12話目
朝の光がゆっくりと部屋を満たしていく。
ルーシーは朝食の片付けをしながら、ヴァルドリヒの様子をちらりと見やる。
彼はいつものように、ゆっくりと手を伸ばし、側に置かれた本を手に取ろうとしていた。
(……今日も本を読もうとしてるのね。)
読書ができるほど回復したのは喜ばしいことだったけれど、ルーシーはそれよりも優先すべきことがあると考えていた。
「侯爵様。」
ヴァルドリヒがふと顔を上げる。
「今日は、お喋りをしましょう。」
「……喋り……。」
彼は少し戸惑ったように目を伏せ、ルーシーの言葉を繰り返した。
「はい。そろそろ鍛えるべきです。」
ルーシーはにこりと微笑みながら、椅子を引き、ヴァルドリヒの正面に腰を下ろした。
彼はゆっくりと唇を噛み、考え込んでいる。
(やっぱり、話すことに抵抗があるのね。)
それでも、ルーシーは待った。
この数週間、彼は確かに回復してきた。けれど、話すことはまだ少なかった。むしろ、ギルクスやルーシーが一方的に話し、彼は短い返事をする程度だった。
(でも、そろそろ会話の訓練も必要よね。)
ヴァルドリヒは静かに目を閉じ、そしてゆっくりと息を吐いた。
「……わかった。」
彼の掠れた声が、静かな部屋に落ちる。
ルーシーは優しく微笑んだ。
「では……侯爵様のお話を聞かせてください。」
「……俺の……話……。」
彼は少し考えるように視線を落とし、膝の上でぎゅっと手を握った。
「……俺は……平民だ。」
唐突に告げられた言葉に、ルーシーはわずかに目を見開いた。
「貴族ではなく……貧民街で育った。」
ヴァルドリヒはゆっくりと、けれど確かに言葉を紡ぎ始めた。
「小さな頃から……金がなかった。食うことも……ままならなかった。」
彼は遠い目をしていた。
まるで、過去の自分を思い出すように。
「……だから、傭兵になった。」
「傭兵に?」
ルーシーは思わず聞き返した。
「……十二の時に。」
「……十二歳!?」
思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
(十二歳で……戦場に出たの!?)
「……生きるためだった。」
ヴァルドリヒは淡々と言葉を続ける。
「金がなければ……死ぬ。それだけの……こと。」
それはあまりにも過酷な現実だった。
けれど、彼はそれをただの事実として受け止めているようだった。
「戦争の毎日だった……気がつけば……剣を握ることが……当たり前になっていた。」
淡々と語るその声には、感情がないようで、けれどどこか乾いた苦しみが滲んでいた。
戦場で生きることを強いられた子供。
その小さな体が、どれほどの血を浴び、どれほどの恐怖を乗り越えてきたのか。
(……想像するだけで、胸が痛い。)
ルーシーは、ただ静かにヴァルドリヒの話を聞き続けた。
「……最後の戦争を終えた時……俺は……侯爵位をもらった。」
彼は、苦笑するようにかすかに唇を歪めた。
「だが……何もわからなかった。学が……なかったからな。」
「……。」
ルーシーは彼の表情をじっと見つめた。
「最初は……書類も読めなかった。」
「……。」
「貴族の言葉も……礼儀作法も……何もかも……知らなかった。」
ヴァルドリヒは目を伏せ、静かに言葉を続ける。
「ギルクスとは……敵国で出会った。」
そこから、彼の語りは少しだけ緩やかになった。
「彼は……元々、俺の敵だった。」
ルーシーは思わず息を呑む。
「けれど……彼の国は……酷い独裁政権だった。」
ヴァルドリヒの目がかすかに陰る。
「ギルクスは……自国を滅ぼしてくれと……俺に協力した。」
「……そんなことが……。」
自国を滅ぼしてほしい。
それほどまでに、彼の国はひどい状況だったのだろう。
「ギルクスは……それ以来……ずっと俺の頭として……動いてくれている。」
ヴァルドリヒは、静かにそう語った。
ギルクスがいなければ、侯爵としての務めも果たせなかっただろう。
彼は自分の知識と経験を持って、ヴァルドリヒを支えてきたのだ。
「……。」
しばらく、沈黙が落ちる。
ルーシーはヴァルドリヒの表情を見つめた。
(……今の侯爵様の表情、少しだけ……穏やか。)
話しながら、彼は少しずつ肩の力を抜いているように見えた。
(話すことで、気持ちを整理しているのかもしれないわね。)
ルーシーは優しく微笑みながら、そっと紅茶を差し出した。
「少し、休憩しましょう。」
ヴァルドリヒは、一瞬ルーシーの手元を見て、それからゆっくりと紅茶を受け取った。
「……お前と……話すのは……悪くない。」
ぽつりと、そんな言葉がこぼれた。
ルーシーは、少し驚いて彼を見た。
ヴァルドリヒは、いつものように無表情を崩さなかったが、それでも――
(なんだか、少しだけリラックスしてる。)
ルーシーはその変化を感じながら、そっと微笑んだ。
(このまま、少しずつ話すことに慣れてもらえたらいいわね。)
彼の話を聞くだけではなく、今度は自分のことも話してみようと思った。
「……そういえば、私のことって、ほとんど話していませんでしたよね。」
ヴァルドリヒが、ゆっくりと顔を上げる。
「……お前のこと……?」
ルーシーは軽く頷き、湯気の立つ紅茶を手に取った。
「実は私、記憶喪失なんです。」
ヴァルドリヒの金色の瞳が、わずかに揺れる。
「……記憶喪失……?」
「はい。気づいたら王都の街中に座り込んでいました。」
ぼんやりとした記憶の片隅。
気づけば石畳の上に座り込んでいた。通り過ぎる人々のざわめき、陽の光、異世界の空気。
「何も思い出せなくて、どうしようかと途方に暮れていたんです。」
ふと、ヴァルドリヒの視線を感じた。
彼は黙って聞いているが、どこか考え込むような表情をしている。
「そんなとき、ゲレルハイム侯爵家のメイド募集の貼り紙を見つけました。」
ルーシーはくすっと笑う。
「お金もなかったし、住む場所もなかったので、とにかく働くしかないと思って。それで、ここに来たんです。」
ヴァルドリヒは微かに息を吸い込み、ゆっくりと目を伏せた。
(何か考えてる?)
そう思った瞬間――
「……見た……こと……ある。」
「え?」
ルーシーは思わず、目を瞬かせた。
ヴァルドリヒは、じっと彼女を見つめる。
「この……大陸じゃない……遠い……地に……。」
まるで遠い記憶をたぐり寄せるように、ゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。
彼の瞳が、まっすぐにルーシーの瞳を捉えた。
(……私の瞳?)
「えっと……それって、どこですか?」
ヴァルドリヒは一度息を整え、ゆっくりと説明を始めた。
「この世界には……三つの大陸がある。」
彼はテーブルの上に指で線を引くようにしながら、静かに言葉を紡ぐ。
「俺たちがいるのは……ベルア大陸。そして、北にはイゾーナ大陸。さらに、東には……ドルトン大陸。」
「……三つの大陸……。」
ルーシーは頭の中で、それぞれの位置をなんとなく想像する。
「俺が……お前のような髪と瞳を見たのは……イゾーナ大陸に行った時だ。」
「イゾーナ……。」
彼はゆっくりと紅茶を置き、続ける。
「……昔、貿易の護衛として……イゾーナ大陸へ渡ったことがある。」
その時の記憶を辿るように、ヴァルドリヒは少し目を細めた。
「イゾーナ大陸の……南にある……ラクシャル国。」
「ラクシャル……。」
「そこで……見た。」
ヴァルドリヒは、再びルーシーの瞳を見つめる。
「黒髪に……赤い瞳の者を。」
ルーシーは思わず息を飲む。
(この世界に……黒髪と赤い瞳の人がいる?)
これまで、ルーシーは自分の髪や瞳の色が珍しいものなのか、それともよくあるものなのかを気にしていなかった。けれど、ヴァルドリヒの口ぶりからすると、この地域ではあまり見かけないものなのかもしれない。
「ラクシャル……聞いても、まったくさっぱりですね。」
ルーシーは軽く頭を抱え、苦笑する。
(そりゃそうよね……だって、私はこの世界の地理なんて全然知らないんだから。)
この体の持ち主なら、何か知っていたのかもしれない。でも、今ここにいるのは、異世界から憑依した、ただの日本人だもの。
ヴァルドリヒはそんな彼女の様子を見て、ふと小さく笑った。
「地理なら……教えてやる。」
「え?」
「暇だし……な。」
ルーシーは驚いてヴァルドリヒを見た。
彼が……笑った。
今まで何度か微笑んだことはあったが、こうして冗談を交えたような軽い口調で話すのは、初めてだった。
ルーシーの胸が、ほっと温かくなる。
「それは嬉しいです! ぜひ、お願いしますね。」
にっこりと笑って言うと、ヴァルドリヒは目をそらし、わずかに肩をすくめた。
「……あぁ、まかせろ。」
ルーシーはその仕草を見て、思わず笑いそうになる。
(なんだか……ちょっと可愛いかも。)
ヴァルドリヒの言葉はそっけなかったが、彼が少しずつ心を開いてきているのがわかる。
(もしかして、侯爵様……ちょっと楽しくなってきてる?)
そう思いながら、ルーシーは紅茶を飲み、穏やかな時間を楽しむことにした。