだ。部屋中にこびりついた悪臭が鼻を突くけれど、もう気にしている場合じゃない。
目の前には、まるで災害現場のような惨状が広がっている。床に散らばった食器、腐った食べ物、床に染みついた糞尿……まともに暮らせる環境とは到底言えない。
(よし……まずは片付けから!)
思考を切り替え、袖をまくり上げる。
——と、その時。ふと視線を向けると、ギルクスがまだ扉の外に立っていた。どうやら、私が無事かどうか見張っているようだ。
「ギルクスさん!」
「……どうした?」
私は勢いよく駆け寄り、言った。
「命の危険とかじゃなくて、掃除に必要なものを用意してほしいんです!」
ギルクスは少し驚いたように眉を上げた。
「……掃除?」
「そうです! ここ、とても人が暮らせる環境じゃない。まずは最低限、片付けるところから始めないと。」
彼は少し考えるように眼鏡を押し上げたが、やがて小さくため息をついた。
「……わかった。何が必要だ?」
「えっと……バケツと水、できれば熱湯がいいです。それから、布巾やブラシ、木灰か酢があれば助かります!」
「木灰? 酢?」
「ええ、洗剤がないなら、昔ながらの方法で掃除するしかないですから。」
ギルクスはしばらく考え込んだ後、「準備して持ってこよう」とだけ言って、静かに去っていった。
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それからしばらくして、ギルクスが手伝いの者と共に必要な物資を運んできてくれた。
私はさっそく、木灰を使った簡易洗剤作りに取り掛かる。
まず、木灰を器に入れて、そこに熱湯を注ぐ。すると、木灰がゆっくりと溶けていく。しばらく放置すると、上澄みがアルカリ性の液体になり、これが立派な洗浄液として使えるのだ。
(昔の人はこうやって洗濯してたんだよね。)
もちろん、石鹸のような泡立ちはないけれど、油汚れや臭いを落とすには十分な効果がある。
「よし、これでなんとかなる……!」
バケツの水にこの洗浄液を混ぜ、まずは床の汚れを拭き取ることから始めた。
汚れがこびりついている部分は布で何度もこすり、時にはブラシを使って削り落とす。
腐った食べ物や糞尿の跡は、布にこの洗浄液を染み込ませ、何度も丁寧に拭き取るしかない。
「……うん、思ったより落ちる!」
力を込めてこすり続けるうちに、床の色が少しずつ元の状態を取り戻してきた。
(まだまだ先は長いけど、まずはこの部屋を人が過ごせる環境にしないと!)
私は額の汗を拭いながら、さらに腕まくりをし、作業を続けることにした——。