1話目
鋭い怒声が響いた瞬間、私は反射的に身をすくめた。
介護していた男性の手が突然暴れだし、腕を振り払う間もなく、強い力が私の体を押し出した。
「——え?」
次の瞬間、ふわりと重力が消え、視界がぐるりと反転する。
落ちる。
そう理解した途端、背中に衝撃が走った。階段の硬い角が背骨を打ち、全身に電撃のような痛みが駆け抜ける。頭がガンッと弾かれ、視界が真っ白になった。
私……死ぬ?
朦朧とする意識の中、そんな言葉が脳裏をよぎる。
いや、待って……死にたくない。死にたくないのに……。
必死に手を動かそうとする。足を踏ん張ろうとする。でも、体が言うことを聞かない。
動いて……動いてよ、体!!
意識がふっと闇に沈み——次に目を開けた時、私は見知らぬ場所にいた。
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ぼんやりと霞んだ視界の中、まず目に飛び込んできたのは、石畳だった。
私は地面に座り込んでいた。手をついた床は、冷たくざらついている。
「……え?」
視線を上げると、目の前には見たことのない街並みが広がっていた。レンガ造りの建物が立ち並び、どこかヨーロッパの中世を思わせる風景。だけど、ここがどこなのかまったくわからない。
混乱したまま、無意識に自分の体を確認する。
まず、髪。
肩にかかるはずの髪の毛が、するりと背中まで伸びていた。
「……嘘、なんで?」
手で掴むと、黒髪は確かに自分のものだった。でも、明らかに長さが違う。こんなに伸びるまで、どれだけの時間が経った?
そして——服。
「……え、何これ……?」
体を包むのは、ゴワゴワとした粗末なローブ。チクチクするし、妙にダボダボしている。なんか、変な違和感が——
……!?
「えっ!? ノーパン!?」
思わず叫びそうになったが、慌てて口を塞ぐ。いやいやいや、待って待って。なぜ? どうして下着がないの!?
慌てて手探りで確かめるが、やっぱり何も履いてない。嘘でしょ!? これ、どうしたらいいの!?
パニックになりながら、傍に置かれていた布袋に目を向ける。これ、私の……?
震える手で中を覗き込むと、小さな硬貨が数枚と、くしゃくしゃの布切れが入っていた。
「ルーシー……?」
布の端には、そう刺繍されている。でも、それが何を意味するのかはわからなかった。
着替えもないの!?
自分の境遇がどんどん最悪な方向に転がっていく。どうしよう、どうしよう……。
混乱しながら、私はふと空を仰いだ。
——青く澄んだ空。雲が流れ、遠くから商人らしき人々の声が聞こえてくる。
「ここが……どこ?」
状況がまったく飲み込めない。
これがもし小説や漫画の世界なら、せめて「どこの世界なのか」ぐらい教えてほしい。神様、これってどういうことなの……?
途方に暮れてあたりを見回していると、ふと目に止まったものがあった。
レンガ造りの壁に、紙が貼られている。
近づいてよく見ると、大きな文字で——
《ゲレルハイム侯爵家 メイド募集》
「……ゲレル……ハイム?」
驚きに息を呑む。メイド募集の文字の下には、破格の給料が書かれている。
異世界なのは、もう間違いない。でも……この名前、知らない。
私の身なりからして、貴族どころか平民ですらない可能性が高い。
「終わってる……」
どうしよう。どうしたらいいの——?
途方に暮れ、ため息をつきかけたそのときだった。
「嬢ちゃん、ゲレルハイム家に行く気かい?」
突然、低くてよく通る声が背後から響いた。
ビクッとして振り返ると、そこには、いかにも「肉屋です」と言わんばかりの大柄な男が立っていた。
ぶ厚い腕で巨大なイノシシを軽々と肩に担ぎ、エプロンには血の跡が飛び散っている。日に焼けた肌に、ギョロリとした目。口元には無精ひげが生えていて、見た目はちょっと強面だ。
「え、えーっと……」
どうしよう? 下手なことを言って、怪しまれたらまずい気がする。
「……はい。」
とりあえず、わからないけど話を合わせることにした。
男は「ふーん」と興味なさそうに鼻を鳴らしながら、肩のイノシシをぐいっと持ち直す。
「やめときな。」
ぶっきらぼうに言い捨てられ、思わずまばたく。
「……え?」
「金に目がくらんだ老若男女が、どいつもこいつも辞めていったって話だ。メイド募集って言えば聞こえはいいが、実際は地獄らしいぜ。」
地獄。
その一言に、背筋がぞわりとした。
「そ、そうですか……。そんなに酷いんですか?」
喉が少し乾いているのを感じながら、なんとか問い返す。
男は大げさに肩をすくめた。
「あぁ。仕事内容は侯爵様の世話らしいがな。五年前は英雄だったかもしれねぇが、今じゃ見るも無残なことになってるらしいぜ。」
英雄だった侯爵。でも、今は見るも無残な状態?よくわからないけれど、ただのメイド仕事じゃないってことはわかった。
男は「まぁ、せいぜい気をつけな」と言うと、イノシシを担ぎ直し、そのまま市場の方へ歩いて行った。
……どうしよう。
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――—————
私は町の石畳をとぼとぼと歩いていた。
周囲では行商人が大声で商品を売り込み、子どもたちが駆け回っている。パンの焼ける香ばしい匂いが漂い、どこかの酒場からは楽しげな笑い声が響いていた。
活気があって、人々は思い思いに暮らしているように見える。でも、私は——
うーん、どうすべきか……。
自分が誰なのかもわからない。
手元にあるのは、わずかなお金と「ルーシー」と刺繍された布切れだけ。
この世界がどこかも、何が起こったのかも、全然わからない。
——でも、お金がない以上、行くべきよね……侯爵家。
メイドなんてやったことないけど、働けばひとまず生きていけるはず。
それに……一回死んだんだし、もう一回死ぬ気でやってみよう。
「はぁ……とほほ……」
ため息をつきながら、私は重い足取りでゲレルハイム侯爵家を目指すことにした——。
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―――――——
侯爵家にたどり着く頃には、私はすっからかんになっていた。
馬車代、高い!!
それでも、道がまったくわからなかったので仕方なく乗ったのだけど、予想以上の出費だった。おまけに、朝から何も食べていない。
お腹が空いて、力が出ない。ふらふらする。
もう、死んでもいいわ!!
——そんなことを思いながら、目の前にそびえ立つ門を見上げる。
ここが、ゲレルハイム侯爵家。
荘厳な黒い鉄門。重厚な作りの門扉の向こうには、広大な敷地と立派な屋敷が見えた。
ただならぬ雰囲気に気圧されながらも、私は意を決して門番の前に進み出た。
「あのー……貼り紙を見て来たのですが、雇っていただけないでしょうか……?」
門番は私をじろりと見下ろす。
屈強な体つきの男たちが、槍を携えて門の前に立っていた。その鋭い視線に、思わず喉が鳴る。
「嬢ちゃん、悪いことは言わない。帰りな。」
低く、冷たい声。
門番の男は、まるで追い払うように手を振った。
帰りな?
いや、無理無理無理!!ここで追い返されたら、私、本当に詰む!!
私は思わず門番の前に飛び出し、深く頭を下げた。
「お願いします!! 私、死んでもいいと思ってここまで来ました……!!」
叫ぶような声だった。
喉の奥が震える。
門番は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに呆れたように鼻を鳴らした。
「……物好きな嬢ちゃんだな。命は大事にしろ。」
ダメだ、このままじゃ押し切られる!!
あと一押し……何か説得できる言葉……。
そうだ! 英雄!
私は顔を上げ、強く門番を見つめた。
「——あの英雄様が、酷いことになってるなんて……。」
門番の眉がわずかに動く。
「今の平和があるのは侯爵様のおかげなのに!!」
強く言い切った。自分でも驚くほどの熱が、胸の奥から込み上げてくる。
この国が今こうして平和なのは、戦争で英雄となったゲレルハイム侯爵のおかげ——
だけど、その英雄は、今や誰もが関わることを恐れる存在になっている。
「私は……侯爵様のために、いえ、この国の英雄のために、死ぬ覚悟できたんです!!」
門番が、息を呑む音が聞こえた。
そして——
ぽろり、と。
門番の目から、一筋の涙がこぼれた。
「……嬢ちゃん……!」
目を潤ませ、何度も何度も頷く門番。
や、やった……?
「そこまでおっしゃってくださるなら……今すぐギルクス様に確認を取ってきます!!」
門番は感動した様子で、駆け足で屋敷の奥へと向かっていった。
私はその場に立ち尽くしながら、ふうっと息をつく。
なんとかなった……かしら?