65:異常世界5ーアイザックとステラ
また、視界が、暗転する。
今度の世界は、今まで見てきたものとは、明らかに違っていた。
暗闇に、舞台が2つ。
アイザックとシリウスは、それを劇場の2階席から見ているような、なんともいえない違和感に、顔を見合わせるしかない。
「これは、なんだ?」
「―――う~ん。このパターンは、僕も初めてだ。何を、見せる気なのか……」
シリウスの様子を見る限り、ソレに嘘はないようだ。
アイザックは眼下の舞台に視線を走らせ、不意に暗闇から舞台の上に現れた子供の姿に、息を飲んだ。
向かって右側の舞台に現れた子供に、アイザックは見覚えがあった。
彫像のように動かない表情は暗く、その暗青色の深いサファイアの双眸には、世界の何も、誰も、映ることは、ない。
銀色の髪は綺麗に梳かれ、一目見るだけでわかる高級な衣服に身を包んだ、幼い男の子を、家族達が抱きしめている。
「―――俺、だ」
「―――うん。君のターンに入ったようだね」
『……アイザックは、感情を、君のお腹に置いてきたのだろうか?』
『……ウィル、そんなことどうでも良いことです。そうであろうとなかろうと、アイザックは、私達の大切な子供に変わりはありません』
『竜憑きは、こんなものだ。私も、同じ様な感じだった』
覚えている。
俺は、喜怒哀楽と共に、感情というものが欠落したまま、この世に生まれ落ち、ただ流れる時を過ごしていた。
世界に欲しいものなんてなく、目に映るものは全て通り過ぎていくのみ、ただ、終わりが見えない時が、早く終わる事だけを、待っていた。
何のために息をしているのかが、わからない。
何故、生きなければいけないのかが、わからない。
自分は、どうして、人として生まれたのだろうか?それだけがいつも頭の中に響いていた。
「……ウィルに聞いてはいたけど。君も、なかなか、ハードな人生の滑り出しをしているね」
「別に、どうということはない」
「さっきの、ウィルの言葉は、覚えているね?」
「……ああ」
あの頃は、生きている意味が本当に、わからなかった。
たまに『暴走』を起こして、周囲を壊滅状態にしたり更地にしたことは、両手両足でも数えきれない。だが、それは自分にとっての日常であり、何の変哲もない日々の積み重ねに他ならなかった。
自分がどれほどの『暴走』を起こそうとも、それは、スタンレイの力と、王家の協力により、いつも握りつぶされて、アイザックは世界から排除されることはなかった。
どうしてなのだろうか?
自分は、何をしても許される存在なのか?
そのことが、何を指すことなのかなど、アイザックは考えたこともなかった。
今、この時までは―――。
眼下の舞台の左側……そこには、幼いステラが立っていた。
リアムを弔い悼みひとり見送ったその時のまま、がりがりに痩せた体に服とも呼べないぼろ布を身に着けた、薄汚れた姿。腰まで届きそうな銀髪は元の色をなくした泥色で、うっそうと顔を覆っていて、美しいアメジストの瞳は、見えない。
ステラの毎日は、食べ物を探し、寝床を探し、居所を移動することに費やされる。
自分の生活とは、比べ物にならない程の、荒んだ生活だ。
ステラは、誰にも手を差し伸べられず、ただひとり生きる。
だというのに、ステラは弱者に手を差し伸べる―――。自分とて、食べるものにも困っているというのに、やっと見つけた干からびたパンを、自分と同じ境遇の子供に、ためらいなく差し出すのだ。
ステラの笑顔に、その子が、笑う。
アイザックは、真綿で守られるように、皆に守られ生きる。
だけれども、その優しさをアイザックは理解することが出来ない。これ以上ない恵まれた生活の中で、アイザックが求めるモノは、自分の命の終焉のみだ。
アイザックの表情は、氷の様に変わることはない。
ー竜憑きだろうとなんだろうと、俺とクロエの子だ。可愛いに決まってるー
シリウスに言われるまでもなく、先刻の父の言葉を、覚えている。
俺は、愛され、大切にされていた。
竜憑きであろうとも、感情がなかろうと、父も母も、祖父も祖母も―――自分を愛し、大切にしてくれていたことを、アイザックはこの時、初めて理解した。
「俺は―――」
「今、反省するのはなしだ。どんどん闇に落とされて、あのクソったれ魔人の思う壺に落ちるよ」
バシン!と背中を叩かれたアイザックの前で、右の舞台が暗転した。
次の瞬間、舞台の上のアイザックは少年に変わっていて、薄暗い鬱蒼とした森の中で、肉食魔獣ディトー3体に囲まれ、守護の魔術式を詠唱していた。
ああ。とアイザックはそれを知る。
「……あの日だ」
「あの日?」
9歳の誕生日を迎える少し前。
学友兼側近候補の務めとして、週のはじめに王宮のセオドアを訪ねる、その道行きの途中で、アイザックは誘拐団に攫われた。恐らくは、スタンレイの敵対勢力である旧王兄派の過激派によるものと推察されたが、父上が即壊滅させたので、現在の記録には残っていない。
スタンレイが誇る騎士団の護衛を出し抜き嫡男を誘拐するなど、かなりの手練れだったろう彼らであるが、ディトーの前には、只の贄になるしかなかった。そこら中に散らばる人間だった肉塊を冷たく見つめて、アイザックは、考えていた。
自分は、どうして守護魔法陣を展開しているのだろうか?
このまま、この獣達に喰われてしまえば、この意味のない生を終えることが出来る。
それは、どう考えても確かであるし、ある意味それは、自分の望みでもあったはずだ。
だのに、どうして、自分を守ろうと?
生まれて初めて、アイザックの頭の中に「疑問」というものが浮かびあがった。
どうして?
今はまだ。と、なにかが告げて来る。
まだ?って、なんだ―――?
それは、すぐに分かった。
森の空気が変わった。
何かが、近付いてくるのが、わかる。
すぐ、近くまで来ている。
なぜだが、わかるのだ。
―――来る?
今まで動いているとも知れなかった、自分の心臓が、早鐘を打ち始める。
それは、自分が、自分だったモノすべてが、待ち望んでいた、たったひとつの―――。
『肉祭りだ!』
突然に頭上から現れた薄汚れた泥まみれの自分より小さな子供が、一頭のディトーを身の丈に合わない長剣で一刀両断し、続いて小さく二文字の詠唱を行なうなり、長剣が光を纏い、残り二頭の首をも鮮やかに斬って捨てた。
ディトーの3頭分の鮮血を、アイザックは全身に浴びた。
生ぬるい鮮血に、目の前が真っ赤に変わるが、今は、そんなことはどうでも良かった。
心臓は早く動き過ぎて、息が……止まりそうだ。
だが、目が閉じられない。
アイザックの目は今、生まれて初めて、世界を写し取り、その映像が、脳に伝達された。
――アイザック。お前に、ひとつだけ伝えておくことがある。
ある日の祖父の声が、アイザックの耳に響いた。
――お前の世界を変えるものを見つけたら、絶対に、手に入れろ。
逃がしてはならんぞ。いいな?
見つけたら絶対に逃がすな。
アイザックの世界を変える光が、今、目の前にいた。