13話目
昼下がりの穏やかな日差しが、窓辺を柔らかく照らしていた。
室内は心地よい静けさに包まれ、ヴァルドリヒはいつものように本に目を落としていた。
ルーシーはそんな彼の姿を見つめながら、少しだけ口元を引き締める。
(今日は……大事な一日になるわ。)
そして、そっと声をかけた。
「さぁ、侯爵様。今日は外へ出ますよ!」
ヴァルドリヒの肩がピクリと跳ねる。
本をめくっていた手が止まり、ゆっくりとこちらを見る。
「……外?」
その言葉に含まれたのは、明らかな警戒。
それも無理はない。彼は5年半もの間、この離れの中だけで過ごしてきたのだから。
ルーシーはそんな彼の反応を想定していた。
だからこそ、明るく笑顔を浮かべ、次の言葉を続ける。
「大丈夫です! これに乗って、庭園を散歩しましょう!」
そう言って、部屋の入り口へ向かうと、待機していた使用人がすっと物を運び込んできた。
それは――見慣れない形の椅子。
「……これは?」
ヴァルドリヒは目を細め、怪訝そうにそれを見つめた。
「ついに完成しました。『車いす』です!」
ルーシーが誇らしげに胸を張ると、ヴァルドリヒは無言のまま、それをじっと見つめた。
漆黒の金属で作られた枠組み。
分厚い座面と背もたれ。
両脇にある車輪と、後ろに取り付けられた取っ手。
一見すると奇妙な形をしているが、そのすべてが彼のために考えられ、作られたものだった。
「頼んでから、もう一ヶ月が経ちましたけど、ようやく完成しました。」
「……車……椅子……?」
ヴァルドリヒは小さく呟く。
「はい! 侯爵様が楽に移動できるようにと考えて作ったものです。ほら、座ってみてください。」
ルーシーがそう言って、車いすの肘掛けを軽く叩く。
ヴァルドリヒは戸惑いながらも、ルーシーの言葉に従うようにゆっくりと立ち上がった。
そして、慎重に腰を下ろす。
座面の柔らかさに、彼の指がわずかに動く。
(……思っていたより……悪くない……?)
そんな微かな驚きが、彼の目に浮かんでいた。
ルーシーは、彼が落ち着いたのを確認すると、優しく微笑んだ。
「では、行きますよ。」
彼女が車いすの取っ手を握り、そっと押し出す。
――ゴトン、ゴトン。
滑らかに動き出す車いす。
ヴァルドリヒの体はわずかに揺れたが、不快なほどではなかった。
そして――
5年半ぶりに、彼はこの離れの外へ出た。
扉が開かれた瞬間、眩い陽の光が降り注ぐ。
「……っ。」
ヴァルドリヒは反射的に目を細めた。
ずっと薄暗い部屋の中にいた彼にとって、外の世界はあまりにも眩しすぎた。
けれど――嫌ではなかった。
風が肌を撫で、緑の香りが鼻をくすぐる。
どこか懐かしい、けれど遠ざけてしまっていた感覚。
ルーシーはゆっくりと車いすを押し、庭園へと進む。
「……なんだ……あの花は……。」
ふと、ヴァルドリヒが呟いた。
彼の視線の先には、紫色の小さな花が一面に広がっている。
「ラベンダーです。」
ルーシーは少し得意げに微笑んだ。
「薔薇にしようかとも思ったのですが、今の侯爵様には、こちらの方が良いと思いまして……。」
ヴァルドリヒは、ゆっくりとまばたきをした。
「……最近、よくギルクスのところへ行っていたのは……このためか?」
「はい。そうですよ。」
「俺の……ために……?」
彼は、ぽつりと呟くように言った。
「はい。」
ルーシーは迷いなく、はっきりと答えた。
ヴァルドリヒは、それ以上何も言わなかった。
ただ、じっとラベンダーの花畑を見つめたまま、微かに目を細めた。
ルーシーはそんな彼をそっと見つめながら、再び車いすを押し始める。
「良い香りがしますね。」
「……あぁ。」
ヴァルドリヒは静かに目を閉じる。
淡い紫色の花々が風に揺れ、その香りがやさしく漂う。
風の心地よさと、太陽の温もりと、柔らかく香るラベンダー。
(……気持ちが、落ち着く……。)
彼は気がつけば、少しずつ体の力を抜いていた。
そして――
ルーシーが気づいた時には、彼は静かに眠りについていた。
穏やかな寝息。
今まで何度も悪夢にうなされてきた彼が、こうして穏やかに眠る姿を見せるのは、初めてだった。
(ラベンダーの香りに含まれるリラックス効果が出たのかしら。)
ルーシーは微笑みながら、彼の寝顔を見守る。
「これからも、頑張っていきましょうね、侯爵様。」
優しくそう囁くと、風がそっと二人の間を通り抜けた。
それはまるで、ヴァルドリヒの心をそっと癒やす風のようだった。
―――――――――
―――――――
数週間後、夜。
執務室の灯りがゆらめき、分厚い帳簿の上に影を落とす。
ルーシーは机の上に置かれた袋の中身を見て、目を疑った。
「ギルクス様!? いけません、額が多すぎます!」
思わず声を上げると、ギルクスは涼しい顔で眼鏡を押し上げた。
「ふむ、とうとうお金の価値まで覚えられたのですね。」
彼の声には、どこか楽しげな響きがあった。
「そうなんですよ! 侯爵様に教えていただいて……」
と、言いかけてルーシーははっと口をつぐんだ。
(しまった。つい普段の癖で喋ってしまった……。)
ギルクスは片眉をわずかに上げる。
「ほう、ヴァルドリヒ様に?」
「い、いえっ! それより、この額は夫人に割り当てられる予算と同じくらいのものではないですか!? いくらなんでも、いちメイドが持つ額ではないかと……。」
ルーシーは慌てて話をそらし、金貨袋を指さした。
この袋の重さが、ただごとではないことを告げている。
ギルクスは静かに帳簿を閉じ、少し微笑んだ。
「よくご存知で。」
彼の穏やかな声に、ルーシーは思わず肩をすくめた。
「私は、普通のことしかしておりません……。」
「ですが、あなたが発案した車いすは今や飛ぶように売れています。」
「えっ……?」
ルーシーの目が大きく見開かれる。
たしかに、車いすはヴァルドリヒのために作ったものだったけれど、まさかそれが売り物になり、しかも飛ぶように売れているとは思ってもいなかった。
(そんなに需要があったの!?)
「この報酬は、あなたの発明の対価です。」
ギルクスの言葉が、重みを持って響く。
ルーシーは金貨袋を見つめ、複雑な気持ちになった。
嬉しいような、戸惑うような――。
(でも、これ……部屋に置いてたら、盗られたりしない? 銀行はないの? 金庫は!?)
そんな考えが頭をよぎる。
結局、金貨袋を抱えたまま執務室を後にすることになった。
廊下を歩きながら、ルーシーは周囲をちらちらと見回す。
(なにこれ……すっごく落ち着かないんだけど!?)
すると、すれ違った使用人が深々と頭を下げた。
「ルーシー様。」
「……え?」
(いま……『様』って言った?)
ルーシーは一瞬固まった。
別の使用人とすれ違うと、またしても――
「ルーシー様。」
(え、ちょ、待って待って!?)
心の中で悲鳴を上げる。
(な、なんか……私、どんどんメイドの扱いじゃなくなってない!?)
たしかに最近、ヴァルドリヒの世話をする時間が増えていたし、ギルクスとも話す機会が多くなっていた。
でも、私はただのメイドのはず……。
その違和感を抱えながら、自室に戻ると、ちょうど部屋の前でコリーと鉢合わせた。
彼女はルーシーを見るなり、目を丸くした。
「えええ!? その金貨袋……見たこともない額です!!」
ルーシーは苦笑しながら、袋を持ち上げて見せた。
「私もそう思うわ。」
そして、金貨を数枚取り出し、コリーの手にそっと乗せた。
「これ、受け取って。」
「えぇ!? いただけませんですよ!!」
コリーは大慌てで手を引っ込める。
「いいのよ。もらって。」
「でも、こんな大金……!」
ルーシーは、ふっと微笑む。
「コリー、いつも正確に起こしてくれてありがとうね。」
彼女はルーシーの生活を支えてくれていた。
毎朝、決まった時間に起こしてくれ、部屋もいつも整頓されていた。
(おかげで、私は侯爵様のお世話に集中できる。)
それを考えると、このくらいは当然のお礼だった。
「本当に、いつも助かってるのよ。」
そう言うと、コリーは少し頬を赤らめた。
「……でも、ルーシー様……。」
彼女が躊躇いがちにそう呼んだのを聞いて、ルーシーは眉を寄せた。
「私は……メイドなんだけどな……。」
そう呟きながら、金貨袋を抱え直す。
(なんか……どんどん立場が変わっていってる気がするわね。)
それが、良いことなのか悪いことなのかは、まだわからなかった。
けれど、このまま流されてしまっていいのか――
そんな疑問が、ルーシーの胸の奥に静かに広がっていった。