80:末っ子ジョシュの優勝
どこから現れたのか聞きたくなるが、ネイト……。
こんなお前を見るのは初めてで、私とキタラどうしたらよいか、わからない。
高く抱き上げられて、腰に回した腕できつく抱き締められたまま、腹に埋まるネイトのアッシュグレーの髪を撫でて、ステラはそっとその頭を抱き込んだ。
「……ネイト」
「…………」
思い返せばネイトとは、兄上と初めて出会った西の魔の森からの、長い付き合いとなる。
ネイトは、クザンさんと共に、兄上救出の為に森に入ったスタンレイ騎士団の一人で、私がスタンレイに身を置くことになった6歳の時から、常に傍に付いてくれた守護役で……。
ネイトが自分を想う気持ちは、自分が思うよりも深いものであることを、ステラはこの時、初めて知った。
「―――心配かけた」
「―――うん」
ネイトの「うん」には、ありとあらゆる感情が、含まれているのがわかる。
ごめん。と続けようとして、はたっとステラは気付いた。
……兄上の、こちらを睨みつける目の鋭さと殺意が、尋常ではない。
例えるならば、敵とする一個連隊を壊滅すべく睨みつける最終兵器の目、というか、なんというか……。
うっかりネイトの頭を抱き込むなんて、兄上には見せてはいけない姿を晒してしまった。
このままでは、ネイトが選択出来るのは……氷漬けコースか、首を落とされるコースの、二択しかない。
この状況は、大変に宜しくないので、何とかせねばならない。
アイザックの刺すような冷気の気配に、ステラは焦ってネイトの頭から手を離したのだが、伏兵がまだいることを忘れていた。
「「ネイト!!ステラを離せっ!!」」
「鬼双子!ステラを引っ張らないで!!」
「姉上?お加減は如何ですか?お辛いところなどありませんか?」
「……ネイト。気持ちはわかりますが、ひとまずステラを下ろしなさい。そろそろ、うちの長男に殺されますよ?」
半裸の双子とビアトリスとジョシュと母上が、ネイトに抱き上げられたままの私に飛びついてきた。
「アイザック!ネイトを凍らせるのは後にしろ。後でなら、何年氷漬けにしてもよい!ベルトラン、コイツを止めろ!私の手にも余る!」
「―――はっ、はい!ア、アイザック、やめ」
「は?お前が、先に氷漬けになりたいのか、ベルトラン。いい度胸だ」
お祖父様とベルトランは、兄上を押さえに入っているのか、火に油を注いでいるのかわからない……。
「首尾は?」
「順調です」
精霊王シセルと何やら打ち合わせを行っている、ポンポンのついたナイトキャップを被った、黒髪の長身の男性は、一体誰なのだろうか?
黒地に星が散るデザインの可愛らしいナイトキャップとお揃いの寝着を着た、明らかにここに集う一同の中で浮いているその人の姿に、何故だろうか、懐かしさが湧き上がってくる。
ステラは男を黙って見つめ、こちらに振り返ったその顔に、遠い過去の記憶が蘇り、目を見張った。
緩い癖のある黒髪に、深いブラウンの穏やかな瞳。
自分を見つめる柔らかい微笑みに、見覚えがある気がするのは、気のせい―――ではない。
幼い自分と師匠の下に度々訪れては、自分たちを含めた貧民街の救済を行ってくれた、第二の師匠とも呼べる優しき人。
「カイ?!」
ステラはネイトの腕の中から飛び降りると、シセルの隣で、自分に両手を広げる黒髪の男に飛びついた。
「どうしてっ、カイがここに?!」
「会いたかったよ、ステラ。本当に美しく成長したね?」
魔塔主カイ・フォーダムはそのブラウンの瞳を潤ませて、腕の中に飛び込んできたステラを強く抱き締めて、その存在を確かめるように頬を摺り寄せた。
「ああ……ステラだ。やっとステラを抱き締められるよ」
最後にカイに会ったのは、師匠が息を引き取る一か月前……師匠が倒れて、もう立ち上がることも出来なくなって、師匠との別れを、私が覚悟した時だった……。
「もうずっと会えなくて……私の事は、忘れてしまったんだと……」
「そんなことっ!あるわけないだろう!!ステラは、リアム同様、俺の娘も同然なんだから!!」
「じゃあ、どうして……師匠が亡くなったとたん、カイは、会いに来てくれなくなったんだ?」
決して楽ではない日々を過ごしてはいたけれど、師匠とカイがくれるあたたかさと温もりは、私の心に、いつも光を灯してくれていた。
師匠を失い、カイの温もりも失って、心が、闇に囚われそうになったことは、両手の指の数では足りない。
もしもあの時、西の魔の森で、兄上と出会うことが出来なかったら、私は、この場に存在することは出来なかったかもしれない。
あたたかくて優しい大切な家族と家人、そして初めてできた女友達も、兄上がいなかったら、きっと出会うことは出来なかったと思う。
兄上……兄上が私を見つけてくれたから、今の私が、ある。
その兄上と自分が、何度も生まれ変わりながら、ずっとずっと、一緒に生きてきたことを知って、それが、何よりも幸せで、この幸福と幸運を、どう兄上に伝えたらと、それを考えだしたら、心臓がどきどきしてきた。
「リアムの守りの護法が途絶えた瞬間から、ステラが見えなくなった……。俺でも太刀打ち出来ないほどの黒い魔力が、世界から君の存在を隠してしまったのだと、思う。恐らくは―――」
「アイツが、君の魂にかけた黒い幽囚の呪いが、リアムの護法が消えた週間から、発動したのだろうね」
シセルの言葉に、アウレウスの本気を理解する。そこまで、私の魂を求めていることは、あの異常世界に囚われた時に、感じてはいたけれど……。
と、そこまで考えた時だった。
体が持ち上げられる感覚に視線を上げたら、あっと声を上げる間もなく兄上に子供抱っこされていた。
あ……。兄上が、お怒りです。
しかし、助かりました。
兄上の冷気で、心臓のどきどきが、少々なりとも治まりましたので。
抱っこされていることは、今は横に追いやります……。
気にしたら……真っ赤になって湯気を吹いてしまいそうなので。
おう……兄上……ピンポイントでの威嚇はお止めください。
カイは、一言で説明するならば、師匠や父上に近い存在なんですってば。
「―――ステラに触れるな」
―――兄上……氷の覇気まで出してますね?
これ、普通の人間だったらば、気絶するヤツですから!
「あ、兄上!待って!本題が全然まだ進んでないっ!」
くるりと皆に背を向けて、どこぞに私を連れ去ろうとする兄上を、必死に止める。
ココに皆を集めた目的を是非!絶賛!思い出してください!
「王宮が危険なんです!」
兄上!対策会議をしましょう!
今は、私を連れ去るよりも、やらねばならない大事なことがありますよね?
「俺には、ステラより大事なものなんてない」
私の心の中を、正しく覗かないでください!!
挙句に一人称が「俺」だなんて……完全に「素」で「地」が出ておりますよ、いいんですか?ココには、兄上の「地」を知らないっ―――人は居ないから、今更か……。
「「兄上の威嚇とステラへの溺愛と執着が―――悪化している……」」
「大人げないですわね、さすが氷鬼軍曹殿……」
双子とビーの言葉があまりに的を射ていて、二の句が継げません。
全然引いてくれない兄上に、どうしたものかと悩んでいたら、この場の最年少にして、恐らくは一番の大人(精神面で)であるジョシュが、つんつんと私の袖を引っ張ってきた。
「姉上は先ほど、チェス盤を探しておられましたよね?そこのテーブルにご用意いたしましたので、どうぞ?」
「ジョシュ優勝!」
そこにおられる精霊王様よりも、どの大人よりも、ジョシュは私の心を察してくれて、姉はとても嬉しいです。