83:盤上遊戯3
スタンレイ領地の浮島別邸で、留守番組はステラの残したチェス盤を睨み据えていた。現当主ウィリアムの不在に、陣頭指揮に立った女主人クレアの指示の元、着々と守護陣営が整えられていく中で、姿を消した人員が一人。
「ネイトのヤツ……やはり無断で付いていったか」
「ネイトはステラの剣であることを生涯の誓いとしていますからね」
だから許したんですよ。という母の言葉に、ネイサンは表情を歪めた。
ネイサンとて、ステラと共に行きたかった。けれど、剣にしても魔術にしても自分がまだステラに並び立てないことは、自分自身が一番理解している。足手纏いにも、足枷にもなりたくなくて、我慢しての留守番部隊に甘んじているが、ネイサンはソレを完全に納得したわけではない。
ネイサンは初めて、ネイトが羨ましいと思った。
ネイトは、ステラの背を守ることができる。
ネイトが、ステラが幼い頃からずっと、ステラの後ろで、ステラだけを見つめ、ステラだけを守っていたことを、知っている。何故なら、自分が見つめるステラの傍らには、常にネイトがいたから。ネイトの目には、ステラしか映っていないことに気付いたのは、いつのことだったか……。
唇を噛みしめ拳を握りしめて、もっと鍛錬していれば……と、自分の不甲斐なさを悔やむネイサンの前で、何やら腕を組んでうんうん唸っていたビアトリスが、ふとその白魚のような指先で、チェス盤の駒をつまみ上げた。
「即時キング戦はあり得ないはずですので、前哨戦は―――氷鬼軍曹殿と、恋敵様のこの辺りかしら?」
ビアトリスは躊躇もせずに、敵陣営のスタンレイ家次男レオナルドの黒い騎士の駒を一つ前に進めた。
「お姫様がなんで駒になってるか意味が分からないけど、兄上とセットで動くステラの優しさに付け込んで、ダブルで来るかもね」
イーサンがビアトリスに続き、レオナルド(ナイト)の駒横のお姫様(ルーク)の駒を一つ前に進める。
「ステラはレティシアなんか相手にしないわよ」
「赤狐の言う通り。ステラは無用な殺生はしないから、気絶でもさせて潰してポイ捨てすると思うけどさ。ならこのお姫様。なんでここにいるんだよ?」
実況見分を始めるビアトリスとイーサンに、真打がぴょこりと顔を出して、まだかわいらしい手で、するりと味方陣営の白い戦車の駒を一つ進める様に、ネイサンは目を見張るしかなかった。
「レオ叔父様とお姫様は、兄上と姉上に確実に当てて来るでしょうね。魔塔主様が迎えに行ったカール様とやらが到着するまで、ベルトラン様が凌ぐのを先読みされているとしたら、間違いなくお姫様が出張って来るでしょう。ウィスラーの兄妹喧嘩には、是が非でもベルトラン様に勝って頂かないといけません」
末っ子ジョシュが、ステラには見せた事のない策士の顔で、にやりと不敵に笑んだ。
「末っ子が黒くて怖い……どう見る?赤狐」
「ジョシュ様はステラが絡むと容赦がなくなりますからね。鬼双子より、確実に氷鬼軍曹殿似でいらっしゃいます。それに、その読みは大当たりだと思いますわ」
イーサンとビアトリスとジョシュは、チェスが強い。
どちらかと言えば得手ではないネイサンは、三人の考察を黙って聞いているしかない。三人がうんうん頷き合って、あーでもないこーでもないと、駒を指差していたその時、「あ」と声が上がったのは三人同時で、その声に引かれチェス盤に視線を落としたネイサンも、ソレに気付いて目を見開くしかない。
「「「「ポーンが動いた!」」」」
敵陣営の黒いポーンが二駒動いた。それと同時に、味方陣営の白い騎士二駒もだ。
「どうして、勝手に駒が動きますの?」
「キモっ!」
ビアトリスとイーサンが驚きの声を上げる中、末っ子ジョシュは冷静だった。
「お祖父様!闇っぽい魔力が微量ですがチェス盤に!」
ジョシュの声に振り向いたヘルベルトよりも早く、チェス盤を覗き込んだ精霊神シセルが、はあ~っと溜息をついて、憎々しげに寄せた眉間を指で伸ばしながら声を漏らした。
「僕に、見せつける気だな」
「どういうことですか?」
シセルの言葉に同じく眉を寄せたヘルベルトに、シセルは白刃を思わせる鋭い顔つきで口を開いた。
「僕がここの守護に付いていることを知ったうえで、王宮の戦況を見せるため、魔力を飛ばしたんだろう。ステラを手に入れるところを、僕に、見せつける気なんだ」
ちっと舌打ちするお行儀の悪い精霊神に、ヘルベルトの顔が歪んだ。
「スタンレイの守護魔法と、精霊神殿の護法をもすり抜けて、魔力を行使していると―――?」
「そういうことだ。ステラの読みはやはり正しい。あのまま、ここにステラが留まっていたら、一気に攻め落とされていたろうね」
同じ創世の古代三神であるのに、精霊神の護法をも破る、闇の神たる闇の魔人の予想を超えた巨大な力に、ヘルベルトが拳を握りしめる。
「闇、というか、『影』は、光があるところには必ず出現するからね。そこを触媒にして、アイツはするりと魔力を紛れ込ませることができるから、完全防衛は難しいんだ」
大人達が闇の魔力の防衛に関し話している間に、末っ子ジョシュは少しづつ動くチェス盤の駒をじっと見つめて、すいっとネイサンを見上げてきた。
「兄上と姉上に対する以外の敵陣営のポーンも、動き出してます。アイザック兄上はまだ、ビー様の兄様を釣り上げていませんから―――総じて、こちらの手駒が足りない状況です」
小さいが、ネイサンに聞こえるボリュームで呟いてくるジョシュに、ネイサンが不敵に笑った。
ネイサンにはジョシュが言わんとすることが、読み取れていた。
ジョシュだって例外なく、ステラを守りに行きたいが、自分では確実に役不足であることを理解している。だから、自分の代わりに、と、ネイサンにキツイ目を向けてきているのだ。自分は行けないが、ネイサンならば―――っと。
「お祖父様。味方の手勢がどうみても足りません!僕を行かせてください!」
「っおい!ネイサン?!」
右手を大きく掲げるネイサンにイーサンが声を上げ、大人たちが顔を顰める。
「駄目だ。ネイサン……お前には、危険すぎる」
「敵陣営のポーンが動いてます。近衛レベルのポーンなら問題なく対応できますし、僕が、まだ一介のただポーンだとしても、実戦で昇格してナイトになってステラを守ります」
「ネイサン―――っ」
「行かせてあげましょう、お義父様」
ヘルベルトに食い下がり、何としてでもステラのもとに駆け付けたいネイサンに、予想外の味方が現れた。静かに語るクロエの声に、ネイサンの顔が輝き、ヘルベルトの顔は曇った。
「ネイサンもまだ若いとはいえ、次代のスタンレイを担う騎士ですもの。実戦経験が積めるチャンスは、掴ませてあげた方がよろしいでしょう?」
「クロエ、しかしだな」
「ネイサンの顔を見て下さい。止めても無駄ですよ」
クロエの言葉に、ネイサンは真っ直ぐにヘルベルトを見つめた。「どう止められても何としてでもステラのもとに行く」と決意に燃えるスタンレイの蒼瞳に、遂にヘルベルトは折れた。
「―――条件がある」
「飲みます!」
食い気味に返答するネイサンの本気に、孫息子の成長を見たのか、微かに口元を上げたヘルベルトが、ため息交じりに口を開いた。
「カールを迎えに行ったカイをもう一度呼び寄せるから、お前は、カールとカイと共に行け。この条件が飲めなければ、私の総力を以ってここに拘束する」
「了解しました!準備してきます!!イーサン!ここは任せるぞ!!母上!ありがとうございます!!」
脱兎のごとくの速さで自室に消えるネイサンを見送って、クロエは誇らしげな笑顔を浮かべ、ヘルベルトの背を叩く。ネイサンがスタンレイの騎士として立つ日が来たのだ。
ネイサンの残像を感慨深げに、それでいて寂し気な見つめるイーサンの顔を、ビアトリスが覗き込む。
「鬼双子兄?」
「僕と、ネイサンは―――道が分かれたなって……いつも一緒だったから、なんというか」
何を言っているの?と首を傾げたビアトリスの真っ赤な髪が、ふわりと揺れた。
「鬼双子弟は鬼双子弟。イーサンはイーサンですわ」
ビアトリスの言葉に虚を衝かれ、イーサンはぱちぱちと瞬いた。そんなイーサンの姿に更に首を傾げて、ビアトリスが「むむむ」と眉を寄せた。
「私、何かおかしなことを言いましたかしら?」
「……いや。正しいことを、言ってくれたんだけど……。初めて、名前を呼ばれたから」
「え?あ、あら……そうでしたかしら……」
ぽっと頬を赤らめるビアトリスに、イーサンが小さく笑った。
「髪も顔も真っ赤だぞ。ビー」
「ビー……って、貴方にはまだ、愛称呼びを許可した覚えは―――っ」
「どんどん真っ赤になってるぞ?」
「う、煩いですわよ!貴方だって赤髪じゃないですか?!」
「僕のは染めてるだけだよ。ビーの見事な赤髪には負けるよ」
「まっまた、ビーって、呼びましたわね?!」
赤髪コンビの微笑ましいやり取りに「あらあら」と嬉しそうに頬を緩めるクロエの前で、一番の子供である筈の末っ子ジョシュが、顎に手をやり小さな呻きと共に、チェス盤の駒の動きを読んでいた。
「……両陣営のキングとクイーンを何かしらで足止めして、黒のナイトを全て兄上にぶつけて来る気ですね。黒ポーンも寄せて来てるので―――兄上が、レオ叔父様とセオ王子をうっかり殺さなければ良いのですが……」
「……お前がこの場で一番冷静だな、ジョシュ」
ヘルベルトの声にも動じず、大人びた仕草で腕を組んで、ジョシュが敵陣営の空席の駒を指さした。
「セオ王子の隣の騎士と戦車……動きもなく空席なのが気になります。もしかして、とは、思うのですが―――」
「―――ジョシュ。お前の読みは先見の明がある。見解を教えてくれ」
ヘルベルトの言葉に、ジョシュは一瞬表情を曇らせて、口を開きかけては閉じるという仕草を繰り返し、四度目に微かに唇を噛み締めながらやっと言葉を紡いだ。
「―――創世の闇の魔人は、黄泉の世界を統べる神ですよね?」
ジョシュの変声期前のボーイソプラノの声に、シセルが「まさか」と声を上げた。