16話目
昼下がりの光が柔らかく部屋を照らしている。
ルーシーはヴァルドリヒの部屋を掃除しながら、ふと手を止めた。
(……なんだか最近、侯爵様が弱気になられている気がするわ。)
昔の彼はもっと前を向いていたはずだ。回復のために必死でリハビリに取り組み、一日でも早く歩けるようになろうとしていた。
けれど――
最近のヴァルドリヒはどこか物憂げで、ふとした瞬間に視線を落とすことが増えた。
「……。」
掃除用具を片付けながら、ルーシーは少し考え込む。
(どうにか元気づけられないかしら。)
リハビリの負担が大きくて疲れているのかもしれないし、長い療養生活のせいで気分が沈んでいるのかもしれない。
流石に、部屋の中と庭を往復するだけじゃ飽きてしまうわよね。
(ギルクス様に相談してみようかしら。)
そう決めたルーシーは、ヴァルドリヒが眠った後、報告を兼ねてギルクスのいる執務室へと向かった。
―――――――――
―――――――
夜の執務室は、静寂に包まれていた。
灯されたランプの明かりが、分厚い帳簿や地図の影を長く落としている。
コツ、コツ、とルーシーの靴音が床に響く。扉の前で軽くノックをすると、すぐに低く落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ。」
ルーシーは扉を開け、静かに中へ入る。
「失礼します。」
ギルクスは眼鏡を押し上げながら、視線を向けた。
「どうされましたか? 少し浮かない顔をしていますね。」
ルーシーは小さく息を吐き、椅子に腰を下ろす。
「実は、最近、侯爵様が弱気になっていらっしゃるようで……。」
ギルクスは、ルーシーの言葉に眉をひそめた。
「はい? ヴァルドリヒ様が、ですか?」
驚きを隠せない様子で問い返す。
ヴァルドリヒは、戦場で数々の武勲を立てた英雄だ。
それが『弱気になっている』とは、どうにも信じがたい。
ルーシーは真剣な表情のまま、ゆっくりと話を続けた。
「私の前では元気に振る舞ってくださるんですが、部屋を出る瞬間、いつも悲しそうに俯くんです。」
「……。」
「それだけでなく、先日、庭園を散歩していた時も、このまま車いすに乗っていたいなんておっしゃって……。」
ギルクスはその言葉に目を細めた。
(……それは、ただ単にルーシー様と一緒にいたいからでは?)
だが、ルーシーは気づいていないようで、心配そうに話を続ける。
「侯爵様が喋れるようになった時も、『俺は生きてていいのか』なんておっしゃっていました。戦争の記憶が辛いのはわかります。でも、だからこそ……。」
ルーシーは膝の上で拳をぎゅっと握った。
「どうにか、侯爵様に元気を出してもらいたいんです。」
ギルクスは、そんな彼女の様子をしばらくじっと見つめていた。
(……ルーシー様は、本当にまったくお気づきでないのですね。)
ヴァルドリヒが俯くのは、彼女との時間が終わってしまうのが惜しいから。
車いすに乗りたがるのも、リハビリを避けたいわけではなく、ただもう少し彼女と二人きりの時間を楽しみたいだけだろう。
とはいえ、それを正直に伝えたところで、ルーシーはきっと理解しない。
彼女はあくまで『侯爵様を元気づけたい』という一点だけを考えているのだから。
(ならば、うまく誘導しましょうか。)
ギルクスは軽く咳払いをし、淡々と提案した。
「でしたら――街へ行かれてはどうですか?」
「街……ですか?」
ルーシーは驚いたように目を瞬かせた。
ヴァルドリヒがこの屋敷の外に出たのは、ほんの少し前。
それも庭園を散歩する程度だった。
それなのに、いきなり街へ?
「はい。」ギルクスは微笑む。「領民にもヴァルドリヒ様が回復されたことを知らせてあげましょう。」
「……領民に?」
ルーシーはゆっくりとその言葉を噛みしめるように繰り返す。
「彼らは、英雄の復活を心から望んでいます。」
ギルクスの声には確信があった。
戦争が終結し、平和が訪れても、ヴァルドリヒは民の間で『戦争の英雄』として語り継がれている。
彼の存在は、ただの貴族ではなく、この地に生きる人々にとって大きな支えだったのだ。
そんな彼が、長い間表舞台から姿を消していた。
だからこそ、彼の回復は領民にとっても喜ばしいニュースとなるだろう。
ルーシーは少し考えた後、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね。」
ヴァルドリヒ自身のためにもなるし、領民のためにもなる。
彼を元気づけるだけではなく、『彼の存在が誰かに必要とされている』という実感を与えることができるかもしれない。
ルーシーは微笑み、ギルクスを見上げた。
「そうしてみます!」
ルーシーが力強く頷くと、ギルクスは静かに微笑んだ。
(ええ、きっといい結果になりますよ……。)
ヴァルドリヒ様のためにも、そして――ルーシー様のためにも。
本人は気づいていないようですがね。
ギルクスは満足そうに書類を整え、次の案件へと意識を向けようとした――が、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「――あぁ、そうそう。」
ペンを置き、軽く指を鳴らすと、ルーシーへと視線を向ける。
「街へ行く時は、メイドの姿ではなく、ドレスを着用してください。」
「ド、ドレスですか?」
思わず聞き返したルーシーは、驚きのあまり少し身を乗り出した。
普段、屋敷ではメイド服が当たり前だったし、ヴァルドリヒの世話をする時も動きやすさを考えてメイド服でいることがほとんどだった。
なのに、急にドレスと言われても――。
「はい。」ギルクスはあくまで当然のように頷いた。
「なぜです?」
ルーシーは少し戸惑いながら問い返す。
(確かに、街へ行くのはいいけど……ドレスを着る理由って?)
ギルクスは眼鏡を押し上げながら、落ち着いた口調で答える。
「まず、街には多くの領民が集まります。」
「ええ、それは……わかっています。」
「その中には、ヴァルドリヒ様の回復を心から願い、尊敬している者も多いでしょう。しかし――」
ギルクスは少し言葉を区切り、ルーシーの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「彼らにとって、ヴァルドリヒ様は “戦争の英雄” であり “貴族” です。
そのような方が、メイドを伴って出歩く姿は、決して見栄えの良いものではありません。」
「……!」
ルーシーは、はっと息を呑んだ。
「つまり……。」
「そうです。ルーシー様がただのメイドとして随行するのではなく、屋敷の代表のひとり として見られるように振る舞う必要があります。」
ギルクスの言葉に、ルーシーは改めてその場の重みを感じた。
(そっか……私はただの付き添いじゃなくて、侯爵様の側にいる者として、ちゃんと見られる立場なのね。)
「……なるほど。」
ルーシーはゆっくりと頷いた。
「それに――」
ギルクスは少しだけ、冗談めかした口調で続けた。
「ヴァルドリヒ様も、あなたがドレスを着ている方が、きっと喜ばれるでしょう。」
「えっ?」
ルーシーは一瞬、ぽかんとした顔をした。
(な、なんで侯爵様が私のドレス姿を喜ぶのよ?)
ギルクスはにっこりと微笑みながら、何も言わずに書類に視線を戻す。
「……わかりました。」
ルーシーは不思議に思いながらも、しっかりと頷いた。
「では、そのようにいたします。」
(まぁ、ギルクス様がそう言うなら……。)
まだ少し腑に落ちない部分もあったが、ルーシーはギルクスの言葉を信じることにした。
(さて……ドレスなんて、ちゃんと着こなせるかしら?)
少しだけ気恥ずかしさを感じながら、ルーシーは静かに執務室を後にした。