11話目
昼下がりの穏やかな陽射しが、窓辺に並ぶ本の背表紙を柔らかく照らしていた。
ルーシーは静かにテーブルの上の食事を整えながら、ヴァルドリヒの様子を伺う。
(食事は、まだまだやわらかいものじゃないとダメね……。)
スプーンで軽くすくい、滑らかなペースト状のスープをすくう。飲み込みやすいようにとろみをつけたものの、ヴァルドリヒの喉がごくりと動くたびに、彼の喉の負担を気にしてしまう。
(まだ飲み込みにくそう……。少しずつは良くなっているけれど、誤嚥してもおかしくないわね。)
彼の嚥下機能は確かに回復しているが、完全に安全とは言えない。食事のたびに注意を払わなければならなかった。
ヴァルドリヒは何も言わず、黙々と食事を進めている。スプーンを握る指はまだ細く力が入らないものの、彼は意地でも自分で食べようとしていた。
その姿を見守りながら、ルーシーはふっと微笑む。
(本当に、意志の強い人……。)
今でこそリハビリを支えているが、彼がどれほどの葛藤と苦悩の中にいたかを思うと、胸が締めつけられる。
食事が終わると、ヴァルドリヒはゆっくりとソファへ移動した。以前ならベッドから動くことさえ難しかったのに、今は支えなしでも歩くことができる。ただ、まだ足元が不安定で、長時間立っているのは難しい。
ルーシーは彼の隣に座り、そっと視線を向ける。
「……今日のリハビリは、どうしましょうか?」
ヴァルドリヒは黙ったまま、ゆっくりと手を動かし始めた。
指を伸ばし、軽く握る。
それを何度か繰り返す。
(自分でも回復しようとしているのね。)
彼は言葉には出さないが、焦るように小さな動作を何度も繰り返していた。
戦場で名を馳せた男が、今はこうして、たった指一本を動かすことに集中している。
悔しくないはずがない。
それでも――彼は諦めない。
ルーシーは静かに見守りながら、ヴァルドリヒがわずかに唇を噛みしめるのを見つけた。
(大丈夫。ちゃんと回復するわ。)
そう信じているからこそ、ルーシーはできる限り自然な態度で接することを心がけていた。
「侯爵様、少しギルクス様のところへ行ってきますね。」
ルーシーは立ち上がり、スカートの裾を整えながら告げた。
すると――
ふいに、腕を掴まれる。
「……?」
驚いて振り向くと、ヴァルドリヒがじっとルーシーを見つめていた。
細く長い指が、かすかに震えながら彼女の袖を握っている。
「……どうかされましたか?」
ルーシーがそっと問いかけると、ヴァルドリヒは一瞬、言葉に詰まったように唇を開きかける。
「あ……いや……なんでも……ない。」
かすれた声で、そう言うと、彼はゆっくりと指をほどいた。
(……何か言いたいことがあるのね。)
そう思ったが、無理に聞き出すことはしなかった。
「すぐ戻りますね。」
ルーシーは微笑み、軽く頭を下げると、そのまま静かに部屋を出た。
扉が閉まる音が響く。
ヴァルドリヒは、一人になった部屋でじっと手を見つめた。
(……何を言いたかったのだ……?)
握ったはずの腕の感触が、まだ指先に残っていた。
喉の奥がかすかに熱くなる。
(……行くな、とは言えなかった。)
それが、自分にとってどんな意味を持つのか、ヴァルドリヒ自身もまだわかっていなかった。
――――――――
―――———
ルーシーは執務室の前で深呼吸をした。
扉の向こうにはギルクスがいる。侯爵家の運営を取り仕切る、冷静で知的な男。ルーシーにとって、彼は信頼できる人物であると同時に、少しだけ緊張する相手でもあった。
(でも、これは侯爵様のために必要なこと。)
意を決して、そっと扉をノックする。
「どうぞ。」
落ち着いた声が返ってきた。
ルーシーは扉を開き、静かに執務室へと入る。
広々とした部屋には、大きな書棚が並び、デスクの上にはきれいに整理された書類が積まれている。ギルクスは眼鏡をかけ直しながら、こちらを見た。
「どうしましたか?」
「すみません、差し出がましいのですが、折り入ってお願いがございます。」
ルーシーは一歩前に出て、真剣な表情で切り出した。
「侯爵様のために、ある道具を作れないかと思いまして……。」
ギルクスはペンを置き、ルーシーをじっと見つめる。
「道具……?」
「はい。車いすというものです。」
そう口にした瞬間、ギルクスの眉がぴくりと動いた。
「……なんだ、それは?」
ルーシーは一瞬、言葉を失った。
(あれ……もしかして……?)
この世界に車いすが存在していないことに、今、気づかされる。
(そうか、考えてみれば……。)
彼女のいた世界では、車いすは当たり前のものだった。けれど、ここではまだ発明されていない。つまり、存在すら認知されていないのだ。
ギルクスはそんなルーシーの反応を見て、少しだけ表情を和らげた。
「紙とペンを。」
近くにいた使用人にそう命じると、すぐに白紙とペンが用意された。
「説明してくれませんか?」
そう促され、ルーシーは机の前に座る。
「ええと……車いすというのは、足が不自由な人でも移動できるようにする道具です。大きな車輪が左右にひとつずつついていて、座ったまま移動できるんです。」
ペンを手に取り、自分が覚えている限りの車いすの形を描いていく。
丸い車輪、座るための椅子、後ろに押すための取っ手……。
(できるだけ簡単な構造にしておかないと……。)
少しでもこの世界の技術で作れるように、細かい部分は省略しながら、なるべく伝わりやすく描く。
「なるほど。」
ギルクスはその絵をじっと見つめ、腕を組んだ。
「すぐに作らせ……いや、待て。」
ギルクスの目がわずかに鋭くなる。
「これは……発明になるかもしれない。」
「発明、ですか?」
ルーシーは驚いて彼を見た。
「存在しない技術ならば、慎重にことを運んだ方が良い。急に広めれば、妙な騒ぎになるやもしれません。」
「……そうですね。」
ルーシーは頷く。
たしかに、今までなかったものをいきなり作れば、何かと問題が出るかもしれない。それに、ヴァルドリヒのためにと考えていたが、もし本当に実用化できれば、ほかの足が不自由な人にも役立つはずだ。
「かまいません。慎重に進めてください。」
ルーシーの返事を聞いたギルクスは、静かに頷いた。
「ありがとう、ルーシーさん。これは……大きな一歩になるかもしれませんね。」
そう言うと、彼は再び紙を手に取り、詳細な計画を練り始めた。
(よし……これで、侯爵様が少しでも楽に移動できるようになれば……。)
ルーシーは軽く頭を下げ、執務室を後にした。
(それにしても、ギルクス様に敬語を使われるのは慣れないわね。)
――――――――
――――――
離れに戻ると――
ルーシーは足を止めた。
ヴァルドリヒの部屋の扉が、少しだけ開いている。
(ん?)
不思議に思いながら中へ入ると――
「……!」
目の前に広がっていたのは、ビリビリに破かれた本の山だった。
「侯爵様?」
ルーシーは驚きながら、ヴァルドリヒを見た。
彼は、部屋の真ん中で呆然と立ち尽くしていた。
手には、まだ破いたばかりの本の切れ端が握られている。
ヴァルドリヒは、申し訳なさそうに目を伏せた。
「あ……すまない。」
低く、かすれた声だった。
(どうしたの……?)
ルーシーは状況を理解しようとしながらも、そっと部屋の中に入る。
「何か……嫌なことでもありましたか?」
彼は何も言わない。ただ、自分の足元に散らばった紙片をじっと見つめていた。
(イライラしたのかな……?)
リハビリは順調だが、決して簡単なものではない。思うように動かない体、かつての自分とは違う現状。焦りや苛立ちが募るのは当然だった。
ルーシーはそっと微笑み、床に膝をついた。
「……片付けましょうか。」
そう言って、破れた紙を一枚ずつ拾い始める。
ヴァルドリヒはその様子をじっと見つめていた。
しばらくして、彼もゆっくりと膝をつき、手を伸ばす。
「いいえ、私がやりますよ。」
ルーシーは彼の手を軽く押さえた。
「焦らなくても、大丈夫ですから。」
ヴァルドリヒは小さく眉を寄せる。
「……俺は……。」
「侯爵様。」
ルーシーは優しく言った。
「できないことがあっても、怒ったり焦ったりする必要はありません。」
「……。」
「だって、前はベッドに寝たきりだったんですよ? それが今、こうして本を破れるくらいに動かせるようになったんです。」
「……。」
「それって、すごい進歩じゃないですか?」
ヴァルドリヒはゆっくりと視線を上げた。
「……進歩……。」
「ええ、だから大丈夫です。」
ルーシーは微笑みながら、本の破れたページをそっと重ねた。
「一緒に、少しずつ片付けましょう?」
ヴァルドリヒは黙ったままだったが――
やがて、小さく頷いた。