60:アイザック真っ暗闇に嵌る
上下左右がわからない、平衡感覚すらも危うくなる闇の世界にアイザックはひとり立っていた。
まるで泥の中にいるように、ねっとりと纏わりつく重い空気。
光など差さず、あるのはただ暗い闇のみ。
息をするのも億劫な、気怠い、世界。
まるで、あの金瞳が生み出す闇を、具現化した様な世界だ。
アイザックは得体のしれないこの場所で、そんな事を考えていた。
こんなところ来たこともないというのに、変な既視感があって、苦笑いすら湧き上がってくる。
ステラと出会うまで、何の感情もなくただ息をして生きていただけの、空っぽな自分が感じていた世界が、こんな感じだった。
生まれた世界は優しくて、父と母、それに祖父・祖母も、自分を取り囲む全てが、アイザックに優しかった。
だけれども、自分は、他の人間と違うことを知っていた。
世界に生まれ落ちたその時から、自分が持っていたただ一つの感情は、破壊衝動だけ。何もかも壊して、何もかも消し去り、闇の中に消えることだけがアイザックの、たった一つの望みだった。
世界に欲しいモノなんて何もなく、闇に消える以外の望みはなく、自分には、何の希望もありはしなかった。
アイザックの世界に突然に光が差した、あの時までは―――。
「君の世界は、真っ暗で真っ黒だなあ~。救いってものが、一欠片すら落ちていない。まあ、僕も一緒だから、人のことは言えないけどねえ」
真っ黒な世界に白光するような白装束をまとった、教皇猊下が皮肉に笑んでくる。
「君の闇も、深いねえ~」
「ここが私の闇だと?アイツのでは、なく?」
「ああ、君の闇の中だよ、ココ。アイツはね、人の闇で異常空間を作るのが大得意で始末に負えない」
しっかし、呆れる位にどす黒いね~。とケラケラと教皇猊下が笑ってくるものだから、流石のアイザックもムッとしてしまう。
こんな得体のしれない男に、そんなことを言われる筋合いはない。
「笑い事じゃない。私の闇だろうが何だろうが、一緒にアレの罠に落ちてるんだ、早くなんとかしろ」
「さっすがウィルの長男だ、人使いが荒い!しかしなあ、ココはさすがの俺様教皇様でも、ちょっと手強いぞ」
教皇が権杖を頭上に掲げて真言を唱えてみても、辺りには光の一筋も顕現することはない。
「まあ、『マブダチファイブ』のラブリーエンジェルの僕が、クールシルバーの息子を助けてやるとしよう」
「………聞きたくないが、その言葉の解説と説明が欲しい。何を言っているのか、全く意味がわからない」
マブダチトリオに関しては聞いた事はあるが、マブダチファイブは初耳である。
この胡散臭い教皇猊下は、どうやら一筋縄ではいかない男らしい。
呆れてものも言えないアイザックに、教皇がとても楽し気に笑いかけてきた。先刻までの胡散臭い笑顔とは違い、この笑顔に裏がないことはだけは、わかる。何故だか理由はわからないが……。
「僕らは本来5人でマブダチファイブなんだけど、理由があって、袂を分かってたんだ。あっちの魔女を騙ます意味もあって、ウィル達は新生マブダチトリオを名乗ってたんだけど、この辺の話のくだりは、これから嫌でも目にするから、今はコレで、説明を終えるよ」
「何を―――」
「あんの魔人野郎が、面倒なトコに落としてくれたからね」
ひとしきりトボケていた教皇が、不意に真顔になってアイザックを見上げてきた。
「ここは、アイツが我々の闇を素に作った異常世界だ。これからきっと―――自分の見たくない思い出したくもない記憶を、コレでもかと言うくらいに見せてくる……。精神をヤラれたら二度と元の世界には戻れない。心しろ、アイザック」
太古の神殿遺跡の黒い森で対面してからこっち、教皇という看板を背負っているようには見えず、どこかちゃらけて見せる得体の知れない父の悪友らしい男が、本当の素顔を、初めてアイザックに見せてきた。
その顔は、神殿のトップたる「教皇」という責務にある、神の言葉を伝える聖人の面差しをしていた。
「随分、お詳しいですね。教皇猊下」
「僕は非常に残念な事に、コレを体験するのは、2回目なんだ。下手にスタンレイの宝剣を振りかざし、我らの神聖力の粋を集めた檻を壊してくれやがった馬鹿者を、わ・た・く・しの慈悲の心で救ってあげるよ」
「吐かせ」
「それでこそスタンレイの竜憑きにして、教授とウィルの後を継ぐ者だ。僕のことはシリウスと呼べ。ここからは、運命共同体だ、アイザック」
権杖を向けてくるシリウスに、アイザックは手にした剣をガツン!と当てた。
その時だ。
全身に泥が滑るように纏わりつく、ねっとりとした闇の重い空気が、ゾロリ、と動き出した。
目の前に、何処かで見たことがあるような、それでいてアイザックの知らない世界が、じわりじわりと広がりだした。
「―――僕が先とは、憎いねえ」
隣に立つシリウスの気配が、一気に凍り付いていくことに、アイザックは気付いた。
額には怒りによるものか、血管が浮き出てきている。
握り締めた手の平に、爪がめり込んで、血が滲みだしている。
シリウスの睨みつけるその先の世界には、5人の青年の姿が見えた。