ビューティフル・ジョーク
知らない女性が僕の目の前の席にトレーを置くと、黙ってラーメンを食べ始めた。なぜここに座るのだ、という疑問が最初に僕の頭の中に生じたのは言うまでもない。昼時を過ぎたためか、詰め込めば600人は収容できそうな学食は閑散としていた。店員と思しき中年女性二人が遠くの席でお茶を飲んで休憩していた。彼女は僕の視線を気にも留めず、下を向いてラーメンを食べ続けた。無言だった。麺をすする音だけが響いていた。記憶を遥か彼方までさかのぼってみたが、どう考えても僕は彼女を知らない。なぜここに座るのだ。疑問符のコピペが無限に繰り返されて、僕の頭はパンクしそうになった。それが彼女との最初の出会いだった。
*
これは、僕が大学生になって1年目、教養学部に在籍していた時の話だ。僕はある総合大学の工学部に入学したのだけれど、最初の一年はだれもが教養学部に属して、専門外の多岐にとんだ科目を履修する。来年になれば、ここから北に20kmほどの山裾に位置する工学部のキャンパスに移動して専門的な教育が始まる。
教養なんて好奇心の赴くままに本を読んでいれば自然と身に着くもの。1年間、興味のわかないわずかばかりの授業を受けて何を得ようというのか。義務的に授業を受けて、容量よく単位だけ取って、適当にやり過ごすことに決めていた。そんな人生の空白期間のような一年の中に起きた、これまたエアポケットに放り込まれたかのような、目もくらむような一日の出来事。それほど彼女との出会いは異質な残像を脳裏に刻み付けた。
新年度から新しい環境に身を置く多くの者が軽い鬱気分に見舞われる、5月の昼下がりのことだ。僕もまた例外ではなく、気持ちが緩んでいたのだろう。自身の歴史の中でも記録的な朝寝坊をした日だった。必要最低限の身支度をすませ、自転車を飛ばして、キャンパスに到着したものの、午後一の授業に間に合わないことを悟った僕は、途中から教室に入る気まずさと、その文化人類学の講義の重要性を天秤にかけて、欠席することに決めた。
手持無沙汰になった僕は空腹を感じたため、昼時を過ぎてガラガラに空いた大学生協の食堂でアジフライ定食を食べていた。半分ぐらいの量を食べ終えた頃だろうか。テーブルの向かい側に女性が座った。黒髪の小柄な女の子だった。ブラックとブルーのチェックのシャツを着ている。ガラガラに席の空いた学食、同じテーブルの僕の向かい側に座ってラーメンを食べ始める彼女。無言でラーメンをすする音が広い空間に響いた。
どう見たって知らない女性だ。怪しいサークルか、宗教の勧誘、それとも何かの詐欺だろうか。それにしては大胆なアプローチだ。いずれにせ、関わらない方が良い。僕の経験がそう判断した。この前もアパートに尋ねてきた宗教家とやり合ったばかりだ。先にアジフライ定食を食べ終わった僕は席を立とうとした。その時、彼女は突然、顔を上げて、僕を見つめ、声を発した。
「ねぇ、私の感覚がおかしいのかなあ?こんなに席ががら空きなのに私の前に座るって、あなた不自然よね?」
当時、大学生の僕は、アパートに引きこもって人と合わないことが多かったから、会話の感覚を忘れてしまったのだろうか、人の話にうまく反応することができなくなっていた。いつも反応が遅れる。そんな状態で食らったカウンター。僕は目がくらんで、崩れるようにして、席に座り直した。彼女の大きな目に睨まれる中、やっとのことで、口を開くことができた。
「だって、僕が先に・・・」
彼女は僕の声を遮った。
「え?何?聞こえないよぉ。私は、なぜあなたがわざわざ私の前に座ったのか、その理由を知りたいの。明
らかに不自然な行為よね? あなた常識はある? そう、常識的にみて不自然な行動。何が目的なのか、どういう気持ちでここに座ったのか、あるいは、あなたにとってはこれが常識なのか。」
彼女にまくし立てられ、僕の頭が目を覚ましたようだった。否、感情は相変わらず寝ぼけていたが、理性が目を覚ました、というのが正確だろうか。さっきまでの僕は本当に寝ぼけていたのだろうか?見えるはずのものを認識できなかったのだろうか?そんな微かな疑いが頭を過ったが、過去の自分を振り返ってもここまで誤認識する確率は薄い、という結論に達した。
そうだとして、彼女の目的は何なのか。何度か痛い目のあった、宗教の勧誘や詐欺のことを思い出した。しかし、アプローチとして強引すぎないか。まさか、ナンパ?だとしても自分なんかに声をかけるとか、悪趣味もいいところだろう。まあ、それはないだろう。いずれにせよ、目の前のおかしな女に関わるべきではないと判断し、穏便に済ませる方向へ舵を切ろうと思った。
「すみません。気付きませんでした。」
「え?あなた頭、大丈夫?ちょっと話を聞きたいから、私がラーメン食べ終わるまで待ってて。」
そういうと彼女は再び下を向いてラーメンをすすり始めた。僕はどうしたものか、と思いながら、彼女の口に吸い込まれていく細長い麺のゆらぎを見つめていた。
急ぐ素振りも見せずマイペースでラーメンをすする彼女。おそらく、世間一般の目からは、「可愛い子」の上位2割にランク付けされるだろう。そして攻撃的でロジカルな話しぶりとのギャップ。僕は不本意にも引き付けられてしまったのだと思う。
意図は不明だが、これは彼女なりのジョークなのでは。であれば、それなりの返し方をしなければ、と考えた。彼女は箸をおいて、水を飲みほし、僕をまっすぐ見つめて、再び口を開いた。
「ねぇ、あなた、今、私のこと、変な女って思ったでしょう?関わりたくないなぁ、って。でも誤解しないでね。おかしなことしたのはあなたなんだから。そういうの私、気になって仕方ないの。私のモヤモヤした気分を晴らしてくれないかしら。」
僕は彼女が食事中にとっさに用意した答えを淡々と話した。
「ごめん、僕が悪かったよ。心理学のレポートのために、統計を取っていたんだよ。こんなときに人はどんな行動を取るかってね。これまでのどの女性も黙って睨みつけて席を移動した。突っ込みを入れてきたのは君だけだったよ。どうして、わざわざ僕の行動を指摘したのだろう。ぜひ理由を聞かせてくれないかな。」
僕は彼女の顔をうかがった。彼女は表情を緩め、優しく微笑んで言った。
「まあ、いいわ。あなた、最低限のセンスはあるみたいね。」
彼女は、続けた。
「少し時間あるかしら。私のサークルに案内したいの。」
*
3階建てのサークル棟の2階の一室。ドアにはこう書かれていた。
「漫才研究会」
中に入ると、6人ぐらいは座れそうなL字のソファとその前の広いテーブル、壁際にスチールの本棚。本棚は8割が本で埋まっていた。テーブルにも本が積まれていた。窓からは、午後の日差しが斜めに差し込み、壁際に置かれた観葉植物の葉っぱに線を入れていた。彼女はドアの横の流し台に置かれたコーヒーメーカーをセットした。続いてその横にある小さな冷蔵庫からショートケーキを取り出し、ナイフで切り出して皿に乗せた。機械が音を立て始めたのを確認すると、僕たちはソファに座った。僕は質問した。
「部員は何人いるの?」
「私一人。今は文献を集めて読むだけの活動。私、今年で卒業予定だから来年は廃部ね。」
彼女がカップに注いだコーヒーとケーキの乗った皿を持って戻ってくると、僕たちはごく普通の会話をした。名前、所属、出身地、趣味、家族のこと。といっても、彼女が矢継ぎ早に質問し、それに僕が答えるだけだった。
「私の家族の話も聞きたいでしょう?」
「別に。」
「不公平よね。あなた自分のことばかり話してさ。とりあえず聞きなさい。」
僕は頷いた。
「私のお母さんはね、なんと、お笑い芸人だったの。下積みが長くてね、30代後半でようやく才能が花開きかけたの。続き聞きたいでしょう?」
僕は頷かざるを得なかった。
「ある中学校の文化祭に招かれたときのこと。お母さん研究熱心だからね、笑いのトレンドをしっかりとらえていて、もちろん、大うけ、大盛り上がりよ。でもね、一人だけブスッとしてピクリとも笑わない子がいたの。何が面白いの、って言わんばかりの。お母さん繊細なのね。そんなやつ無視すればいいのにさ。気になってしかなかった。そこ子は漫才が終わって生徒たちが帰った後も会場に残って難しそうな本を読んでいた。だから、声をかけたのね。
『ねぇ、君、一つ聞いて良い?』
その子はお母さんを一瞥してなずくと目線を本に戻した。お母さんは続けた。
『もしかして私のネタ面白くなかったかな?なんかあんまり笑っていなかったからさ。表情に出さないだけ?』。
その子は視線を落としたまま、静かな声で答えた。
『どこがおもしろいのかわかりませんでした。』
『そうなの。ねぇ、よかったら、君の笑いのツボを教えてくれないかな。今後の参考にしたいのよ。例えば、お笑い芸人で誰が面白いと思う。』
『誰も面白くない。みんなわざとらしいから。』
『へぇ、すると君は天然しか、ツボにはまらないんだ。天然にはさすがに勝てないよぉ~』お母さんは本に目を落としているその子の目に入るように渾身の変顔を近づけた。その子は目を合わせたが、ピクリとも笑わずに言った。
『はい。だからお笑い芸人なんて存在意義はないと思います。』
だってさ。お母さんさ、それでリズム狂っちゃってさ、それ以降、スランプになっちゃった。私が生まれてすぐにお父さんとも離婚していたから、収入源がなくなっちゃってさ、私もアルバイトしながら、苦労して学費を稼いでやっとここに入学したわけよ。泣ける話でしょう?」
「ところで、君の名前は?」
「ごめん言ってなかったね。芹沢あかね、っていうの。それで、続きだけどね、やっぱり人を笑わすのって、難しいね。全員に好かれるなんて無理。そう割り切ればいいのにさ、お母さん完璧主義なところがあったのよね。その子の名前を聞いて、いつか笑わせてやるんだって、一生懸命、お笑いの研究をしたの。でも疲れちゃってね。すっかりその業界からは身を引いて、今はスナックで働いている。そして、私がお母さんの研究の後を継いだの。お笑いって実は奥深いんだよね。」
僕は窓から差し込む光を見ながら彼女の話を聞いていた。宙に浮いた無数の塵が光線の中を舞っていた。話を終えた彼女の方を向くと、そこには変顔があった。
頭上から右手の中指で鼻先を押し上げ、広角を上げて、下唇を突き出し、白目をむき、顔の横に親指を立てた左手を添えていた。
僕は笑わなかった。だが、記憶を呼び戻すには十分だった。僕は言った。
「子供は正直だからね。でも、その子はきっと大人になっても変わらないと思うよ。愛想笑いさえできていないと思う。」
彼女は真顔に戻って立ち上がった。表情がなかった。
「わたし、もう行くからさ。冷蔵庫にあるケーキ全部食べちゃっていいよ。ゆっくりしてって。」
開放された僕はほっとしてソファに体を埋めた。つぎの授業まで2時間近くある。しばらくの間、くつろぐことにした。本棚を改めて観察してみると、漫画ばかりだ。漫画からアプローチをかけるのも立派な研究だ。僕はコーヒーをおかわりし、冷蔵庫にある残りのケーキを食べながら、漫画を読み続けた。
30分ほどそうしていただろうか。ドアを開ける音がした。学生と思われる男性3人、女性2人が入ってきた。
「おい、誰だおまえ。なにかってに食ってんだよ。」
「あーー。それ私の誕生日ケーキじゃない。」
とっさに僕は言い訳した。
「え?芹沢さんって人が食べていいって・・・」
「誰だよそれ。」
僕は気まずくなり、謝ってその場を立ち去った。ドアを閉めたとき、床に落ちている「才」と書かれた紙に目がとまった。僕は不本意にも笑った。
彼女の方向性は間違っていなかった。僕は手の込んだ美しいジョークが好きなのだ。彼女にもう一度会いたい、と思った。
翌日、学生係で調べたところ、この大学に芹沢あかねという名の学生は所属していないことを知った。あれから、10年近くたつが、彼女に会うことは二度となかった。