14話目
昼下がりの厨房には、香ばしいバターの香りと、スープの優しい湯気が漂っていた。
大鍋がコトコトと音を立て、数人のコックが手際よく料理を仕上げている。
ルーシーはエプロンを整えながら、手際よく食材を切っていた。
「ルーシー様、昼食でございますか?」
ふいに、料理長が声をかけてきた。ルーシーは包丁を止め、振り返る。
「はい。」
「ルーシー様も、今日はご自分の分を?」
「はい?」
その言葉に、ルーシーは一瞬、違和感を覚えた。
(なぜ、そんなことを聞くの?)
「これは侯爵様の……。」
そう言いながら、再び鍋の方へ手を伸ばした瞬間――
「侯爵様のお食事なら、先ほどメイドのミサが持っていきましたけど。」
料理長の言葉に、ルーシーの手が止まる。
「……え?」
一瞬、思考が追いつかなかった。
(ミサが……? でも、そんな指示は出していない……。)
だが、すぐに最悪の可能性が脳裏をよぎる。
「大変だわ!!」
ルーシーはすぐさま鍋の火を消し、エプロンを外して駆け出した。
◇◆◇◆◇◆◇
館の廊下を急ぎ足で駆け抜ける。
(どうして? 誰がそんなことを? いや、今は理由を考えている場合じゃない!)
とにかく、一刻も早く離れに向かわなければ――
「まあ、ルーシー様?」
突然、腕をつかまれた。
「そんなに急いで、どこへ行かれるのですか?」
振り向くと、そこには優雅に微笑むメイドのリンがいた。
「リン、今はそれどころじゃないの!」
ルーシーは彼女の手を振り払おうとするが、リンはしっかりと腕を掴んで離さない。
「侯爵様が……。」
「侯爵様のところへなら、ミサが行ったわよ。あなたもたまには休んだらどう? 休日もとっていないんでしょう?」
リンはゆるく微笑みながら、まるで何気ない世間話をするかのような口調で言った。
「……え?」
ルーシーの心の奥に、ぞわりとした冷たい感覚が広がる。
(何か……おかしい。この空気……。)
「あなた……侯爵様にもしものことがあったら職を失うわよ。」
リンの表情が、ほんの少し歪んだように見えた。
「何言ってるの?」
そして、リンはクスリと笑いながら、静かに囁く。
「これから、もしものことがあるとしたら――あなたじゃない?」
「……どういう意味?」
ルーシーは険しい顔でリンを見つめた。
「これからは、ミサが侯爵様付きのメイドになるかもしれないのに。」
その言葉に、ルーシーの背筋が凍る。
「っ……!」
(これは……ただの偶然じゃない。)
(悪意だ。)
そう確信した瞬間、ルーシーはリンの腕を振り払い、全速力で離れへと駆け出した。
(間に合って……!)
―――――――――
―――――――
扉を開けた瞬間、ルーシーの胸が締め付けられるような光景が飛び込んできた。
「っ……ゴホッ……ゴホッ……!!」
ヴァルドリヒが、膝をついて四つん這いになり、苦しそうに咳き込んでいる。
背中が波打ち、肩が大きく上下する。まるで息が詰まっているかのようだった。
床には、転がったフォークと、噛み切れなかったパンのかけら。
(誤嚥!? まさか……!)
ルーシーの脳裏に警鐘が鳴る。
「侯爵様!!」
叫びながら駆け寄ろうとすると、すぐそばに立ち尽くしていたミサが、焦ったように手を振った。
「ど、どうしましょう!? いきなり苦しみ始めて……!」
動揺しながらもどこか他人事のような言い方に、ルーシーの怒りが込み上げる。
「どいて!!」
ルーシーは有無を言わさず、ミサを押しのけた。
(この状態で、誰が無理に固形物を食べさせたの!?)
ヴァルドリヒの顔色がみるみる青ざめていく。
喉の奥から絞り出すようなかすれた咳が響き、呼吸がまともにできていないことが明らかだった。
「侯爵様! 私の声が聞こえますか!?」
ヴァルドリヒはルーシーを一瞬だけ見たが、すぐに苦しげに目を閉じ、喉を押さえるように胸元を握りしめた。
(まずい……! 気道が塞がってる!)
ルーシーは一気に背後に回り込み、彼の背中を支えた。
「侯爵様、しっかりしてください!」
額には冷や汗が滲み、体はわずかに震えている。
(ダメ、このままじゃ……!)
「いいですか、侯爵様。今から少しだけ痛いことをしますが、耐えてくださいね!」
ルーシーは迷いなく、ヴァルドリヒの腹部に腕を回し、みぞおちのあたりに手を当てる。
(呼吸ができてないなら、ハイムリック法しかない!)
「せーの!」
ぐっと腹部を圧迫する。
ヴァルドリヒの体が一瞬跳ね上がる。
「……ッ!!!」
喉が大きく震えた瞬間――
「ッ……ハァッ……!!」
詰まっていた食べ物が、勢いよく吐き出された。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
激しく咳き込みながら、彼の肩が大きく上下する。
顔色はまだ青白いが、少しずつ呼吸が整い始めていた。
ルーシーはそっと背中をさすり、優しく声をかける。
「侯爵様、大丈夫です。深呼吸してください。」
「っ……はぁ……。」
ヴァルドリヒは、荒い息を吐きながら、かすかに頷いた。
(間に合った……!)
胸の奥に広がる安堵感と同時に、怒りが込み上げてくる。
――なぜ、こんなことが起きたのか。
視線を横に向けると、ミサが立ち尽くし、唇を震わせていた。
「ミサ。」
ヴァルドリヒの低い声が響いた。
ミサはビクリと肩を跳ねさせ、狼狽した表情で後ずさる。
「おまえ……やわらかい……と。」
喉が詰まりながらも、ヴァルドリヒは必死に言葉を紡ぐ。
「い、いえ……! 私はただ……!」
「固形物は……まだ危険だと……言われていた……。」
ヴァルドリヒの目には怒りの色が浮かんでいた。
彼の瞳が静かにミサを射抜く。
「っ……!」
ミサは唇を噛みしめるが、その顔には後悔の色はない。
ただ、失敗したことへの焦りと、自分の立場を守ろうとする計算が見える。
ルーシーは冷たい視線を向けた。
「ミサ、あなた……侯爵様に何をしたの?」
ミサは視線を逸らし、何も答えない。
(これが、答え……。)
ヴァルドリヒが回復し、美しい容姿を取り戻していく中で、彼女は欲望と嫉妬に突き動かされたのだろう。
ルーシーに対する反感もあったのかもしれない。
「……もう、あなたがここへ来ることはないわ。」
その言葉に、ミサの顔が青ざめた。
「な、何を……!?」
「あなたは、侯爵様の命を危険にさらした。それだけで、ここにいる資格はない。」
ミサはなおも何か言い返そうとしたが、次の瞬間――
「……ギルクスに……報告を。」
ヴァルドリヒのはっきりとした声が、部屋に響いた。
「っ……!」
ミサの顔がみるみる蒼白になる。
(これで終わりよ。)
ルーシーはゆっくりと息を整えながら、ヴァルドリヒの背を軽くさすった。
「もう大丈夫ですよ、侯爵様。」
彼はまだ疲れた様子だったが、ゆっくりとルーシーの方を見た。
その目には、静かな信頼が宿っているように見えた。
ルーシーは、そっと微笑んだ。
(……もう、こんなことが二度と起きないようにしないと。)
―――――――――
―――――――
ギルクスが到着したのは、それほど時間がかからなかった。
門番が報告に向かってからわずか数分後、執務室で仕事をしていた彼は、一切の迷いなく離れへと足を踏み入れた。
「状況を説明してください。」
落ち着いた声。けれど、その瞳は鋭く、部屋の中を一瞥するだけで、すでに大体の事態を把握しているようだった。
ヴァルドリヒの顔色はまだ優れず、ルーシーがそっと彼を支えている。
一方、ミサは青ざめた顔で縮こまっていた。
ルーシーは簡潔に状況を説明した。
「ミサは、侯爵様の食事に固形物を出しました。侯爵様は誤嚥し、危うく窒息しかけました。」
ギルクスの表情は微動だにしなかった。
「ミサ。」
名前を呼ばれた瞬間、彼女はビクリと肩を震わせた。
「お前は、侯爵様の食事の管理について何も知らなかったのか?」
「そ、それは……。」
「知らなかったのなら、まず確認すべきだった。知っていたのなら、なぜ無視した?」
鋭く静かな問いかけに、ミサの顔はみるみる蒼白になっていく。
「わ、私は……!」
「言い訳は不要です。」
ギルクスは淡々と告げる。
「侯爵様の身に危険が及ぶ行為をした者に、ここで働く資格はない。」
「そ、そんな……!」
「門番。」
ギルクスが静かに命じると、部屋の外に待機していた屈強な門番がすぐに現れた。
「この者を屋敷から連れ出しなさい。二度とこの敷地内に足を踏み入れぬよう。」
ミサの顔が真っ青になった。
「待ってください! そんな……私はただ……!」
「ただ、何だ?」
ギルクスの冷たい声が重く響く。
「ただ、侯爵様を危険にさらしただけか? それとも、ルーシー様に嫉妬して愚かな行為に走っただけか?」
「っ……!」
図星を突かれたミサは何も言えなくなる。
門番が彼女の腕を掴み、引きずるように部屋を出ようとする。
「いや……待って……私は……!」
ミサの叫びは無情にも無視され、扉が閉じられた。