56:兄上乱心
「僕は君の事が昔から本当にたぶん世界で一番大キライなので、ここで決着がつけられたら大変嬉しいです。今度こそ、逃げないでくださいね。ぶち殺してあげますから」
金瞳が教皇と呼んだその人の言葉は、とても教皇という立場にある人のソレとは思えないもので、更には、その声音は、地獄の魔王の声を持つ金瞳のソレを超える程に黒い激昂の響きを伝えてきた。
それをアイザックの腕の中で耳にして、もぞもぞと何とか顔を上げたステラが、ぷはっと息を吐いてから尋ねた。
「……あのさ、兄上」
「うん?」
「今、兄上以外まったく見えないからどんな人かわからないけど、一緒に出てきた人って」
「神聖神殿の教皇猊下だ」
「本物?」
「本物」
なんでまたご一緒で?
自分の顔にはその言葉がありありと書いてあったに違いない。
兄上は楽しそうに、それでいて蕩ける様な眼差しでこちらを見つめてきたと思ったら、更に、ぎゅうっと抱きしめてきた。
この充電……一体いつまで続くのでしょうか。ね、兄上?
「兄上」
「もうちょっと」
すりすりと顔を擦り付けて来る兄上は、もうしばらくは自分を離す気はないようだ。
「若―――この状況ですと、あの教皇猊下らしい人の手助けをするべきでは?」
「不要だ。自分の手でぎったぎたにしてやるって、あの異常世界で何千回も言ってたから、手出し無用だろう」
ネイトの言葉にも、兄上の腕は緩まない。
ところで、さっきからよく聞く『異常世界』って何ですか?
兄上達は一体どこに捕まっていたのかが、気掛かりである。お体は大丈夫なのだろうか?
「「あの白髪の司祭服野郎は何者なんですか?」」
「教皇の天敵だそうだ」
双子の言葉にも、兄上の腕は全く動じない。
だけれども一番の問題は、金瞳の危険度を一番に理解しておきながらこの腕を振り払えない自分かもしれない。
兄上が還ってきた。
兄上の腕の中はあったかくて、ここから出て行きたくない。
この自分が、そんなことを思っている。
あの金瞳は、師匠が「片付け残したモノ」で、すべての元凶。
教皇がどう考えていようと、自分がこの世から消し去らねばならない『モノ』である事は変わらない。
それが、師匠との約束であり、自分が生きるための証明で、自分が背負った業でもある。
「お前が背負う必要はない」
不意に兄上から発されたその言葉は、何よりも自分が言って欲しかった言葉だ。
「どう、して……?」
話したことなどない。
何なら、金瞳の事は、兄上の失踪中にふいに思い出した記憶である。
自分自身忘れていた、その記憶を封じたのは、やはり兄上だったのか?
「お前が背負うことも気負うことはないから、あの記憶は俺が封じた。何でまた、思い出してしまったのか」
「――――わたし、は」
「お前はお前だ。俺のステラだ。お前の危惧は、俺が全て滅する」
もう一度強くステラを抱き締めて、アイザックはひょいとステラを左腕で抱き上げた。右腕はすでに剣が握られていた。
「完全充電までまだかかるから、これでなんとかいけるだろう」
「降ろしてください!私にも剣を―――」
「嫌だ。離さん。俺はお前の為に存在する。絶対に離すことはない」
こんな時にこんな所で何を言い出すのかな兄上?
大した意味もなくそんなことを言ってくれてるのだろうとは、思う、ケド……そんなの、言われたこっちは大変なんですよ?!
流石のステラも頬が紅潮してくる。
その顔をじっと見つめて、アイザックがこれ以上ない位に全開の笑顔を見せた。
アイザックの全開の笑顔。
表情が動かない『白銀の彫像』と言われている彼のその笑顔は、この場で何とか顔を上げることが出来た全ての者の動きを止めるだけの威力があった。
「うそ……?!」
ビアトリスの死にそうな声がホールに響き渡る。
殺伐としたこのウィスラー邸ホールの状況の中で、時が止まる程の衝撃が、辺りに広がっていた。
「あに…う…え……?」
ステラですら滅多にお目にかかれない、アイザックの全開の笑顔はあまりにも綺麗で、正直心臓が止まるかと思った。
兄上が、変わった。
自分には甘いところはあったものの、こんなにストレートな言葉を向けてくることなど、今の今までなかったことだ。
「なんか……変なキノコとか、食べられましたか?」
「酷いな」
兄上が苦笑して、抱き上げた自分の体に顔を寄せ唇を寄せて来る。
「あっあにうえっ?!」
「このまま大人しく抱かれていろ。ネイト、ここを一掃する。とっとと終わらせて帰るぞ」
「―――ええ~。承知しましたっ」
自分の起こしたブリザードで大分壊滅状態にあるとはいっても、まだ、ウィスラーの残党はうようよしているし、教皇猊下だという見た目青年男性が教皇装束を振り乱し対峙する金瞳と大暴れしている。
この状況で、腕に自分を抱いたままの戦闘なんて、いくら兄上でも無理がありませんかね?
こちらの質量は魔術で軽くしてるのはわかるけど、左腕使えないのは不利でしょうに。……しかし、兄上。そのハンデ全くなさそうですね?え?逆にハンデがある方が丁度いいと、そうおっしゃる?はい。黙ります。
辺りを見回す余裕がでてきて、ステラは教皇猊下と金瞳の状況を見据えた。
教皇猊下は、父上と同年代と確か聞いていた。なのに、だ、あの見かけ、どう見ても、二十代後半からいっても三十代に手が届く位にしか見えないのは、自分の審美眼が狂っているからか?
彼は神殿の祭壇で物凄く映えそうな美麗な顔立ちと姿をしていて、金瞳もそうなもんだから、神殿関係者って、見かけの審査でもあるのだろうか。なんて、どうでもいいことまで考えが進む。
ところで、この豪風のなかで、どうして教皇猊下のあの教皇冠は飛ばないのかが、不思議だなあ。
「……教皇に、興味があるのか?」
「ちょっとだけ。父上と同年代には見えなくて」
「……後で殺すか」
「何言ってんですか、兄上?」
何でそんな物騒な物言いになるのかわからず、ステラは堪らずアイザックの前髪を引っ張った。
「今日の兄上、随分話すな?」
イーサンの声に、ネイサンは奥歯を噛みしめた。
「負けるか」
「おお。男前ですねお坊ちゃま」
「煩いネイト。今日を限りに坊ちゃん呼びは止めさせてやる」
ホール内のウィスラー一派の掃討戦をほぼ終了させたスタンレーチームの前で、神聖神殿教皇ーシリウス・ロウは、金瞳司祭に向け神聖神語の印を結び右手をかざした。
「フレド・クラレンス司祭。いや、フレドリック・チャールズ・ステイビアと呼ぼうか。怨嗟の闇の魔物よ。今度こそ、確実に息の根を止めて上げますね」