9:母はつよいよ
不意にお腹を蹴られて、クロエは大きなお腹を両手で撫でた。
アイザックが連れてきた小さな女の子に反応している?
ステラはお世辞にも身綺麗とは言えなかったが、クロエは目が離せなくなっていた。
そうして、気付く。
ウィリアムも双子も家人たちも、ステラのその汚れた外見に皆な同じく訝し気な目を向けているのに、アイザックとクザンの目は、違う。
穏やかな優しい目だ。
今まで、人に対してそのような優しい目をした二人をクロエは見たことがない。
長男のアイザックはもとより、クザンは結婚前からの従者兼諜報員であり、軍籍時もスタンレイに嫁ぐ時も自分についてきた、クロエの片腕と言って良い側近中の側近で、この二人の事はクロエは誰よりも良く理解している。
更によく見ると、この二人だけではない。
クザンと共に、西の魔の森に入った救出部隊のメンバー達のステラを見る目が穏やかで優しい。
彼らをここまで変えるなど一体全体何者なのか?とステラを注視していたら、また、お腹を蹴られた。
なんだろう、あの子を行かせてはいけない。と、お腹の子に言われている気がする……。
侍女長のローズにステラの湯浴みを任せて、クロエは息子達の小さくなった服を保管しているクローゼットを侍女達と漁っていた。
彼女には息子しかおらず、女の子の服はないけれども少しでも可愛い服はないかと、掘り出し物探しが次第に白熱していく。
最初こそ「あのような浮浪児に若様達のお下がりなど……」とこぼしていた彼女達も、次から次に出てくる質の良い可愛らしい子供服に当初の目的は忘れているようだ。
そうして見つけた、淡いクリーム色のふわふわの襟付きシャツと暗青色のバルーンパンツをローズの元に届けさせたところで、クロエは振り返った。
「どうしたのウィル?」
「君が早々にあの子を受け入れた、その理由を知りたくてね」
ドア付近に佇んでいたウィリアムはクロエに近付くと、その手を取って指先に唇を落とした。
「アイザックが笑うなんて、それだけでも十分では?」
「あれは―――びっくりしたな。だが、それだけで、君は動かないだろう」
自分を誰よりも知る愛する夫君の鋭い指摘に、クロエは隊を率いるリーダーの様な目をウィリアムに向けた。
「あなたこそ、何か理由があるのでしょう?」
例え本当にアイザックの命を救っていたとしても、ただそれだけでスタンレイの門を通すなど、ウィリアムが許すはずがない事は知っている。
「私は、あの子が手にしていた、剣だ。結論は出ていないがね」
君は?と問うウィリアムにクロエは不敵に微笑む。
「あの子に関わった者達の、目です。それと―――」
一度言葉を切り、クロエはお腹を撫でた。
「この子です」
「どういうことだ?」
「それは後で……二人で答え合わせをしましょう、ウィル」
そろそろ食事の準備が整う頃合いなので一緒に行きましょう。とクロエはウィリアムの腕を取って応接室に向かった。
さて、アイザックの真眼はどんなものか。
生まれてからこれまで、人への興味が全くなかったアイザックが初めて連れて来た相手だ。ステラがどのような人物であるか見定める。なんとはなしに愉快な気持ちで応接室の扉を開いたクロエは、ここ最近で一番のびっくりを味わってしまった。
侍女達も警護の騎士達も、その場の誰もが目を剥いてただ一点を見ていた。
クロエの隣に立つ、ウィリアムですら例外ではない。
応接室のソファーにちょこんと座る美幼女が、そこに居た。
青を映す銀の髪に深いアメジストの瞳。
透けるほどの白い肌をした美しい子供が、アイザックと並んで静かに二人を待っていた。
恐ろしいまでの至高の一対。
それを狙ったわけではないが、チョイスした洋服のカラーは、アイザックのプラチナの髪と暗青の瞳の色に近かったため、一対感が爆上がりだ。
ドア付近で固まる侯爵夫妻に、湯浴みを担当した侍女長ローズが大慌てで駆け寄るとクロエに声を上げた。
「丸洗いのみで驚きの白さです!!」
あの子を洗濯でもしたんですか?と問いただしたくなるのをクロエは抑えた。
興奮に鼻の穴が膨らんでいる有能な侍女長は、自分が今何を言っているのかわからない程の混乱の中にいるのだろう。
しかし、驚きの白さよりも驚くべきは、その美しさだ。
このまま育てば傾国の美女になること間違いなしだ。
先程までの姿などもはや一同の記憶から吹っ飛んでしまっていた。
クロエがぽかんと開いてしまう口元を右手で抑え至高の一対を凝視していると、それに気付いたのか振り向いたステラが、深いアメジストの目を突如大きく見開いた。
「……え?」
明らかに自分を見て驚いている。
驚いているのはこちらなのに、驚きすぎたのかしら。と心を落ち着ける為に深呼吸をしだしたクロエの元に、ステラは走り寄ってきた。
「医者と魔法師を呼んでください」
クロエの直ぐ傍まで来たステラは、慎重な手つきで彼女の大きなお腹に両手を当てた。
「このままじゃ、ふたりとも危ない――――アイザック!」
ステラに付き従いすぐ隣に立っていたアイザックに、彼女はなにやら早口で捲くし立てている。その言葉に呼応するようにアイザックはウィリアムにステラの言葉を短く伝達しているようだ。
「母上とお腹の子が危険だそうです」
「何がだい?この屋敷にいて危険など――――」
「ステラが言うには、お腹の子が魔力暴走を起こす兆候が見えると、それに陣痛が重なって―――」
ウィリアムは最初何を言われているかわからない素振りだったが、一度クロエに視線を向けるなり、血の気を落とし青い顔になった。
それらが自分の目の前で繰り広げられているというのに、言葉も音も、何もかもが、クロエの耳には届いていなかった。
気が、遠くなる。
視界がぐにゃりと歪み、全身を襲った突然の痛みにクロエはそのまま意識を手放した。
◇◇◇
身体を引きちぎられる様な痛みの中に、クロエはいた。
出産は、3度目。
双子の出産だった前回だって、こんな痛みはなかった。
陣痛とは違う、今まで体験したこともない全身を千切られるような、焼かれるような痛みが波のようにクロエを襲い続ける。
意識は自分の体に戻らないが、周囲の声は耳には入ってきていた。
身体の外から、自分を見ているような感じだ。
「お腹の子の魔力暴走を抑えないと……前に見たことがある。魔法師と医者はまだ?!」
ステラが声を上げている。
アイザックが周囲の大人の言葉を無視しこの場に連れてきたステラは、誰一人、何もできないこの状況の中で、ただ一人、痛みと戦うクロエの盾となり剣となってくれていた。
胎児の魔力暴走を抑える術は今のところ無いと言われている。
まだ生まれる前のお腹の中の胎児は、魔力属性も測れず、無理に抑えようとすれば母体にも多大な影響を与えるためだ。
強い魔力を有する血筋に、千人に一人程の確率で起こると言われている胎児の魔力暴走だが、まさかクロエの身に降りかかるとは、スタンレイ家の誰もが思いもよらない事態だった。
アイザックよりも幼い子供だというのに、魔法師でも手出しが出来ない胎児の魔力暴走をステラが抑えてくれているのが、わかる。
力をくれる。
頑張れと、光を、くれる。
遠のく意識の中で、ステラのくれる光だけが、クロエをここに引き留めてくれていた。
『…………こわい……よぉ』
子供の声がする。
ああ、お腹の中の私とウィルの子だ。とクロエは気付く。
助けてあげたいのに、今の自分には、何もできなくて―――。
「ふたりとも頑張って!!絶対大丈夫!!」
ステラの声だ。
小さな両手がお腹に触れた。
あたたかい光がクロエのすべてを照らしたその時に、赤ちゃんの産声が世界に響き渡った。
◇◇◇
「答え合わせをしようか、クロエ」
産後の体調も良く、庭とつながるサンルームで紅茶のカップに口を付けていたクロエは、右隣に座るウィリアムの言葉に小さく笑った。
「答え合わせはもう不用です。ステラは、私の娘です。もうそれは揺るぎません」
4男ジョシュアの出産から1ヵ月。
クロエはアイザックとタッグを組んで、ステラを養女とすることを決めていた。今日はすでに5度目となる直談判をこのサンルームにて行っている。
「君とジョシュの命を救ってくれたんだ。気持はわからないでもないが、あの魔力も含めて、問題があってね」
「ステラの素性が全く取れないことですか?」
「わかってるじゃないか」
この一か月間、スタンレイの闇部隊総力を挙げてステラの調査を行った。
表も裏もすべてだ。
だというのに、ステラの事でわかったことはない。貧民街では生まれや育ちがわからないことは多いが、ステラの場合、存在の痕跡自体が何も残っていなかった。
6歳の子供がここまでキレイに自分の痕跡の何もかもを残さず生きるなど、出来るはずもない。
「6ヶ月周期で、森と貧民街を行き来してたと聞いています。森の拠点は変えなかったようですが、貧民街は常に場所を移動していたと」
クロエの左隣に座るアイザックがウィリアムに顔を向け告げる。
「それにしても、何ひとつ痕跡が落ちていない。うちの闇部隊の総力を上げての調査だぞ」
「ステラの話では、5歳まで育ててくれた『師匠』が姿くらましを掛けてくれたと言っていました」
「この外見だものね……姿くらまし位かけておかないと、人買いに攫われるのが見えていたのでしょうね」
クロエはテーブル脇の大きなソファーで寝息を立てているステラを見つめた。
その腕の中には生後一か月でかなり丸々したジョシュアが、ステラと同じく気持ちよさそうな寝気を立てぐっすり眠っていた。
一か月かかってやっと、クロエたちが居てもステラは眠る姿を見せてくれるようになった。
誰かの気配があると眠れない。と言って緊張を解かなかったステラが、こうして自分の傍らで眠る姿を見せてくれるようになったことが、クレアにはとても嬉しかった。
「あの剣の所持者だったという、師匠……ね」
その師匠とやらの素性もまったくわからない。と眉をしかめるウィリアムに、クロエは面白そうに笑った。
「スタンレイの総力を以てしてもわからない人間がこの世に二人もいるなんて、凄いわね」
「笑い事ではないよ」
不貞腐れたように手元の紅茶を一気に煽るウィリアムに笑いながら、クロエはサンルームの扉付近で護衛の任に就いているクザンに視線を流した。
「貴方達はあの子の何に、心を許したの?」
「う――――ん。強いて言うならば、肉祭り。でしょうか?」
「………にく?」
「ええ。ステラ様が焼いてくれたディトーの肉焼きは最高でした。な?」
クザンが自分の隣に並ぶ、自分と同じくスタンレイ一家の護衛に就く若手騎士ネイトに話題を振った。
「同じ釜の飯を食うと連帯感が生まれるとか言いますが、あの肉祭りは本当に最高で、ステラ―——様との肉会は楽しかったデス。若様がうらやましいです」
クロエは「肉祭り」という理解を超えたクザンとネイトの話に笑うしかなかった。
「アイザックが何故うらやましいの?」
「だってですね奥様。若様は3食もあのうまい肉食ったって」
「ネイト。言葉使い」
クザンに頭を小突かれ背を正すネイトを見ながら、ウィリアムがまだ機嫌の直っていない寄せられた眉のまま彼の長男に「そんなに美味かったのか?」と尋ねた。
「僕が今まで食べた肉の中で、一番美味しかったです」
「ディトーの肉ってどうやって調達したんだい?」
「———さあ?僕はステラが焼いてくれた肉を食べただけですので」
アイザックが右眉だけをほんの少しだけ上げて話している顔を見て、クレアは「これは何か隠しているな」と察した
ステラと出会ってからのこの短期間で、アイザックの表情が少しだけ動くようになった事を、母親であるクレアは気付いているが、ウィリアムはまだそれを知らない。
本当にほんの少しではあるけれども、感情を表すようになった長男のこの変化は確実にステラによるものだ。
「それで父上。一体いつになったら正式にステラを養女にしてくれるのですか?」
「ね?」
愛する妻と長男の猛攻に降参するように両手を上げたウィリアムだったが、その日も最後まで首を縦に振ることはなく、クロエとアイザックは次の作戦行動に移ることを決めた。
当初アイザックとの二人だけのミッションと考えていたクロエに、クザンとネイトがミッション参加の名乗りを上げた。
二人の年俸をクロエが上げたことは言うまでもない。