32:分水嶺
兄上以外には見せるなと厳命を受けている笑顔を、今見せてしまっている自覚がステラにはあった。
全身黒装束で顔も銀の仮面で口元以外隠れていても、相手の動揺は見て取れるし、わかる。
「あの時は―――」
炎に焼かれジュワっと音を立てる鹿肉をひっくり返しながら、ステラは昔を思い出すように続けた。
「泉から上がろうとしたら、ネイサンが落ちてきて。続けざまに兄上まで落ちてきて、皆でびっくりして可笑しかったな」
全員泉に胸まで浸かって言葉もなく、しばらく、三つ巴ならぬ四つ巴となったが、最初に口を開いたのはネイサンだったかな?
「無事で良かった!」、「兄上に殺されそうだった!」、「なんで消える気だった?!」と立て続けに喚き散らし、わんわん泣きながらネイサンはステラをベルトランから奪い取りぎゅうぎゅうに痛いほど抱き締めてきた記憶がある。
そんな見たこともないネイサンの姿に、兄上は毒牙を抜かれ怒りの矛先をベルトランに向けて、「庭にワームホールを作るな!」と、火を噴くほどの的外れな抗議をしていたものだが――――――。
「今回―――返答次第では、今度こそ、本当に兄上に殺されるぞ。ベル」
ステラはわざと互いの間でだけ通じる愛称で彼を呼んだ。
「スー……、僕は―――」
銀の仮面の下の唇が震え、その名を溢した。
二人きりの時だけ彼はステラのことを「スー」と呼んでくる。
愛称呼びする度に赤くなるベルトランを揶揄うステラに、負けじとベルトランがつけた、彼だけが呼ぶステラの愛称だ。
兄上には内緒だが、二人だけで対面したことが、この10年で実は数回あった。
会おう。と約束してのものではない。
何故だかベルトランとは、周期的に何かが重なる時期があって、自分たちが望むと望まざると、こうして邂逅することがある。
まあ、昔も今も同じく、大体はあの馬鹿で厄介な第二王子のせいではあるのだが……。
二人きりで対面する度、愛称で呼んでいるというのにベルトランはいつも同じ様に硬直し、そして困りながらも嬉しそうな犬みたいな顔で見えない尻尾を振ってステラを呼ぶのだ。
こんな彼だからか、ベルトランが第二王子の側近であっても、ステラは嫌いにはなれなかった。
「ひとまず、肉焼けたから食いなよ。腹減ってない?」
串刺し肉を差し出すと、それに対するように炎を映す鋼の刃がステラに向けられた。
「僕は、スーの様には生きられない」
震える剣先を喉元に向けられて、面白くもなさそうにステラは半眼を向け口を開いた。
「当たり前だ」
きっぱりと言い切るステラに、その言葉を悲しむように剣先が跳ねた。
捨てられた犬のように耳が垂れ、涙に濡れ、土砂降りを浴びる様な悲壮感が彼を包んでいるのが見える。
「泣くんじゃない。お前は私じゃないんだから、我ながらやっかいなこんな生き方を選ぶ必要がなくて、幸運だろうに。わかるか?ベルトラン・ブリザック・ウィスラーはこの世にお前だけだ。自分の生き方を決めれるのは、自分だけ。ベルの好きなように生きればいい」
がしゃんと剣と同色の仮面が地面に落ち、それと同時に黒装束ーベルトランはその場に崩れ落ちた。頭から被っていたローブも肩口に落ち、チョコレート色の髪が現れる。
「君は、本当に―――あの頃から、ちっとも変わらない……」
「―――褒めてるのか貶しているのか、どっちだ?」
ベルトランが地面に膝を突き、殉教者が神に許しを請うように言葉を絞り出しているというのに、ステラは全く気にする素振りもなく鹿肉の焼き具合の確認を始めた。
ベルトランを気遣う様子もなく肉焼きを続けるステラにそろりと顔を上げて、彼は自分でも気付かない素の顔で小さく笑んで言った。
「褒めている―――」
「それは嬉しいな。ありがとう」
はいはい。と串刺し肉を順々に渡していくと、ベルトランは差し出されるままにそれを受取って、困ったように首を捻った。
「これ、食べれるのか?」
「失礼な。まあ、それが普通の反応か」
ステラは、アイザックとの出会いを思い出して笑った。
あの兄は初めて出会った魔の森で、初見だろう肉の解体にも怯まず、焚火で焼いた串刺し肉にも全く動じず「美味い」と齧り付いていた。
子供二人が全身血塗れで自分達より大きく立ち上る焚火でバーベキューなんて、今見たら狂気の沙汰だ。
あの時、ネイト達が酷く引いていた理由が、今ならば本当に良くわかる。
兄上に逢いたいな。と今、思う。
兄上を「アイザック」を想う。
それだけで、心に光が灯るようだ。
師匠を失って、生きる目的を見失いかけていた自分を見つけ、拾い上げてくれた、人。
今、逢いたいと、酷く郷愁を感じる。
でも、それは「妹」である自分が持ってはいけない物だ。
「―――うん」
「………どうした?」
ふいに頷くステラにベルトランが尋ねてくるが、ステラは自嘲気味に小さく笑って首を振った。
「ここが、分水嶺かなと、思って」
ここから先は、考えない。
考えては、いけない。
心の奥底にあるその先に通じる扉は、誰にも気付かれないように隠し、厳重に鍵を閉めて、沈める。
自分でも見えない、知らないものは、誰にも理解される必要もない。
「分水嶺ってまさか」
「うん。スタンレイを離れる運命の分かれ道が、今かもしれない」
6歳で拾われたあの時から、10年。
社交界の令息令嬢がおっしゃる通り、自分はこれまで分不相応な世界に住まわせてもらって、生きてきた。
「王陛下とセオの問題発言のせいで、第二王子が結婚しろとか、あの黒装束軍団の襲撃があったんだろう?ベルが転移術で私をここに連れてきた意図はわからんが、私が消えれば、全部立ち消えになるんじゃないか?」
「そんなこと、俺が、許すわけがないだろう」
ふいに頭上から聞こえた耳に馴染んだ静かな低い声に振り返る間もなく、ステラは背後から抱きすくめられた。