15話目
――ミサが追放され、屋敷の空気がようやく落ち着きを取り戻した頃。
離れの一室には、静かな緊張が漂っていた。
ルーシーはヴァルドリヒのそばに座り、彼の顔色をじっと観察する。呼吸は落ち着いてきたが、誤嚥した直後のせいか、まだどこか疲れたように見える。
扉が静かに開いた。
「遅くなったわね。」
部屋に入ってきたのは、白衣を纏ったフローレイ。彼女は手際よく診察用の道具をテーブルに広げながら、ヴァルドリヒに近づいた。
「侯爵様、大丈夫?」
ヴァルドリヒはゆっくりと視線を上げ、小さく頷いた。まだ喉の違和感があるのか、言葉を発するのに少し間を置いているようだった。
フローレイは手袋をはめ、ヴァルドリヒの顎を優しく持ち上げる。ルーシーは固唾を呑んでその様子を見守った。
「口を開けて。……うん、問題ない。適切な処置だったみたいね。」
彼女の言葉に、ルーシーとギルクスは安堵の息をつく。
「よかった……。」
ルーシーは胸をなでおろした。
「私も同感です。」ギルクスも眼鏡を押し上げながら静かに言う。「ルーシー殿の素早い処置がなければ、どうなっていたか……。」
フローレイは軽く肩をすくめた。
「まったく、大変だったわね。」そう言いながら、今度はヴァルドリヒの腕をそっと触れ、指先の感覚を確かめる。「麻痺はどれくらい残ってる?」
ヴァルドリヒは少しだけ言葉を選ぶようにしてから答えた。
「今だ……口から喉……。腕や足はほとんど感覚が戻りつつある。」
「ふむ……。」
フローレイは彼の手を取り、軽く指を押して刺激を与える。ヴァルドリヒはわずかに眉を寄せながら、それに反応して指を動かした。
「腕や足の神経はだいぶ回復しているみたいね。」
彼女は満足そうに頷く。
「でも、やっぱり口と喉の麻痺が最後まで残ってるのね……。麻痺毒が口から摂取するタイプのものだったからかしら。」
ルーシーはじっとフローレイの言葉を聞いていた。
(麻痺毒……それが侯爵様を長い間苦しめてきた原因……。)
もちろん、戦争の後遺症や精神的な負担もあるだろう。しかし、こうして少しずつ回復しつつあるのは、彼の努力と、周囲の支えがあってこそだ。
フローレイは軽く指を鳴らした。
「解毒剤を調合してみるわ。少し時間はかかるけど、効果のあるものを作るから、また来るわね。」
「ありがとうございます、フローレイ様。」ルーシーは深く頭を下げる。
「礼には及ばないわ。」彼女は微笑んだ。「医者として当然のことをしてるだけよ。」
そう言うと、彼女は道具を片付け始めた。しかし、部屋を出る前に、ふとヴァルドリヒの方を見やる。
「侯爵様。」
ヴァルドリヒがゆっくりと顔を上げた。
フローレイは、彼の耳元にそっと顔を寄せる。
「……無茶して、ルーシーを困らせちゃダメよ。」
その一言に、ヴァルドリヒの金色の瞳がかすかに揺れる。
「……。」
ヴァルドリヒは一瞬動きを止めると、わずかに顔を赤らめ、そっと視線を逸らした。
(……見透かされている……?)
フローレイは彼の沈黙を見届けると、何も言わずに軽く手を振り、部屋を後にした。
だが、ルーシーはそんな彼の様子に気づかず、「?」と首を傾げていた。
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それから間もなく、屋敷内では大規模な使用人の調査が行われた。
ミサの一件が明るみになったことで、屋敷内の秩序を乱していた者や、不正を働いていた者が次々と明るみに出た。
結果として、使用人の半数――約五割が屋敷を去ることになり、新たな人材が迎え入れられた。
その中には――
(やっぱり、リンもいなくなったのね。)
ルーシーは、ほんの少しだけ複雑な気持ちを抱えながらも、気を取り直して今日の仕事に戻った。
現在、ヴァルドリヒを車いすに乗せ、庭園のラベンダー畑をゆっくりと散歩していた。
ラベンダーの優しい香りが風に乗り、心を落ち着かせてくれる。
「そろそろ杖をついて歩けそうですね。」
ルーシーが穏やかな口調で言うと、ヴァルドリヒはわずかに口を引き結び、考え込むような表情をした。
「……まぁ、そうなんだが……。」
珍しく歯切れが悪い。
「もう少し、これに乗っていたい気分でもある。」
ルーシーは思わず「え?」と目を瞬かせた。
(えっ……? 侯爵様が、もう少し車いすに乗っていたい?)
いつもなら、「早く動けるようになりたい」と焦るばかりの彼が、こんなふうに消極的なことを言うなんて――
(珍しいわね。何か弱気になられてるのかしら?)
彼の横顔をそっと窺うと、どことなく視線が落ち着かないように見えた。
「弱気になってはいけませんよ! 侯爵様!」
ぱんっと手を叩いて、力強く宣言する。
「明日から、リハビリを始めましょうね!」
「ん……あ、あぁ……。」
ヴァルドリヒはまるで言葉が耳に入っていなかったかのように曖昧な返事をし、目をそらしながら頬を掻いていた。
―――――――――――
――――――――
その日の夕方。
ヴァルドリヒがぽつりと呟いた。
「そろそろ、一人でも風呂に入れそうなんだが……。」
ルーシーは思わず立ち止まり、彼をじっと見つめる。
「……危険です。」
きっぱりと言い切ると、ヴァルドリヒはわずかに眉をひそめ、不満げな表情を浮かべた。
「なぜだ?」
「お風呂は意外と危険なんですよ?」
ルーシーは指を折りながら、まるで子どもに言い聞かせるように説明を始めた。
「まず、浴槽で意識を失う危険がありますし、転倒のリスクもあります。特に足元がまだ完全ではない状態で湯に浸かると、血流が一気に変わって貧血を起こすこともあるんです。」
ヴァルドリヒは腕を組み、少し考え込むような素振りを見せた。
「……では、一人で入れるかどうか、後ろで見ていてほしい。」
ルーシーは一瞬、言葉を失う。
「……は?」
まるで聞き間違えたかのように、思わずヴァルドリヒの顔をまじまじと見つめる。
「補助ではなく、監視をしてほしいということだ。」
ヴァルドリヒはあくまでも冷静な口調で言ったが、どことなく目をそらしているようにも見える。
(まぁ……確かに、私が見ていれば、何かあったときすぐに助けられるけど……。)
ルーシーは小さくため息をついた。
「……わかりました。」
ヴァルドリヒの体調を考えれば、無理に拒否するのも得策ではない。
もし入浴中に何かあった場合、気づくのが遅れれば命に関わることだってある。
「そのかわり、何かあればすぐに言ってくださいね?」
念を押しながら、風呂場の戸を開けた。
「……あぁ。」
ヴァルドリヒは静かに頷くと、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
ルーシーは扉を少し開けた状態で、浴槽に入るまで慎重に見守ることにした。
しばらくすると、風呂場に湯気が立ち込めはじめる。
ヴァルドリヒの背中が露わになると、ルーシーはふとその変化に気づいた。
(……だいぶ、体つきが戻ってきたわね。)
以前はあまりにも痩せ細り、骨ばっていた彼の背中。
けれど、今は筋肉がつきはじめ、かつて戦場を駆けた男らしい体つきを取り戻しつつあった。
しかし、まだ完全ではない。
(やっぱり、まだ痺れは残っていそうね。)
ヴァルドリヒが浴槽の縁に手をつく。
その指先がわずかに震えているのが見えた。
(うーん……動きはスムーズになってきてるけど、指の力はまだ完全には戻っていないわね。)
ルーシーは冷静に彼の動作を観察し、回復具合を頭の中で整理していた。
純粋に仕事として――彼の世話係として、ちゃんと見届ける義務があるから。
(でも、思ったよりも動きに安定感が出てきたわね。リハビリの成果が出ているのかも。)
しばらくそうやって黙って様子を見ていたが――
「……おい。」
ヴァルドリヒの低い声がした。
「ん?」
ルーシーは振り返らずに答える。
「そんなにじっくり見る必要はないだろう。」
「え?」
「俺は……ちゃんとできる。」
ヴァルドリヒの声が妙に硬い。
(まだちゃんと湯に浸かれてないのに、何を言ってるのかしら?)
「でも、何かあったら大変ですし……。」
「……。」
ヴァルドリヒは黙り込んだ。
その後、少しの沈黙が流れた後、彼は小さく咳払いをした。
「……もう大丈夫だ。」
その声は、どこかぎこちなかった。
ルーシーは「それなら」と納得し、少しだけ背を向ける。
「何かあったら、すぐに呼んでくださいね?」
あくまでも仕事の一環として、彼の健康管理をする立場として言う。
ヴァルドリヒは短く「……あぁ」とだけ答えた。
その返事が、妙に震えて聞こえた気がしたが――
ルーシーは気のせいだと思うことにした。