30:ステラ・イン・ワンダーランド?1
ここが何処かは、さっぱりわからない。
ただ分かるのは、大きな森で、完全に人の住まう世界とは隔離されている。と、いうこと。
今まで何十回となく魔の森に戻ろうとして、その度に足止めされた。
足止めしたのは、主に兄上とネイトだけれども、こんなにあっけなく、簡単に、彼らから離れる日が来るなんて、思ってもみなかった。
穏やかに小さく笑うステラに、対峙する黒装束の襲撃者の持つ剣が揺れた。
黒装束の相手の心情がステラには手に取るようにわかる。
この状況で、剣を向けられた相手が、こんな風に笑うとは思ってもみなかった。そう思っているのが透けて見えるのだ。
ああ、一度だけ。
同じようなことがあったな。とステラは幼い日を思い出す。
あれは、デイビットと愉快でない仲間達が王宮車寄せでの氷柱展示の罰を終えた後の頃だったか?
父上と母上は優しかったし、スタンレイ邸の近侍や侍女さん達には丁寧に扱われるようになってはいたけれども、なんともむず痒くて邸の中に身の置きどころが無かった、そんな頃。
令嬢扱いに慣れろと言われましても、無理なものは無理だった。
併せて、双子が自分を見つけると腫れ物に触るように顔をしかめて後退りするのもプラスされ、スタンレイで過ごすようになって一年が過ぎても、自分が自分らしくいられる場所など、ベッドの下か、黒王の馬房か、兄上の側くらいのものだった。
ステラが自分の身の振り方を考えあぐねていた秋の頃。
スタンレイ一家は、ある夜会に末っ子のジョシュ以外の全員が招かれた。
ステラは邸にジョシュと残ると固辞したが、認められなかった。
当時は良くわからなかったが、序列だけ見れば貴族の格がスタンレイよりも上の大公家門閥のウィスラー公爵家の招待状にはステラの名の記載もあり、断ることが出来なかったらしい。
デビュタント済みの成人扱い以上の大人達は大ホールの夜会へ、それ以下の少年少女は年齢に合わせたパーティーが催される中ホールへ集まっていたが、予想通り、ステラは衆人の中で嘲られ蔑みの的となった。
アイザックはステラの側を離れないと宣言していたが、夜会の主催者であるウィスラー公爵夫妻により会場に入るなり、強制的に分離された。
セオドア第一王子殿下がアイザックを呼んでいる。って、自分を標的にしているのが丸わかりである。
まだ7歳になったばかりの幼子に、なんという大人げない対応だと子供ながらに呆れてしまった。
双子は盾にもならないし、もとより頼る気すらない。
さて、どうしたものか。
くすくす、ひそひそとさざ波の様な追い込みをかけてくる、小さな淑女予備軍の中心にはウィスラー公爵家公女レティシアが。
じりじりと包囲網を縮めてくる、小さな紳士予備軍の先頭は、デイビット第二王子殿下だ。
「なんだか、においますわ。おにいさま」
「ああ、レティシア。きたならしいドブネズミが、まぎれこんでいるな。みなのもの、追い払うことができたものに、ぼくのそっきんの席をあげるよ」
ウィスター公爵家公女と第二王子殿下の息はぴったりらしい。
ああ、面倒くさいな。
全員床に沈めるのは簡単だが、それをしてしまうと、父上と母上、兄上達に迷惑を掛けてしまう。
「お体は大丈夫ですか?第二王子殿下」
先週まで氷漬けでしたもんね?っと、にっこり笑って見せると、デイビットの下僕数人がぽぽぽ!っと、頬を染める。何故だ?
「誰のせいであんな目にあったと―――?!」
「ご自分の所業をもうお忘れですか?ああ、記憶障害が出ておられるのか」
デイビットは真っ赤に目を血走らせて、「うるさい!!」と湯気でも吹く勢いでキーキー怒り出した。
カルシウムが足りていないらしい。
「やれ!!」
悪役すぎるデイビットの言葉には最早溜息しか出ない。
ステラを中心に形成された包囲網が一歩また一歩と縮められてくる。淑女予備軍も紳士予備軍も、その両手には飲み物やら食べ物やらが握られていて、その意図は聞くまでもなくわかる。
全部どろどろ系ですね?
投げつけてくる気なのはわかるけど、簡単に浴びる気は、ない。
何故ならば、今日着せられたドレスは、母上のお下がりなのだ。汚すなんてあり得ない。
今日のステラは、この場に居るどの少女よりも美しかった。
青を映す銀の髪は華麗に結われ、上体は真っ白で裾に向け淡い青のグラデーションでふわりと揺れるオーガンジーのドレスは、幼いながらも女神の風格すら漂わせていた。
ステラを囲む包囲網の前衛の一軍、二軍も含め、その姿に頬を染めて見入っている者は多い。
多いが、同じ様にステラを憎々し気に見つめてくる者もそれを超える程に、多い。
そんな自分を見つめる目になんて構うこともなく、ステラはドレスの裾を持ち上げるや否や、一気にそれを脱ぎ捨てた。
「「なんてことをっ――――?!」」
ステラの突然の行動に大騒ぎになる2トップや外野にも全く構わず、脱ぎ捨てたドレスを両手に抱え、ステラは遠巻きにこちらを窺っていた双子に歩み寄った。
双子は外野と同じく、零れんばかりに目を見開いていた。
「申し訳ないが、母上にお返ししてください」
ドレスに引っかかり、華麗に結われた髪も一気に解け、腰まで伸びる銀の髪がさらりと流れ落ちた。
「「お、お前――――?」」
「面倒だから、もう帰る」
これも返却するとばかりに子供用の可愛らしいローヒールの靴も脱ぎネイサンに手渡して、にっこりと笑うと、双子の顔が真っ赤に染まった。
ドレス下に着ていた真っ白の膝上のスリップのみの姿になったステラは、誰にも恥じることもなくすたすたと窓辺に歩み寄ると、テラスに抜ける大窓を両手で開いた。
今日は満月。
銀盤の様な月が夜空を蒼く照らすその光が、ステラを包み込んだ。
蒼い銀の月の光は、同色のステラの長い髪と姿を照らし、ステラの全身を発光しているかのように淡く輝かせた。
人のそれとはまるで違う神聖な何か。
ステラを嘲り蔑んでいた者達は、我知らずそれを理解し、声を無くしてただ、ステラを見つめた。
「ま、待て!ステラ!!」
その中で唯一声を上げる事の出来たネイサンの声に、ステラが振り返った。
「帰るって、どうやって?馬車もなしに邸に帰れるわけが―――」
ステラを毛嫌いしている割に、ネイサンの家族枠に自分が入っていることを知って、ステラはちょっと嬉しかった。
小さく笑って、ステラは身軽にテラスの手すりに飛び上がった。
「もとの居場所に還ります。兄上には―――よろしくお伝えください」
ひらりと飛び降りる。
夜会の明かりが星のように輝く中を、月明かりに照らされながら地面に降りてゆくステラの髪が翼のように広がった。
「落ちた?!」
「飛んだ?!」
テラスには中ホールにいた子供たちが鈴なりで、女の子達の悲鳴と男の子達の大騒ぎの声が周囲に響き渡り、異変を察知した警備の私兵がばらばらと走り現れた。
ステラはというと、そんなことには一向に構わず、公爵邸の広い庭園を風のように走り抜けていた。
クザンとネイトは護衛で同行してはいるが、今日は父上と母上に付いて夜会に居るはずだ。
兄上も、側には居ない。
スタンレイ邸でいつもあった監視の目が外れているこの好機を、逃す理由はステラにはなかった。
ウィウラー公爵家はステイビア王国でも屈指の大貴族で、転移ゲートを所有している。
場所は、本邸の南。正門とは反対の裏門の近く。
公女レティシアが他の令嬢へのマウントで自慢げに話しているのを聞いたことがある。
庭園の庭木に構わず走るステラのむき出しの腕と足は、枝先で切り付けられ血が滲み出ていたが、そんなことは気にもならない。
表に出れば、警備の公爵家の私兵に見つかる。
公爵家主催の夜会だ。皆、煌びやかな会場に集まっているから、庭園は身を隠しながら移動するには打ってつけだし、森を移動する事に長けていたステラには造作もないことだ。
還るのだ。
振り返ってはいけない。
アイザックを、思い出しては、いけない。
ステラは目を瞑り、頭を振って、心の中のアイザックを振り払った。
それが、悪かった。
キレイに刈られた生け垣を一気に飛び越したその先には何故か地面がなくて、ステラは意図せずにそこにあったワームホールに飛び込んでしまった。