10話目
朝日が差し込む静かな部屋の中で、ルーシーは慎重に食事の準備を整えていた。
(今日はもう少し固形物を増やしてみよう。)
これまでは流動食中心だったが、最近のヴァルドリヒの嚥下能力の回復を考えると、そろそろ次の段階に進めても良さそうだった。
柔らかく煮た野菜や、ふんわりと焼いたパンを小さく刻み、スープに浸して飲み込みやすくする。それから、温かい紅茶も用意した。
(ゆっくりでもいい、少しずつ、確実に……。)
お盆を持ち、彼の部屋へと向かう。扉をノックし、静かに声をかけた。
「おはようございます。起きていらっしゃいますか?」
扉を開けると、ヴァルドリヒはすでにベッドに座っていた。
(……起きてるのね。)
以前の彼なら、朝になってもほとんど動かず、ただ目を閉じたままだった。それが、こうして自分で起き上がっているのだから、大きな進歩だ。
「今日は少し固形物を増やしてみました。」
ルーシーは優しく微笑みながら、食事の乗ったお盆をテーブルに置いた。それから、部屋の窓へと向かい、カーテンを勢いよく開く。
朝の光が一気に差し込み、部屋を明るく照らす。
(ちょっと薄暗い方が落ち着くのかもしれないけど……。)
それでも、陽の光を浴びることで、体の調子が整いやすくなる。リズムを作ることは、回復にとって大切なことだった。
「さぁ、侯爵様。」
窓を開け、新鮮な空気を取り入れながら、ルーシーは彼のもとへ戻った。
「立ち上がるのをお手伝いしますね。」
ルーシーがそっと支えようとすると――
「いい……たてる……。」
ヴァルドリヒはゆっくりとベッドの縁に手を置き、ぐっと力を込める。
――カクン。
膝が軽く震えたが、それでもしっかりと立ち上がった。
(本当に、捕まりながらなら問題なく立てるのね。)
トイレくらいなら、一人で行ける状態まで回復しているのも納得だった。
「なら、しっかりと挨拶も返してください。」
ルーシーは腕を組み、少し厳しめに言う。
「侯爵様が今どんな状態なのか、ちゃんと教えてください。」
ヴァルドリヒの眉がわずかに動く。
「お前は……その……。」
言葉を選びながら、戸惑いがちに視線を落とした。
「どうして……そこまで……する。」
ルーシーは一瞬だけ瞬きをして、それから淡々と言った。
「仕事だからに決まってるじゃないですか。」
「仕事……?」
ヴァルドリヒは驚いたように眉を寄せた。
「はい。他に何かございますか?」
いつものように淡々とした口調だったが、なぜかヴァルドリヒはしゅんとしてしまった。
(え……なんでちょっと落ち込んでるの?)
ルーシーは軽く肩をすくめた。
「ほら、ご飯が冷めてしまいます。」
そっと彼の腕を取り、ゆっくりとソファへ誘導する。ヴァルドリヒは自力で足を動かし、ソファに腰を下ろした。
(しっかり立てるし、歩ける。でも、まだ長時間は無理そうね。)
ルーシーは食事をお盆ごと膝の上に乗せ、スプーンを手に取った。
「では、召し上がってください。」
そう言って、柔らかく煮た野菜をスプーンですくい、ヴァルドリヒの口元へ運んだ。
だが――
彼は顔をそむけた。
(えっ、なにこれ。)
まるで「自分で食べる」と言わんばかりに拒否されている気がする。
「侯爵様、これでは私が困ります。」
少し語気を強める。
「大丈夫ですから、今まで通り、できるところからやっていきましょう。」
だが、ヴァルドリヒは黙ったまま、口を開かない。
「……。」
(もう……。)
ルーシーはスプーンを持ったまま、じっと彼を見つめた。
「侯爵様!!」
ピクリ、と彼の肩が揺れる。
そして、観念したように――
「……っ。」
ゆっくりと口を開いた。
(やっと食べてくれた。)
「今日は固形物を増やしていますから、誤嚥しないようにしっかりよく噛んでください。」
ルーシーは優しく注意しながら、彼がきちんと咀嚼するのを見守る。
ヴァルドリヒは、噛むたびにわずかに顔をしかめながらも、ゴクリと飲み込んだ。
(よし……。)
しばらくの間、食事は順調に進んだが、途中でヴァルドリヒがスプーンに手を伸ばした。
「いい……自分で……。」
震える指がスプーンを掴む。
だが――
その手は、ひどく震えていた。
(まだ無理よ……。)
ルーシーはすぐに彼の手からスプーンを取り返した。
「まだだめです。」
ヴァルドリヒは歯を食いしばるように顔を背ける。
(きっと、情けなく思ってるんだわ。)
食事さえまともに取れない自分に苛立ち、みじめさを感じているのだろう。
ルーシーは静かにスプーンを持ち直し、優しく微笑んだ。
「ゆっくり時間をかけたっていいんです。」
ヴァルドリヒは微動だにしない。
それでも、ルーシーは続けた。
「……焦る気持ちはわかります。」
「でも、侯爵様はずっと動けなかったんです。何ヶ月も、何年も。すぐに何でもできるようになるわけじゃありません。」
「それに、侯爵様は戦場にいたのでしょう? なら、ご存知のはずです。」
「どんな戦いでも、戦略と準備が大切だって。」
ヴァルドリヒの指がピクリと動いた。
ルーシーはスプーンをすくい直し、再び口元へ運ぶ。
「ゆっくり、一歩ずつ進みましょう。」
ヴァルドリヒはしばらく何も言わなかったが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
(よかった……。)
ルーシーは小さく息を吐き、次の一口をすくった。
―――――――――
―――――――
食事を終えたヴァルドリヒは、静かに背もたれに寄りかかった。
まだ食後の疲労があるのか、わずかに肩で息をしている。
ルーシーはスプーンをそっと置き、食器を片付けようとした。
すると――
コツ、コツ、コツ。
規則正しい靴音が、静かな部屋に響いた。
扉が静かに開き、ギルクスが入ってきた。
眼鏡をかけ直しながら、いつものように冷静な顔をしているが、どこか緊張しているのが伝わってくる。
ルーシーは彼に軽く微笑みかけると、ヴァルドリヒの方を向いた。
「ほら、侯爵様、ちゃんと喋る練習も必要ですよ。」
そう優しく促すと、ヴァルドリヒはゆっくりと唇を動かした。
「ギル……クス……。」
かすれた、しかし確かに言葉を紡ごうとする声だった。
次の瞬間――
ギルクスの目が大きく見開かれる。
そして、彼の頬を一筋の涙がつーーーっと伝った。
「ヴァ……ヴァルドリヒ……様……本当に……?」
滅多に感情を表に出さないギルクスの声が、かすかに震えていた。
彼はまるで夢を見ているかのように、一歩、また一歩とヴァルドリヒに近づく。
ヴァルドリヒは、ゆっくりと、ぎこちなく、コクリと頷いた。
その動きが確かなものだと理解した瞬間、ギルクスは目を押さえた。
「こんな……こんなことが……。」
いつも冷静で知的な彼が、まるで信じられないものを見るように、震える声で呟く。
「神様……こんな奇跡が……。」
ヴァルドリヒが口を開きかける。
「す……ま……なかった。」
彼の眉がわずかに寄る。
「ま……だ……しび……。」
言葉の途中で、ヴァルドリヒの喉がつかえたように動き、少し息が荒くなった。
「侯爵様!」
ルーシーはすぐにそばに寄り、彼の背中にそっと手を添えた。
「一気に喋ろうとしないでください。ゆっくりでいいんです。」
彼の肩を軽くさすりながら、落ち着くように優しく促す。
ヴァルドリヒは小さく頷くと、ゆっくりと深呼吸をした。
ギルクスは震える手で眼鏡を押し上げ、改めてヴァルドリヒの顔をまっすぐに見た。
「ヴァルドリヒ様……。」
それは、長年沈黙を貫いていた主が、再び声を取り戻したことへの、心の底からの驚きと喜びが入り混じった声だった。
ルーシーは、そんな二人の姿をそっと見守る。
(良かったわ、回復してきて…。)
静かな朝の光が、彼らの間に差し込んでいた。