表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/43

1話目

 

 鋭い怒声が響いた瞬間、私は反射的に身をすくめた。


 介護していた男性の手が突然暴れだし、腕を振り払う間もなく、強い力が私の体を押し出した。


 「——え?」


 次の瞬間、ふわりと重力が消え、視界がぐるりと反転する。


 落ちる。


 そう理解した途端、背中に衝撃が走った。階段の硬い角が背骨を打ち、全身に電撃のような痛みが駆け抜ける。頭がガンッと弾かれ、視界が真っ白になった。


 私……死ぬ?


 朦朧とする意識の中、そんな言葉が脳裏をよぎる。


 いや、待って……死にたくない。死にたくないのに……。


 必死に手を動かそうとする。足を踏ん張ろうとする。でも、体が言うことを聞かない。


 動いて……動いてよ、体!!


 意識がふっと闇に沈み——次に目を開けた時、私は見知らぬ場所にいた。


———————————

――—————


ぼんやりと霞んだ視界の中、まず目に飛び込んできたのは、石畳だった。


 私は地面に座り込んでいた。手をついた床は、冷たくざらついている。


 「……え?」


 視線を上げると、目の前には見たことのない街並みが広がっていた。レンガ造りの建物が立ち並び、どこかヨーロッパの中世を思わせる風景。だけど、ここがどこなのかまったくわからない。


 混乱したまま、無意識に自分の体を確認する。


 まず、髪。


 肩にかかるはずの髪の毛が、するりと背中まで伸びていた。


 「……嘘、なんで?」


 手で掴むと、黒髪は確かに自分のものだった。でも、明らかに長さが違う。こんなに伸びるまで、どれだけの時間が経った?


 そして——服。


 「……え、何これ……?」


 体を包むのは、ゴワゴワとした粗末なローブ。チクチクするし、妙にダボダボしている。なんか、変な違和感が——


 ……!?


 「えっ!? ノーパン!?」


 思わず叫びそうになったが、慌てて口を塞ぐ。いやいやいや、待って待って。なぜ? どうして下着がないの!?


 慌てて手探りで確かめるが、やっぱり何も履いてない。嘘でしょ!? これ、どうしたらいいの!?


 パニックになりながら、傍に置かれていた布袋に目を向ける。これ、私の……?


 震える手で中を覗き込むと、小さな硬貨が数枚と、くしゃくしゃの布切れが入っていた。


 「ルーシー……?」


 布の端には、そう刺繍されている。でも、それが何を意味するのかはわからなかった。


 着替えもないの!?


 自分の境遇がどんどん最悪な方向に転がっていく。どうしよう、どうしよう……。


 混乱しながら、私はふと空を仰いだ。


 ——青く澄んだ空。雲が流れ、遠くから商人らしき人々の声が聞こえてくる。


 「ここが……どこ?」


 状況がまったく飲み込めない。


 これがもし小説や漫画の世界なら、せめて「どこの世界なのか」ぐらい教えてほしい。神様、これってどういうことなの……?


 途方に暮れてあたりを見回していると、ふと目に止まったものがあった。


 レンガ造りの壁に、紙が貼られている。


 近づいてよく見ると、大きな文字で——


 《ゲレルハイム侯爵家 メイド募集》


 「……ゲレル……ハイム?」


 驚きに息を呑む。メイド募集の文字の下には、破格の給料が書かれている。


 異世界なのは、もう間違いない。でも……この名前、知らない。


 私の身なりからして、貴族どころか平民ですらない可能性が高い。


 「終わってる……」


 どうしよう。どうしたらいいの——?


 途方に暮れ、ため息をつきかけたそのときだった。


 


 「嬢ちゃん、ゲレルハイム家に行く気かい?」


 


 突然、低くてよく通る声が背後から響いた。


 ビクッとして振り返ると、そこには、いかにも「肉屋です」と言わんばかりの大柄な男が立っていた。


 ぶ厚い腕で巨大なイノシシを軽々と肩に担ぎ、エプロンには血の跡が飛び散っている。日に焼けた肌に、ギョロリとした目。口元には無精ひげが生えていて、見た目はちょっと強面だ。


 「え、えーっと……」


 どうしよう? 下手なことを言って、怪しまれたらまずい気がする。


 「……はい。」


 とりあえず、わからないけど話を合わせることにした。


 


 男は「ふーん」と興味なさそうに鼻を鳴らしながら、肩のイノシシをぐいっと持ち直す。


 「やめときな。」


 ぶっきらぼうに言い捨てられ、思わずまばたく。


 「……え?」


 「金に目がくらんだ老若男女が、どいつもこいつも辞めていったって話だ。メイド募集って言えば聞こえはいいが、実際は地獄らしいぜ。」


 


 地獄。


 その一言に、背筋がぞわりとした。


 「そ、そうですか……。そんなに酷いんですか?」


 喉が少し乾いているのを感じながら、なんとか問い返す。


 男は大げさに肩をすくめた。


 「あぁ。仕事内容は侯爵様の世話らしいがな。五年前は英雄だったかもしれねぇが、今じゃ見るも無残なことになってるらしいぜ。」


 英雄だった侯爵。でも、今は見るも無残な状態?よくわからないけれど、ただのメイド仕事じゃないってことはわかった。

 

 男は「まぁ、せいぜい気をつけな」と言うと、イノシシを担ぎ直し、そのまま市場の方へ歩いて行った。


 ……どうしよう。


―――———————

――—————


 私は町の石畳をとぼとぼと歩いていた。


 周囲では行商人が大声で商品を売り込み、子どもたちが駆け回っている。パンの焼ける香ばしい匂いが漂い、どこかの酒場からは楽しげな笑い声が響いていた。


 活気があって、人々は思い思いに暮らしているように見える。でも、私は——


 


 うーん、どうすべきか……。


 


 自分が誰なのかもわからない。


 手元にあるのは、わずかなお金と「ルーシー」と刺繍された布切れだけ。


 この世界がどこかも、何が起こったのかも、全然わからない。


 ——でも、お金がない以上、行くべきよね……侯爵家。


 メイドなんてやったことないけど、働けばひとまず生きていけるはず。


 それに……一回死んだんだし、もう一回死ぬ気でやってみよう。


 「はぁ……とほほ……」


 ため息をつきながら、私は重い足取りでゲレルハイム侯爵家を目指すことにした——。


――———————

―――――——

 侯爵家にたどり着く頃には、私はすっからかんになっていた。


 


 馬車代、高い!!


 それでも、道がまったくわからなかったので仕方なく乗ったのだけど、予想以上の出費だった。おまけに、朝から何も食べていない。


 お腹が空いて、力が出ない。ふらふらする。


 


 もう、死んでもいいわ!!


 


 ——そんなことを思いながら、目の前にそびえ立つ門を見上げる。


 


 ここが、ゲレルハイム侯爵家。


 荘厳な黒い鉄門。重厚な作りの門扉の向こうには、広大な敷地と立派な屋敷が見えた。


 ただならぬ雰囲気に気圧されながらも、私は意を決して門番の前に進み出た。


 


 「あのー……貼り紙を見て来たのですが、雇っていただけないでしょうか……?」


 


 門番は私をじろりと見下ろす。


 屈強な体つきの男たちが、槍を携えて門の前に立っていた。その鋭い視線に、思わず喉が鳴る。


 


 「嬢ちゃん、悪いことは言わない。帰りな。」


 


 低く、冷たい声。


 門番の男は、まるで追い払うように手を振った。


 


 帰りな?


 


 いや、無理無理無理!!ここで追い返されたら、私、本当に詰む!!


 


 私は思わず門番の前に飛び出し、深く頭を下げた。


 


 「お願いします!! 私、死んでもいいと思ってここまで来ました……!!」


 


 叫ぶような声だった。


 喉の奥が震える。


 門番は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに呆れたように鼻を鳴らした。


 「……物好きな嬢ちゃんだな。命は大事にしろ。」


 


 ダメだ、このままじゃ押し切られる!!


 


 あと一押し……何か説得できる言葉……。


 


 そうだ! 英雄!


 


 私は顔を上げ、強く門番を見つめた。


 


 「——あの英雄様が、酷いことになってるなんて……。」


 


 門番の眉がわずかに動く。


 


 「今の平和があるのは侯爵様のおかげなのに!!」


 強く言い切った。自分でも驚くほどの熱が、胸の奥から込み上げてくる。

 この国が今こうして平和なのは、戦争で英雄となったゲレルハイム侯爵のおかげ——

 だけど、その英雄は、今や誰もが関わることを恐れる存在になっている。


 「私は……侯爵様のために、いえ、この国の英雄のために、死ぬ覚悟できたんです!!」


 門番が、息を呑む音が聞こえた。


 


 そして——



 ぽろり、と。

 


 門番の目から、一筋の涙がこぼれた。


 「……嬢ちゃん……!」


 目を潤ませ、何度も何度も頷く門番。


 や、やった……?


 「そこまでおっしゃってくださるなら……今すぐギルクス様に確認を取ってきます!!」


 門番は感動した様子で、駆け足で屋敷の奥へと向かっていった。


 私はその場に立ち尽くしながら、ふうっと息をつく。


 なんとかなった……かしら?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ