14:もうひとつの事件1
あの日の事件は確か夜半過ぎに起きたと記憶している。
事件当日の、日が傾きだす前の時刻に、泥だらけの馬糞まみれで、敷地内の森の中を湖に向かいステラは馬で駆けていた。
汚れた衣服を着ることは幼い時から慣れてはいたものの、馬糞は、とっとと洗い落としたいものでしょう?
アイザックとの「賭け」がスタートしてから1週間が経とうとしていた頃。
スタンレイ邸に潜入している間者連は、アイザックに聞いた通り一掃が進んでいるようで、ステラが命の危険を感じる頻度は減った。だが、それに比例するように、一部の頭の足りないメイド達からのステラへの嫌がらせは増加していた。
その最大の理由は、スタンレイ夫妻と嫡男であるアイザックが、王宮から生まれたばかりの4男の顔見せに招聘され、本邸不在となっている事があげられる。だが、彼女らの嫌がらせ等ステラにとっては可愛いものだった。
こちらに聞こえるように「浮浪児」だなんだと罵倒されてもそれは事実だし、世話を焼くべきメイドが部屋に来ずともそもそも部屋に居ないのでダメージはない。
少々辛いのは食事の提供がない日々が続いている位のものだが、スタンレイの森は広大で豊かだ。秋も終わるこの時期でも木の実や果実など、食べる物には事欠かない。
ただ、成長期の身の上としては、そろそろタンパク質の摂取をしたいので、獣でも狩って森で焼いて食おう。とステラは森に向かった。
ディトーは流石にいないしな。何を狩ろう?
肌身から離さない師匠の剣を手に、馬場横の小路を歩いていたら、ステラとしたことがヤラれてしまった。
「「竜顔賜りしスタンレイの小侯爵イーサン・ワイアット!ネイサン・ヴィクトル!ただいま参上!!」」
スタンレイの小悪魔ツインズが、中二病真っ只中なフレーズと共に現れた。
次男三男タッグでの、絶好のタイミングを狙っての風魔法攻撃が、ステラにクリティカルヒットし、馬場横の馬糞堆肥溜めまでステラは吹っ飛ばされた。
ひと目会ったその日から毛嫌いの花が咲き、ステラを大変に気に入らない双子は、アイザックとクロエが居ない、見ていない、となると傍若無人にステラへの攻撃と排斥をスタートさせる。
今日はそれが始まって以来の大成功をおさめたらしい。
「最高に似合うぞ!」
「そのまま馬糞と一緒に堆肥になってしまえ!」
姿も色も、アイザックにそっくりな綺麗な双子は、ケラケラと笑い声をあげ、本邸へと駆け戻っていった。
どうやら、これのタメだけにこんなところで待ち伏せして、来るかどうか分からないチャンスに賭けたようだ。
「―――暇人だなあ」
一人呟いて、殆ど埋まってしまった堆肥溜めから、ステラは体を起こした。
あのやんちゃ具合であれば、王宮へ連れて行くことが出来ず、留守番になるのもわかる気がする。
更に、あの傍若無人な双子の煽りで、家人たちのステラへの虐めがエスカレートしているのだなあ。と納得する。
それにしても凄い。
全身どろどろです。
白かった服が、驚きの馬糞色に染まっている。
何度目かの脱走チャレンジで森の向こうに湖を見つけた事を、ふと思い出す。
家の敷地内に湖たぁ、どんだけ広いのか。と呆れたものだが、あの湖ならばこの馬糞汚れを洗った処で、水汚れが目立つことはないだろう。
これ以上堆肥で汚れないように大切な剣を掲げ上げ、泥濘みから這い上がろうとしたステラの前に影がかかる。
見上げるとそこには立派な体躯をした、黒光りするような見事な黒馬が硝子珠みたいな茶色の目でステラをじっと見下ろしていた。
「―――お前は軍馬だな。汚れるから離れた方が」
黒馬は軽く頭を垂れると、ステラの顔に鼻面を擦り寄せた。
「ああああ、汚れるよ?」
柔らかな温もりが嬉しくてくすくす笑うステラに黒馬が軽くいななき、服の襟元を噛むと泥濘みから引き揚げてくれた。
「―――ありがとう。助かったケド……お前が汚れちゃったな」
あまりの自分の汚さに離れようとするステラに構わず、黒馬は更にすり寄ってくる。
それがくすぐったくて声を上げて笑って、ステラは黒馬の顔を撫でると、ヒン!といななき黒馬は馬体を屈めてステラを引っ張ってきた。
「乗せてくれるのか?」
その背に跨ると、黒馬は馬首を左に向けた。
「うん。湖に行きたいんだ」
ステラを乗せて、ステラの望む場所へと、黒馬は嬉しそうに駆けてくれた。
黒馬のお陰で歩くよりもかなり早く湖に着くことが出来たが、今度はまた違う問題がステラに降りかかる。
この湖は、簡単にはその水に触れさせてはくれないようだ。
ステラの目には、水面に幾重にも施された複雑な魔術陣が視えていた。
どうしたものかと考える。
鼻はすでに慣れて、自分の馬糞臭ささにも気にならない位だが、ここまで乗せてくれた「彼」だけでも汚れを落としてあげたいのだ。
「う~ん」
ちらりと視線を後方の大木の枝に流し考える。
自分には護衛兼監視役が付いているようなので、正直あまり手の内を見せたくはないステラである。
アイザックとクロエは、なんとなく信用しているが、その他の人達はそうではないからだ。
「まあ、いいか。お前を洗ってあげたいし」
隣で自分を見ている黒馬の馬首を撫でて、ステラは決めた。
「ちょっと待ってね」
湖畔に歩を進め近付く。
あと一歩で水に足がつく。
「――――――!!」
声と共に後方の大木から声にならない叫びをあげて人影が飛んでくるが、それには構わずステラは水際に膝をついた。
水面に向け礼を払い、人に尋ねるように問う。
「汚れを洗って良いですか?」
すうっと、風に吹かれた様に水面がステラに向いて波立ち、こちらに寄せてくる。
それに深い一礼を返して、ステラは静かに両手を湖水に浸した。
恐らくステラの護衛兼監視役であろう人影が「クソっ!」と地面を殴りつけ崩れ落ちたが、耳に聞こえる水音に怪訝に顔を上げて、目玉が飛び出す程に目を剝いた。
ステラと黒馬は湖で水浴びを開始していた。
自分の汚れはそっちのけで、黒馬の汚れを水をかけ手で落としてやると、彼は気持ちよさそうにステラに鼻面を擦り寄せる
「えええ?!凍ってない?!な、何で、え?!」
アイザックからステラにつけられていたネイトは、驚きの叫び声をあげた。
「凍る?ああ、水面の魔法陣は、氷柱変化か。湖水がランチャーなのか―――」
腕を組んでうんうん頷く幼い子供に、ネイトがじりっと後ずさって尋ねた。
「魔の森でのあれこれで、只者ではないと思ってはいたが……ここの解呪ができるってのは」
「解呪はしてない。出来るわけないだろ、こんな大魔法使いクラスの魔術陣。無理だよ」
ん?とネイトが首を捻る。
彼は、すでに任務の事を忘れているようだと、ステラは思った。
護衛はわかるが、監視役としては姿を見せたらアウトではないのだろうか?
「じゃあ、なんで水の中に入れるんだ―――?」
「湖の主にお願いした」
ステラの言葉に、ネイトは首が折れる程に首を捻って傾げた。
・・・
ネイトがステラの前で首を折りかけている頃、本邸の自室の中でスタンレイの次男と三男は顔を突き合わせ困り果てていた。
「ヤバイな、ネイサン」
「マズいな、イーサン」
ステラを馬糞堆肥溜めに吹っ飛ばして、どろどろの姿に大笑いして邸に帰ってきたまでは、最高の気分だったのに、今はその逆。二人は今、最悪の気分である。
王宮に4男ジョシュアの拝謁に行っていた両親と長兄アイザックは、あと1週間はこちらに戻らないと聞いていた。
だからこそ、これでもかという位に長兄が連れてきた小汚いー今はびっくりするくらいに綺麗なーステラを、罵倒しスタンレイから追い出そうとしていた。
あと2-3日あれば、完璧に追い出せる予定だったのだが、その予定をひっくり返さなければいけない事態を知ったのは、先刻の夕食中のことだった。
執事長であるオーバックが二人に、ステラはどこにいるのか尋ねてきたのだ。
その理由が、両親と長兄が予定を早めて「明日」本邸に帰宅するからだという。
「―――ステラ付きのライザなら、居所を知っていると思うよ。ね、ライザ?」
ライザは双子に従いステラを虐め排斥を続けている、双子の手下だ。
イーサンの呼びかけにライザは顔を青くしたが執事長の目が自分に向くや否や、意を決したように口を開いた。
「お、おお部屋で、お休みに、なっています!ご体調が―――優れないそうで!!」
オーバックは昨日まで両親について王都のタウンハウスで手腕を振るっていたが、明日の本邸帰宅準備に、昼頃この本邸に先に戻ってきたのだ。
「若様と奥様は、ステラ様に早くお会いしたいと、帰宅を早められました。ステラ様のご準備もせねばならないのですが―――お休みであれば、ドレスなどの下準備は、進めておけるか?」
「はいいい!今からすぐに!!」
ステラが邸のどこにもいないことを知っているライザは、ひとまず逃げの一手とばかりありえない速度で走って消えた。
あのあと、オーバックに捕まり尋問される前に、双子はそそくさと自室に戻り対策会議を始めていた。
「兄上にバレると、殺されるかもしれない………」
「間違いなく殺されるな。何でか、兄上はあの浮浪児に固執している」
「母上も、まずいな」
「まずいな」
しばしの沈黙の後、二人は同時に口を開いた。
「「探しに行くか」」