72:銀糸の光1
どことも知れない豪華な邸の大窓に映る自分が、ラベンダー色のオーガンジーのミニドレスを着て、訝し気にこちらを見つめている。
このドレスには、見覚えがある。9歳の、自分だ。
母上がご自分のお気に入りのドレスをリフォームしてくれて、「とっても可愛い!」と大喜びしてくれて、とても嬉しくて、その姿を見せたら「とても似合う」と満足気に笑ってくれた人がいて―――。
それは、誰―――?
不意に浮かんだ疑問にほんの少し目をすがめたら、背後から、するりと両腕を回してきた金瞳のアウレウスが、耳元で囁いた。
『―――母?アメジスト。お前に母親なんていないだろう?』
「―――そう、だ。いない、な……」
金瞳のアウレウスがまた、私の記憶を消したとわかるが、何を消されたのかがわからないので、何の悲しみも怒りも湧かない。それよりも、問題はコッチだ。
「あら。野良猫がどうしてドレスを着ているの?」
「違いますわ。野良猫なんて可愛いモノではありませんでしょう」
「それらしく、飾り付けするのはいかがです?」
同年代らしいゴテゴテに飾り立てた貴族令嬢達が、様々なグラスや皿を持って取り囲んできた。中身は全部ドロドロ系の食べ物か、色どり鮮やかなジュース類だ。いつもの手口だなと、呆れ返るしかない。
諦めた様に小さく溜息をついたら、金瞳のアウレウスがさも面白いとでもいうように、くすくすと笑いながら囁きかけてきた。
『お前を辱める気だな。どうだ?憎しみが湧いてくるだろう』
「いや。哀れで可哀そうだとは思うが」
『哀れで、可哀そう……だと?』
金瞳のアウレウスが、表情を変化させて、面白くなさそうに訝し気に眉を寄せる。
ああ、そうだ。哀れだと思うんだよ。だって、私に何かしたら、酷い目に遭うに決まっている。だから、哀れで可哀そうだと―――。どうして、そう思うのかはわからないが。
「この後、風が強く吹いて、彼女らは、ぶちまけてきたモノを頭から全部被って、全員ドロドロになって大泣きしたはずだ」
『―――風?』
「そう、突風が吹いて、風が私を守って―――」
一斉にグラスと皿の中身が自分に向けぶちまけられた瞬間、世界がまた、切り替わった。
今度は、王宮だ。
父上と、王族の居住区へと続く長い回廊を進んでいる、自分。ドレスではなく、銀色と深いサファイア色を基調とした乗馬服を着ている―――あれは、10歳の自分。
手をつないでいた人がいたと思うけれど、記憶違いだろうか?
『―――父?お前に、父親なんていないだろう?』
「―――いない、な」
自分の直ぐ左の宙に浮いている金瞳のアウレウスが、耳元で囁いてくると、回廊を歩くのは、自分一人になった。
今日はどうして王宮に来たのだっけ?
ああ、高位貴族の子女が勢揃いしての、王子主催の乗馬大会に出場するために、来たのだった。
「馬番以下の貧民が、何故ここにいる?」
「王子殿下。きっと馬糞拾いに来たんでしょう」
「目障りだ!デイビット殿下の前から即刻消えろ!」
デイビットに負けない彼の馬鹿側近達が現れて、手にした乗馬用の長鞭を鳴らしながら、向かってくる。彼らは、自分を見つけるといつもこうだ。
『大変だなあ。10歳のお前よりも大きな少年たちが、痛めつける気だよ?恐ろしいだろう?もうこんなところに居たくはないだろう?』
「いや。大したことはない」
『大したことない……だと?』
ひゅんひゅんと鞭を鳴らし周囲を囲みだす、自分よりも頭一つは大きなデイビット達をつまらなそうに見上げて、ステラがぼそりと呟く。
「かえって、この子たちの命の方が心配だ。きっと、この後、死ぬより悲惨な目に遭うだろうから」
『……誰に、そんな目に遭うのか覚えてるのか?』
「―――誰?……わからない……」
誰から悲惨な目に遭うなんて、知らないけれど、彼らがこの後―――自分の前で鼻水を垂らし大号泣で、土下座してきたことは、覚えている。
「……誰……だったっけ?」
覚えのない記憶に視線を送るように目を細めたら、金瞳のアウレウスに両目を塞がれた。
視界が開けたと思ったら、王立中等学院の学生塔への裏通路で、中等学院の制服に身を包んだ自分を、貴族子女達がまたもとり囲んでいた。間には、イーサンとネイサンの双子が睨みを利かせている。あれは、11歳の自分だ―――。
中等学院には早期入学制度を使い、通常は13歳で入学するところを11歳で入学したもんだから、出自だけでも奇異な扱いを受けていたのに、11歳ってことで更に拍車をかけて、まあ、イジメられたしイビられた。
双子どころか、たまにお祖父様までが、私の危機を感じるといつも飛んできてくれて―――。
『双子?祖父?そんな相手、お前にはいないだろう?』
「―――そう、だった……か?」
『お前を囲む世界は、お前に害するモノばかりで、守る者なんて、誰一人存在しない。そんなお前が、可哀そうで、哀れで、俺が迎えに来たんだ』
「――――――いや……いる」
はっきりと告げる。
それだけはわかるから。
自分を守り、いつも側に居てくれる存在が、在る事だけは覚えているから。
『―――何処に、いるというんだ?お前の側には、誰もいない」
金瞳のアウレウスの声に引かれるように、全ての世界がまるでカーテンを引いたように一気に闇に変貌し、何も、見えなくなった。
『見ろ!誰が、いるって言うんだ?お前には、俺しかいない』
「いる」
真っ暗闇の中に、金瞳のアウレウスの白髪と金色の瞳だけが爛々と輝いて、自分を見ろ!と強く主張してくるけれど、それよりも、何よりも、胸の辺りに灯る何かが、自分を呼んでいるのがわかるのだ。
「――――ここに、いる」
ステラの胸に灯る何かが、ふわりと緩やかに溢れ出し、それが穏やかに輝き出した。
自分でも分からない。
何が起きているのだろうか?
輝き出した胸元にそっと左手を伸ばしたら、小指が何かに引っ張られて、指を見ると銀色の光が一線、やんわりと纏わりついているのが目に入った。
それは暗闇の向こうに、続いている。
微かにしか見えない、まるで蜘蛛の糸の様にか細い銀糸の光だけれど、それが差し示す暗闇の向こうに、夜明けの始まりみたいな、薄い群青の色がじわりと広がり出していた。