17:師匠の想い
後にも先にも、父上の涙は、あの時しか見たことがない。
と言えば、語弊があるか………?
最近はめっきり、涙もろくなっている父上だ。
やれ、娘は可愛いだの。嫁にやらんだの。
私が少しずつ大人になるごとに、嬉し涙をこぼす父上が、しんみりと過去に涙したのは、あの時だけ。というのが正しい。
ステラを拾い育ててくれた師匠の名前は、リアム・ゲイブリエルと言って、父上となんとクリストファー・ダニエル国王陛下と3人で、幼い頃からのマブダチトリオだったらしい。
初めてそれを聞いた時は、嘘だろうと思った。
人との出会い、そして縁というものは、本当に不思議なものだと、ステラは思う。
全てが繋がって、今がある。
今となって思えば、貧民街で師匠に拾われたのも、未来への必然だったのかもしれない。
今宵の夜空には金色の半月が輝いている。
西湖の島の別邸で避難生活を送ること1週間。兄上が迎えに来ないということは、まだセオが本邸に粘っているのだろう。
第一王子ともあろうものが、臣下である侯爵家にこんなに逗留していて問題にならないのだろうか?
まあ、夏が過ぎ秋の良い季節であるこの時期には、セオはいつもスタンレイ本邸に避暑に訪れているから、今回もそれで通す気なのかもしれない。
「まったく、面倒な王子様だ」
「同意するが、不敬ととられると厄介だぞ」
湖畔をひとり夜の散歩としゃれこんでいたステラがぽつりと呟くと、背後から不意に声が掛けられた。
この島には許されたものしか渡れない。
危険人物ではないとしても、居るはずのない人間が現れれば驚くのが普通だが、ステラはびくともせずに体を反転させ、声の主の腕の中にぽすんと納まった。
「そろそろ来る頃だと思った、兄上」
「お前の顔を見ないでいられる限界を超えたからな」
「だから待ってた」
アイザックの胸にすりっと顔を摺り寄せてから、ステラは彼を見上げた。
自分の運命に一番の影響を与えた最大の出会い。それはアイザックであることは間違いがない。
「ここで会うと、あの時を思いだすな。黒王がお前から離れたがらなかった」
「馬糞まみれだったのにな。場所はあっちだった」
湖の向こうの森側の湖畔を指さすステラに、アイザックが小さく笑った。
「双子のせいでひどい惨状だったが、ちいさい頃のお前は本当に可愛かった」
「今は違う?」
ちょっと膨れて見せて体を離そうとするステラに、アイザックが破顔一笑するとステラをぎゅうっと抱き締めた。
「今のお前は可愛くて綺麗だ」
アイザックがこんな顔を見せるのは自分だけ。
それを知っているステラは、それを見るとどうしてよいかわからなくなる。
この兄は、自分を甘やかすことに関しては天才的なのだ。
「体が冷えているな」
するっとステラの体を反転させて背中から抱き込むと、アイザックはそのままステラを自分の腿の上に乗せ草の上に座り込んだ。
すっぽりとアイザックの懐に抱きこまれてしまう。
自分の前面に回された両腕と背面のアイザックの胸板から、決して高くはないが温かな彼の体温を感じる。
ステラの肩口に顎を乗せ、アイザックは自らの左頬を、ステラの右頬に摺り寄せる。
「少しは違うだろう」
暖かいか?の意だ。
ステラはくすくす笑いながら頷いた。
「それにしても、良くセオを振り切って抜けて来られたな」
「酒で潰してきた。あいつは昔から諦めが悪過ぎる。足にしがみついたまま寝落ちしやがって、蹴り倒してきた」
おお。兄上の言葉が崩れている。
これはかなり飲んでいるなと、兄上の酒量を推し量る。
「セオを潰すとなると、兄上もかなり呑んだな」
「兄上って言うな。アイザックと呼べ」
うん。これが出るとなると、泥酔一歩前だ。
「朝まで居られるなら、別邸に戻って一緒に寝よう。ここで寝落ちしたら二人して風邪を引く」
兄上の足を跨いで、回された両腕を引っ張って、うんしょっと、兄上を背負う。
通常状態では長身で筋肉質の細マッチョな兄をステラが背負う事など無理なので、瞬時に身体強化と浮遊の風魔法を展開する。
「お前に背負われるのは屈辱なんだがなあ―――」
「私は兄上に勝ったみたいで嬉しい感じ」
「アイザックって呼べ」
ぎゅっと軽くヘッドロックされてステラは声を上げて笑う。
「お前の笑い声を聞くと、俺は、幸せな気持ちになる」
「一人称が俺になった」
くすくす笑うステラに「笑い事ではない」とアイザックは呟く。
「セオの野郎―――父上達のマブダチトリオ協定まで持ち出して………お前を嫁にすると言って引かん」
「ああ―――例のアレ?また蒸し返してるのか………」
師匠、父上、国王のマブダチトリオが制定した協定を思い出すステラだが、背中のアイザックがどんな顔をしているか見ることは出来ない。
ただ、自分に回されたアイザックの両腕の熱が、ステラの心を焼いた。
◆◆◆
師匠の剣の刻印に侯爵が大粒の涙を零した後、西の湖の湖畔からステラは速やかにスタンレイ本邸に強制連行された。
あらゆる汚れを綺麗さっぱり洗われて、清潔な衣服に着替えさせられ、侍女長ローズ命名の「驚きの白さ」に戻った頃には、ステラに対応する家人が一人を除き一掃されていた。
メイドも女中も顔ぶれが代わり、侍女と侍従、護衛まで付けられた。
護衛は諦めるしかない、ネイトさんである。
大変遺憾である。と伝えると「酷い」と笑われた。
客間に立ち入れるレベルに仕立てられたステラを、双子以外の家族と、執事、側近侍従などスタンレイを支える上級使用人達が迎えた。
―――双子は。
後になって聞いたのだが、この時は侯爵夫妻と嫡男によるキツイお仕置きを施行中で、敷地内にあるダンジョン(?)に放り込まれていたらしい。哀れである。
「リアム・ゲイブリエル?」
「この剣の主の名だ。名を聞いたことはないのか?」
「ありません。師匠は、師匠なので―――」
「リアム・ゲイブリエル」が師匠の名前だと、侯爵は言う。
初めて聞くその名が、ステラには師匠の姿と重なりはしない。
「剣違いと言うことは―――」
「ない。私がリアムの剣を見間違うことはない」
「では、そのリアムさんから、師匠に剣が渡ったとか、拾ったとか………」
「それこそあり得ない。自分の命と同意のこの剣を、リアムが手放す事は絶対にない。リアムがこれを手放すのは、自分の命を託すことが出来る相手ただ一人―――」
師匠がその命を終えようとする時、ステラに残した言葉が頭の中に響く。
「リアムは剣を渡して言ったはずだ―――自分の命をつなげることが出来て良かった。と」
『自分の命をお前につなげることが出来て良かった』
そう。
師匠は、確かにそう言った。
ステラの手が震えだす。自分でも気付かなかったのに、隣に座っていたアイザックが手を伸ばしステラの両手を包んだ。
「―――どうして信じることが出来るんです?侯爵の親友とオレの師匠は、別人かもしれない。侯爵の親友の剣を、師匠が奪った可能性も」
「ないな。リアムの剣を奪える程に強い者を私は知らない。それに先刻の森での乱戦を、私はこの目で見た。太刀筋を見ればわかる。君は、リアムに鍛えられた、リアムの剣を継ぐ、リアムの子だ。血が繋がっていようがいまいが関係ない。そして、リアムの子ならば、私の子でもある」
侯爵はそう言い切ると静かに席を立ち、ゆっくりと歩み寄ると床に膝をついてステラを見上げた。
「すまなかった。君をリアムの子と気付かず、辛い目に遭わせてしまった。アイザックと、クロエのカンの良さは知っていたのに、私は、認める事が出来なかったんだ。最初から、剣に、既視感を覚えた時から、私も本当はわかっていたのかもしれない。リアムならば、スタンレイの総力を以てしても探れない程に、君のすべての痕跡を消すことができると」
そもそも、君の口調はリアムの口調とそっくりだ。と侯爵は笑う。
国王よりも力があるとも言われるの侯爵様が、膝をついて詫びてくるなどあってはならない。
瞬時にソファーを飛び降りて、ステラは首を振った。
「立って下さい。オレはただの孤児で師匠に拾われただけの」
「君の本当の名を、当ててあげようか、ステラ?『ステラスタ』だろう?」
「え?」
侯爵が、笑う。
どうして?それを知るのはもう世界に誰もいないというのに………。
ステラの目が光を帯びて、透明な膜がその瞳を覆う。
「当たり。だろう?リアムが、もしも自分が子を持つとして、その子が女の子だったら付ける。と言っていた名が『ステラスタ』だ」
夜空に一番に輝く星の名。
師匠がステラにくれたその言葉を、侯爵がくしゃくしゃな泣き笑いの顔で伝えてくれた。
ステラの深いアメジストの瞳から、透明な涙がこぼれ落ちる。
やっと、わかった。
師匠の名前は、リアム・ゲイブリエル。
そして、師匠が大切な友にと残した言葉は、目の前の人に、ウィリアム・ローリー・スタンレイ侯爵に伝えるべきだと、ステラは理解した。
「師匠から、師匠が亡くなる寸前に、大切な友達に伝えて欲しいと、オレは伝言を預かっています。それは、侯爵に、伝えないといけないと………思います」
「リアムが?」
くしゃくしゃの顔のままびっくりと目を見開き、ステラにかぶりついてきた侯爵だったが、「あ?!」と声を上げ、首を振った。
「リアムから残された言葉を、すぐにでも聞きたいが――――もうひとり、一緒に聞かないと、大変に面倒な男がいる。一緒に王宮に行ってもらっていいかい、ステラ?」
想定外の侯爵の言葉に、ステラの涙が驚きに引っ込んだ。
ステラは、この直後に訪れることになる王宮で、マブダチトリオが制定した協定を知り、この親父共の結束の強さを知ることとなる。