89:セオドアの目覚めは最悪です
ステラが自分の名を呼んでいる。
セオドアは重い瞼をゆっくりと開く。
そこは真夜中の様に暗い王宮の王の間で、辺りは静寂に満ちていた。
月明かりも、星明りもなく、辺りは真っ暗闇だ。
誰の姿も見受けられない。
自分が、どうしてここに立っているのかすら、セオドアにはわからない。
ステラに名を呼ばれて目を開いたと思うのだが、こんな暗闇の王の間に、ステラがいるわけもない。
ステラ――。
真の名は、ステラスタ。
夜空に一番に輝く星の名を持つ、誰よりも美しい人。
初めてステラに出会った時、セオドアは一目で恋に落ちた。
自分は幼く、ステラはもっと幼かったけれど、セオドアにはわかった。
彼女が自分のただ一人の人であると。
物心ついたときからずっと、耳が拒否するくらいに父上に聞かされた、「マブダチトリオの協定」も何も関係はない。自分はステラを好きになった、ただそれだけだ。
第一王子という立場上、幼い頃から、婚約者選定で数多くの令嬢と対面してきた。そして、それ以上の数の令嬢が、家柄・見目・能力など、王家に見合うかどうか審査に掛けられていたことも知っている。
だが、セオドアの目にはあの時からもう、冬晴れの雪原に凛と咲き誇る冬薔薇みたいなステラ以外、目には入らなくなった。
ステラが貧民街出身である事から、次期王太子妃には見合わないと外野は騒いだが、それは些細なことだ。自分と父上が本気で声を上げれば、何の障害にもなりはしない。
父上は自分の味方だったので、ステラが現れた瞬間から、自分の婚約者選定は完全ストップし、ターゲットはステラのみとなった。だが、ステラを婚約者に決定することはなかなか出来なかった。
唯一にして最大の鉄壁の壁が、自分の望みを、阻み続ける。
アイザック・ヴィンセント・スタンレイ。
幼い頃からの親友にして側近である、ステラの義兄。
アイザックは、ステラとの初めての対面の時から、絶対にステラを離そうとはしなかった。自分の膝の上にステラを抱き込み、「僕の妹」と指一本触れさせてくれない。
いつも、いつもいつもいつも―――!
アイザックは、セオドアの元からステラを連れ去ってしまう。
ステラにだけ見せる笑顔で、ステラの視線を奪ってしまう。
知っている。
ステラは、アイザックだけを見ている。
ステラだけをずっと見てきた、自分だからわかる。
アイザックが、憎い。
アイザックから、ステラを奪いたい。
自分自身ですら知らなかった、心の暗闇が膨らんでいくのがわかる。
どんどん膨らんで、増殖して、躰の末端までが黒く淀む。
【邪魔者など、殺してしまえばいい】
暗闇よりも暗い、真っ黒な何かが人型になってセオドアの目の前に立っていた。金色の光がふたつ、爛々と輝いている。光を思わせる金色なのに、獲物を見つけた蛇の目のような、邪悪な、すべてを呪い尽くすかのような、穢れた色に見える。
真っ黒な人型が自分にまとわりついて、ねっとりとした闇に捕らわれる。腕も足も、全身が―――。底なし沼に沈み込む様に絡め捕られて、堕ちてゆく。二度と浮き上がれない、闇の世界へと……。
「―――殺す……アイザックを……?」
憎くて憎くて、どうしていいかわからない位、胸の中に憎しみが渦巻いて、マグマみたいに火を噴きそうだ。でも、アイザックは、大切な友達だ。良くも悪くもすべてをさらけ出せる、唯一の……。
【君の星を、手に入れたいのだろう?】
ステラをどうしても欲しいという自分の心に、暗闇がするりと忍び込んできた。
【欲しいなら、奪えばいい。その為に、邪魔なものは、消せばいい。力が欲しいなら、貸してあげるよ?】
「奪う―――邪魔者は、消す……?」
【そう。消せばいい】
ああ、これは、悪魔のささやきだ。
金色の双眸が、自分を獲物と定めている。
じわりじわりと近付いてくる、金瞳の闇の魔物が、今にも自分を喰わんとして、唇を捲り上げて、笑んでいる。
【私の手を取れ。そうすれば、君は、邪魔者を消し去る、力を得る】
ほら、見て?
君の大嫌いなアイザックがすぐそこにいる。
悪魔のささやきに引かれるように、剣を握り、アイザックの首を狙う。
まるでマリオネットの様に糸を引かれ、ただ、アイザックの命を狙う。
アイツを殺せば、ステラは自分のモノになる。
ずっと手に入れたかったステラを、抱き締めることが出来る。
ああ。心が高揚する。
こんなに簡単なことだったのなら、もっと早く、アイザックを殺せばよかった―――。
アイザックの剣が煌めく。
いつもなら見えない、剣筋までも、手に取るように見える。
ああ、お前の心臓が見える。
あそこに、白刃を突き立てれば、ステラは、自分のモノになるのだろうか?
【――そう、あのなによりも目障りな銀の竜の、命を奪うのだ】
金瞳の闇の魔物のささやきが耳元で響いた、その時だった。
暗闇を切り裂く、真っ白な風が、目も耳も開けていられない程の風切り音を立て、疾風の様に吹き荒れた。
――……セオ。
ステラの、声がする。
ステラが自分の名を呼んでいる。
「……兄上。ここぞとばかりにセオを蹴らない」
「お前の膝枕など、勿体ないが過ぎる。その辺の瓦礫に頭を乗せて放置しておけばいい」
「兄上っ」
めっ!と、子供を諭すようなステラの声が聞こえて、それから、アイザックの小さくない舌打ちと溜息が聞こえてきた。
膝枕だとっ?
ステラの膝枕だなんて! 誰がそんな羨ましい目に合っているのだ?!
意識が急速に浮上するのがわかる。
あんなにもねっとりと自分を絡め捕っていた闇が、一瞬にして消え去り、二度と光を見ることは叶わないと思っていた瞼の先に、あたたかな眩い光がある事がわかる。
薄く開いた瞳の先に、青空を映した雪の原のような銀色の髪が、さらりと音を立てて降りてきた。
「……ス……テラ?」
目の前直ぐの距離で、ステラが目を瞬かせて安心したように小さく笑った。
え、これは、どういうことだ?
後頭部に感じるあたたかな温もりは、もしかして、もしかするのか?
「良かった。その顔は、いつものセオだな」
「―――ステラ」
ステラの膝の上に抱かれ、美しいアメジストの瞳が目の前にあって、セオドアは目尻に涙を溜めながら、そっとステラの頬に手を伸ばした。
「触れるな。ステラが減る」
べしっ!と物凄い早業で手を叩き落とされて、勢いのまま、ステラの膝の上から蹴落とされた。……アイザック。やはり、闇に飲まれた勢いのまま、殺しておけばよかった。
負けるか!
ここで引けばいつもと同じだ。
闇に捕らわれた自分を救った女神に、今日こそは思いの丈を告げる時!
現状の状況など何も考えず、全身の筋肉を総動員し、一気に飛び起きたセオドアは、ステラの前に片膝を突き、その手を取るなり口元に引き寄せた。
「ステラ。どうか、俺と婚姻を結んで欲しい!」
「残念だったな、セオ」
バチンッ!! と骨が折れそうな馬鹿力で手を叩き落としてきたアイザックが、これ以上ない程に勝ち誇った顔で、セオドアを見下げてきた。
「ステラは先刻、俺の求婚を了承してくれた。これ以上の横恋慕は、許さん」
見た事もないドヤ顔のアイザックの後ろで、ステラが眉間を抑えて顔を伏せる。
耳が―――真っ赤である。
「「「はああああああっ?!」」」
セオドアを含む叫び声は、みっつ。
ひとつは、瓦礫の中から飛び起きたレオナルド……。
もうひとつは―――。
「兄上の求婚?! ステラ!まさか、受けたのか?!」
どこから現れたのか、スタンレイ侯爵家三男である双子のネイサンの声が、ここ一番の大声大賞を受賞した。




