48:記憶の行方
あの日は、結局兄上の腕の中でわんわん泣いて、皆を心配させたのだった。
そこからの記憶は、ある。
傍らには真っ白な毛玉があって、そこからぴょこんと狐耳が立って、リスみたいなふかふかの尻尾が伸びて、心配気にステラにすり寄ってきた。
あれから、もう何年経ったろうか?
あの時は、確か8歳位だったと思うから、今の年齢から引き算すると、もう8年だ。
真っ赤な目をした小さな真白は、いろんな生き物に変貌できるようになって、最近はいつもステラの愛馬「真白」になっていることが多い。
あの時の事は、忘れていたのか。
それとも、記憶から消し去られていたのか。
自分を、同種と呼んだ。
金瞳の魔人――――――。
あそこは、西の魔の森だったことは、確かだ。
金瞳の魔人の姿は、レオ叔父上と同じくらいに見えたから、人と同じ速度で成長していれば、叔父上位の年齢になっているということか。
だが、あの時の事を思い出してはみたものの、金瞳の魔人に剣を振り下ろしてから、邸の寝台で目を覚まし、兄上の腕の中で大泣きするまでの記憶は、いまだぽっかり抜けたままだ。
一体、どうやって戻ってきたのか?
いや、あの時は本当に戻る気はなく、魔の森で生きて行く気満々だったはずだから、きっと、兄上が無理やり連れ帰って来たに違いない。
うん。きっとそうだ。
あの人ならば、きっと、地獄の果てからでも自分を連れ戻すに違いないから。
だけれども。
どうしていま、それを思い出したのか?
それが、一番の謎だなあ。
自分にとり結構ハードと思える隠された記憶を突発的に思い出したというのに、意外にも冷静な自分がステラは可笑しかった。
「お嬢様」
扉をノックする音と共に呼び掛けるリリーの声。
ああ、こちらが現実だ。と納得する。
「どうぞ。起きてるよ」
「おはようございます、お嬢様。もう起きられていたんですね?お仕度準備が遅れて申し訳ありませんっと、ジョシュ様はまだお休み中なのですね」
洗顔準備やら、今日の着衣やらを載せたカートを押して、速足でやって来たリリーはまだベッドに眠るジョシュに声を小さくした。末っ子を寝台に眠らせたまま、窓を開け放ちバルコニーに居たステラが振り返って尋ねた。
「兄上は?まだ戻ってはいないのか?」
「まだお戻りではないです。そもそも、戻っていたら、お嬢様の寝床にいらっしゃると思いますよ?」
「ははは。そうだな」
兄上は、そういう人だ。
今朝思い出したあれが、夢でなかったことはわかる。
何故なら――――――真白が、自分の側に居るからだ。
「朝食の前に、真白に会いに行ってくる。ジョシュを頼んでいいか?」
「はい、お任せください。でもお嬢様。真白ならば、お嬢様が呼んだら飛んでくるでしょうに?」
うん、そうだね。
大きな翼の白い鳥になって、飛んでくるに決まっている。
真白は魔獣ではあるけれども、スタンレイでは家族として家門全員に黙認されている。
実際、魔導士や魔法使いが使い魔として魔獣を使役することは普通にあるので、対外的にも問題なかろう。との父上の判断だ。
……後で、第二王子の愚行を盾に取り、ゴリ押しで魔塔に了承を取った事を聞いたが、ステラは知らぬふりで通している。
知らぬが仏。って言葉があるでショ?
アレです。
「真白!」
厩舎に着くなりビロードの様な白い毛並みの首元に飛びつくステラに、真白はこの上なく嬉しそうに鼻面を擦り寄せてきた。
「なんか中途半端だけど、お前と初めて会った日の事を思い出したよ」
真白が大きな赤い目を瞬かせて、首を傾げた。
そんな可愛い素振りを見せても無駄だぞ真白。トボけても無駄だからな。
ステラは少々視線に険を滲ませて、真白を見据えた。
「お前さ、私の記憶を閉じたのか?」
違う!違う!!というように、真白が鬣を揺らして首を振る。
「そっか。―――兄上か」
真白の真っ赤な目が「ヤバい」と文字を浮かべてあらぬ方角へ視線を背けた。
「いつの間に兄上と結託したんだ。侮れんなあ」
ため息混じりに苦笑を溢して呟いて、ステラは真白の首にぎゅうっと抱きついた。
真白は小さくいななくと、ステラにスリスリと鼻面を寄せてきた。
「うん。………私を守る為だろうってことは、なんとなくはわかる。わかるけどさ」
今、あの記憶を思い出したことは、きっと何か意味がある。
ステラは真白の毛並みに顔を埋めて、恨めしそうに呟いた。
「―――お前も、関わってるだろ?ネイト」
「あれま。気配消しきれてなかったっスかね?」
厩舎の屋根からすいっと顔を出したネイトが、軽い音を立てて降りてきて、悪びれもせず頭を掻いた。
「わからいでか。あれから、ずっと私の側から離れてないだろ。兄上達の指示か?」
「いえいえ、俺が好きで、デス。あの時と、今回と―――。お嬢を見失うのはもう懲り懲りなんで」
口調は軽いものの、ネイトの目は真剣そのもので、でもこれ以上の追及は「躱します」と言っている。
まったくもって面倒くさい男である。
「お前はさ、昔からどうしてそんなに私を大事にしてくれるんだ?こんなに大事にしてもらえるようなこと、した記憶はないんだけど」
「お嬢にはなくとも、俺にはあるんスよ」
真白の首元に埋めていた顔を上げ振り返ると、そこには眩しい日差しを見るような穏やかな表情をしたネイトの真剣な目があった。
「―――そんなに、肉祭りが、好きか」
そうではないことはわかってる。けれども、ネイトの向ける目があまりにも優しくて面映ゆくてどうしようもなくて、そんなことを言ってしまうステラに、彼は声を上げて「バレましたか」と笑った。
「そろそろ朝食の時間ですから戻りましょう、お嬢。双子殿と末っ子殿と赤い兄弟がお待ちかねです」
すいっと騎士の礼を執るネイトにステラも笑った。
「セオは追い出したのか?」
「ええ。主様と奥様が尻を蹴る勢いで―――」
見物でしたよ。と笑顔で続けるネイトにステラは真白に「また来る」と告げて並んで歩き出した。
「男子飲み会が開催されたとは聞いたから、父上が少しセオへの規制を緩めたかと思ったら、そうでもなかったんだな」
「滞在許可は超えたと主様が。レオナルド様が泣く泣く護衛に付いて行かれましたよ。仕事仕事任務任務と泣きながら呟いておられましたが」
まあ、兄上が居ても同じことをしたろうとは思う。
いつもと変わらない、それでもいつもと違う朝の風景に、ステラは大きく息を吸い込んだ。
考えても仕方がないことは、考えない様にしよう。
自分は自分で、今更何物にも変わるはずもない。
為すべきことを成し、自分らしく生きる。
その為には、まずは朝ご飯だ!
「ところで、お嬢。今日は学校行く気スか?」
「行きたいところだけど、今日は、無理だろうなあ。あの氷柱群の件もあるし」
第一王子の尻を蹴って王宮に帰らせ、第二王子とその仲間たちは氷柱にしてここに在る。なんぞ、いくらスタンレイ侯爵家といえども、隠しきれるものではない。
「あの騒ぎの次の日だってのに、行く気があるとは………なんと剛毅な――――――。流石、お嬢っスね。惚れ惚れします」
「酷い言われようだな」
「褒めてるんス」
ネイトからの怒涛の様な軽口に、つい笑顔が零れてしまう。
ネイトはいつもこうだ。
自分が落ち込んでいたり、家族にも言わない言えない何かを抱え込んでいたりしていたら、ネイトはいつもこうして、ステラに笑顔を取り戻してくれるのだ。
「ありがと。ネイト」
「惚れてもらっていいっスよ?」
ステラは今度こそはでぷはっと笑いだしだ。
「兄上の前でも言えたらな」
「ええええ?!俺、まだ死にたくないっス」
ステラとネイトはなんとはなしに肩を組んでケラケラ笑いながら、二人して同じタイミングで走り出した。