70:消える記憶と戻る記憶
闇色と血の色しかない、深い深い魔の森の中で、あの日に戻ったステラは、記憶の奥底からやってくる、思い出してはいけない記憶の糸を手繰ってしまった。
自分がまだ、幼い時の記憶―――。
手の平サイズの、真っ白なたんぽぽの綿毛みたいな小さな魔獣が、今にも殺されそうだった。
鳥籠の中で震える魔のモノを、そのまま知らぬフリをすることなど、ステラには出来なかった。
自分みたいだな。と、思ったのだ。
周囲には自分と同年代の子供ばかりだというのに、残忍性でいけば、貴族の子弟達の方が魔物よりも上だ。自分たちは上位の生き物で、下位の生き物など、どういたぶってもよいと、教育でもされているのだろうか。
貴族は、嫌いだ。
そう思った時にはもう、鳥籠の中の真っ白な魔獣を救いだして、豪華な王宮のテラスから飛び出していた。ガーデンパーティを抜け、王宮外郭のゲートに飛び込んで―――ここに来た。
ふと気づくと、手の中にいた真白い魔獣が消えている。
途中まで誰かが一緒にいた気がするのは、気のせいだろうか。
銀色の髪をした、暗闇が怖いと言った、自分の大切な人に良く似た面差しをした……あの人は、どこへ……?
「今世の記憶が、ひとつ消えたな」
金色の瞳をした魔人が、とても優しく微笑んだ。
幼い子供が食べれなかったニンジンを頑張って食べた時の様に、穏やかな笑みで、頭を撫でて褒めてくれる。
「アメジスト。何か思い出さないか?」
この目の前の魔人は血塗れで恐ろしくて、自分を喰らいそうな男だったはずなのに、どうしてだろうか、どうしてそんなに、優しい顔で私を見て来るのだろうか?
自分の記憶にあるまま、美しくはあっても血塗れで、誰かと中身が入れ替わったわけでもないのに、その金色の瞳が懐かしむ様に自分を見つめて来る。この世の全てに、創世の闇の魔人として恐れられているのに、私にだけは、優しい。その名は―――。
「……アウ……レウス?」
その名を、知っている。そして、彼が、創世の闇の魔人である事も……。
これは、何の記憶?―――誰の、記憶?
自分に何が起きているかわからずに心が揺らぐステラに、金瞳の魔人が息を飲み目を見張ったかと思うと、静かに震える手を伸ばし、ステラをやんわりと抱き締めた。
「……そうだ。俺の真の名は、アウレウス―――。お前が、俺にくれた大切な真名だ」
金瞳の魔人ーアウレウスの腕の中で、ステラは瞬きも出来ずに自分の記憶と向き合った。
どうしてその名を知っているのかも、わからない。
これは、あの日の記憶ではない、夢、なのだろうか?
あの日、魔の森の秘密基地の近くで、金瞳の魔人と出会った時は、真っ白の髪は右半分は魔獣の返り血で真っ赤に染まり、白い肌も魔獣の鮮血が散っていて、とても人間には見えなかったけれど、人であることはわかった。
自分が何者になるか見物だと、皮肉に笑われた。
師匠が片付け残した怨嗟の闇の魔物であることは、あの時すぐにわかったが、金瞳は、私を「同種」と呼んだ。私が闇に染まるのを楽しみに待つと―――。
【怨嗟の闇の魔物】という呼称は、後の世界でつけられた名で、はじめの呼称は【創世の闇の魔人】だった、金瞳のアウレウス。
駄目と、叫んだ。
自分にはあの人が、いる。
あの人が、迎えに来てくれる。絶対に助けてくれる。
師匠の剣を振り上げて、金瞳のアウレウスを払おうとした。
幼い自分には恐ろしくてどうしようもなくて、やみくもに剣を振り回しても、金瞳の魔人を振り払えなくて、泣き出した自分の前にあの人が飛んできてくれた。ネイトも一緒で、泣きじゃくる自分を救い上げて、大丈夫だと抱き締めてくれて、安心させてくれて。
あの人は、プラチナブロンドの髪に暗青色の深いサファイアの瞳を持ったたった一人のあの人で、「お前を嫁に貰うのは、俺だ」と言ってくれたあの人が、どうしてここに居ない?
あの人の名を、どうして今、思い出すことが出来ないのか?
「……あの人の、名前、は」
全身から血の気が引いていく。大切な人だってわかってるのに、どうして、その名を、思い出すことが出来ないのだろうか?何よりも、誰よりも、大切な人なのに。やっと、やっと―――。
「大切な、言葉を貰った―――のに……」
「それも忘れてしまえばいい」
今のお前には不要なモノだと、金瞳のアウレウスがステラの頭を撫でて来る。
一回二回と、髪を撫でられるたびに、何かが自分の中から零れ落ちていく感じがする。
大切なモノなのに、何も持っていなかった自分にとって、これ以上に大切なモノなんてない程に、大切な宝物だというのに、記憶から零れ落ちていくソレを止めることが出来ずに、砂の様に風に舞って、宙に霧散していく。
「そうしたらまた、俺のことをひとつ思い出す」
これ以上の幸せはない、といったこの世の幸福を全て搔き集めたかのように嬉しそうな金瞳のアウレウスの笑顔に、大切な記憶が、またひとつステラの頭の中から消えて行った。