1:プロローグ
―王城の夜会は面倒だ。
ステラの頭に浮かんだのはその一言だ。
「どぶねずみが、よくも王城の夜会に顔をだせたものね」
「あなたのような庶民の生まれが―――今すぐ、出ていきなさい!」
「まあ、違いますわ。庶民ですらない、最貧民窟の出生ですわよ、ああ、匂いますわ」
「どうしてこのような貧民を養女になど・・・名門スタンレイ侯爵家とあろうものが、一体どうして」
孔雀のようにギラギラと着飾った喧しい雀たちに、ステラはとり囲まれていた。場所は王城迎賓館ホールと本城をつなぐ回廊へ続く大階段下の死角である。彼女らは貴公子たちから見えず、心置きなく相手をいたぶる場所として、この場を選んだらしい。
うん。人目を気にせずいじめを行うには絶好の場所ですね。
ただ、この大階段。王族がホールに現れる時に使用する、由緒ある階段だったと思う。
今、王族がお出ましになった知らせが鳴れば、一気に人目に付くことを考えていない点を考慮すると、彼女らもまだ甘いな。とステラは独り言ちた。
けらけらと下卑た笑いで顔をゆがめる「自称淑女」達を尻目に、ステラは優雅な所作で扇を広げ美しく小首を傾げ儚げに俯いて見せた。
人目が届かない死角だというのに、その美しい姿に周囲の視線が集まっていく。
ステラスタ・エレノア・スタンレイ。
空の青を映す雪原に咲く冬薔薇。
青をうつす銀の髪に深いアメジストの瞳。怜悧なその美貌は「スタンレイの冬薔薇」と呼ばれている。
出生は確かにこの国最下層の場所であっても、その美しさに偽りはなく本来であれば16歳での社交界デビュタントを王命で1年早くデビューした侯爵家の養い子は、彼女らが束でかかっても勝てるものではない。
その美しい姿に、彼女らは一瞬言葉を無くす。
ギリギリと歯噛みする彼女らを見つめて、ステラは本当に面倒だと内心ため息をついていた。
最貧民出身だなんて、そこで6歳まで生まれ育った自分が一番よくわかっている。
侯爵家の養女になったのだって成り行きで自分が希望してのことではないし、できれば今でもこんな「タヌキとキツネの化かし合い」みたいな世界からおさらばしたい。
この夜会だとて来たくて来たわけではない。
出来る限り参加などしたくないというのが本音だが、この度は第一王子殿下からの正式な招待状がある為、不参加は臣下として認められなかった。
ああ、面倒だ。
こいつら全員床に沈めてここから去りたいな。
ついにステラの本音が湧き上げってきた。
冷たいアメジストの瞳に氷の炎が灯り、彼女らは本能的に恐れを抱きその身を震わせた。
「「なんて目で見るの!無礼者!!」」
ひとりの右手がステラの顔を狙う。
ひとりが手にしたワイングラスの中身をステラのドレスに向ける。
すいっと流れるように体を傾け、ステラは取り囲んでいた一番近い男爵家の娘の腕をとった。
「え?!」
声を上げる間もなく、ステラと居場所が反転した男爵家の娘はなすすべもなく頬をぶたれ、ワインを頭からかぶった。
「「「どうして?!」」」
さて。一人くらい気を失わせれば、それにかかりきりになってこの場を抜け出せるだろう。とステラが左手で手刀を構えようとしたその時、状況を良い意味でも悪い意味でも一変させる最終兵器がやってきてしまった。
「———ステラ」
無言で囲みを破ってきた彫像の様に美しい長身の貴公子に彼女らは声を無くし、立ち尽くして茫然とその顔に見とれるしかなかった。
「お前には双子を付けたはずだが?」
「かわいらしい女性たちのお誘いを断れなったようで」
ステラをも超える怜悧な美貌。女性でも持ちえない程の長いまつ毛は髪と同じプラチナブロンド。瞳は暗青色の深いサファイアを思わせる氷の美貌の持ち主は、表情を変えることもなく彼女らを一蹴すると冷たい重低音ボイスで呟いた。
「………それでこの状況か」
「問題ありません、兄上」
するりと白手袋を嵌めた右手をステラの左頬に滑らせる相手に、彼女はその手を重ね小さく微笑んだ。
「皆様は、貧民窟生まれのわたくしがこの場にそぐわないと、早々に帰路に着いた方が良いとのアドバイスをくれただけですわ」
「ほう……」
スタンレイ侯爵家嫡男アイザック・ヴィンセント・スタンレイは相変わらずの鉄仮面で一息ついた。
周囲がブリザードかと感じるほどの冷気に包まれ、更にはちらちらとダイアモンドダストの氷の粒が光りだす。
「「「————ひっ!!」」」
気のせいだけではなく、本当に周囲の温度は下がっており、壁際に飾られた花も、壁すらも凍り付いていく。
「兄上。良い助言を頂いたので、わたくしは身の程をわきまえ屋敷に帰ろうと思います」
「良い判断だ。クレセント侯爵家、ベゼル伯爵家、ローナン子爵家に、ベルナール、コール男爵家のご令嬢達に礼をお返しせねばな」
ステラを取り囲んでいじめ倒そうとしていた令嬢達は、家名を呼ばれたことで自分を見知ってくれた喜びよりも、恐怖を感じ始めていた。
アイザックの目は、その眼差しだけで人を殺めてしまいそうなくらいに冷たく恐ろしいものだったからだ。
「そこの君」
アイザックはホールの警護に当たっていた近衛兵を呼び止めた。
「セオに。セオドア第一王子殿下に伝言を頼みたい。我が妹に頂いた第一王子殿下からの直々のご招待ではありましたが、クレセント、ベゼル、ローナン、ベルナール、コール家の口添えを頂いた為、帰着すると」
「そ、そんな!?わたくし達はそのような……そのようなこと!?」
侯爵令嬢が泣き声を上げた。
恐れ多くも第一王子殿下の直接の招待者を勝手に帰宅させたなど、そのようなことが露見すれば、家の立場は大変まずいことになることは、彼女でも簡単に理解できた。
それも、相手はスタンレイ侯爵家である。
泣き声を上げた令嬢は同格の侯爵家の娘であるが、家格はスタンレイが上である。何故ならスタンレイはこのステイビア王国に3家しかない公爵家と同格とされるほどの家格と力を持つ、王国でも別格の家であるのだから。
スタンレイの次期当主であるアイザックが義妹を溺愛しているという噂は、貴族であれば耳にしたことがある。
だけれども、これははたして「溺愛」という言葉だけですましてよいものだろうか?
彼女たちは死を覚悟するほどの寒気を、威圧を、今なお全身に受け続けている。
「帰るぞ」
するりと右腕を差し出したアイザックにステラは微笑を浮かべ頷いた。
至高の一対のような美麗な兄義妹が緩やかに歩みだす姿を一同は凍り付きながら見送った。
彼らの姿がホール内で遠のき、車寄せに一番近い大扉の向こうに消えるまで、彼女らの体は動かずそしてやっと自由になったと思うと皆一様に膝から崩れ落ちた。
恐怖と緊張から解放され腰が抜けたのだ。