【コミカライズ】胃が弱すぎて婚約破棄された令嬢は辺境の地で溺愛される
※フィクションなので色々ご容赦いただけると……!
「エヴァンジェリン! 僕はお前との婚約を破棄する!」
その日、婚約者であるダスティン殿下(御年十六歳)は、わたくしに向かってそう叫びました。
周りの方々から一斉に向けられる視線に、わたくしは思わず胃を押さえましたわ。
「うっ……」
シク、シク――という音は、決してわたくしが泣いている音ではありません。わたくしの誰よりも繊細で、誰よりも貧弱な胃が悲鳴をあげ始めている音。
「うう……!」
「ふっ。嘆いても無駄だ。僕の決意は固い。それに僕は真実の愛を見つけてしまったからな! すがりついてきても駄目だぞ!」
ダスティン殿下が得意げに言っておられますが、問題は婚約破棄なんかじゃありません。
わたくしは痛む胃を押さえながら、あえぐように言いました。
「殿下――そんなことより、胃薬を飲んでもよろしくて……!?」
その言葉に、ダスティン殿下が声を荒げます。
「は? 胃薬? お前、何の話をしているのかわかっているのか!? 今はそれどころじゃないだろう!」
まあ、怖いですわ! そんな大きな声を出されるとまたわたくしの胃が……うっ。言ってるそばから痛みが強くなってきましたわ……。
「うっ! ううう……!」
顔面蒼白(多分)になってしゃがみ込むわたくしに、さすがのダスティン殿下も気づいたようです。これは悲しんでいるわけではないのだと。
「お、おい! 大丈夫かエヴァンジェリン! またか!? また胃痛なのか!? 誰か! エヴァンジェリンに胃薬を用意せよ!」
「お、お水もお願いいたしますわ……できれば白湯で……」
「わ、わかった。白湯だな? 誰か白湯も持ってこい!」
ちゃっかり要望は聞いてくれる辺り、殿下って意外とお優しいのよね……ってイタタ。今は呑気に考えている場合じゃなかった……! お、お薬を……!
「――エヴァンジェリン、これを」
すっと救いの手を差し出してくださったのは、殿下の従兄であり、次期公爵家当主であり、わたくしの大事な師であるオズワルドさま。
銀糸のように流れる銀髪は眩く美しく、瞳はデルフィニウムの花を思わせる紫がかった青。高貴なお顔立ちは今日も大変麗しく、笑顔は本当に眼福の極み……って語ってる場合じゃないですわ。
「オズワルドさま、いつもありがとうございます……!」
差し出されたのは、薄紙に載せられた薄茶の丸薬。
小さくてコロコロして、一見するとまるでうさぎのフ……って、淑女としてこれ以上口にするのは控えますが、ええ、まあ、見た目はそんな感じですわよね。周りで見守る方々が思いっきり顔をしかめているのも仕方ありません。
加えて、つんと鼻を刺すのは甘いような苦いような独特の匂い。これは薬草ではなく、生薬だからこそだったかしら。
見た目といい匂いといい、飲み込むのにかなり勇気がいる代物ですけれど、わたくしには効果抜群だと知っているため迷わず口に含みました。
それから差し出されたカップ――中身はちょうどいい温度の白湯でしたわ――で一気に流し込みます。
このお薬は味もかなり独特だから、一気に流し込むのがコツなんですのよね。そう、グビッと! 勢いよく! 喉に詰まらない程度に!
「……ふぅ……」
白湯が、薬とともに喉を通って心地よく胃をあたためてゆきます。まさに“五臓六腑に染み渡る”と言うやつですわね。これももちろんオズワルドさまに教わった言葉です。
わたくしがほっと一息ついていると、オズワルドさまがさらに何かを取り出しました。
「それから、これも使うといい」
そう言って渡されたのは、手のひらサイズの丸い包み。
綿のハンカチに包まれたそれは、受け取ると小ぶりな見た目とは裏腹にしっかりとした重みがあり、なおかつほかほかあたたかい。
わたくしは嬉しくなって顔を輝かせました。
「まあ、温石ですわね! ありがとうございますわ!」
軽石を火であたため、それを布にくるんだ温石は冬の必須品(と言っても今はまだ秋ですけれど)。
言いながら胃のある位置にあてると、すぐさま服の上からでもわかるあたたかさが広がる。ああ、とても気持ちいいですわ。
胃が痛い時はお薬もですけれど、胃をあたためてあげるのも地味に効くんですのよね。さすがオズワルドさま、本当に気が利くお方ですわ。もう何度こうして助けられたか……。
そこでわたくしははたと思い出しました。
「あ、ごめんあそばせ、殿下。それで……先ほどのお話はなんでしたかしら?」
まだ痛みは完全には引いていないものの、薬と温石の支援を得たわたくしは、ようやく本題に戻ることができました。
ダスティン殿下が一瞬ほっとしたような顔をして、それからあわてて怖い表情で指さしてきます。
「何度も言わせるな! 婚約破棄だ! お前のように病弱な女は我が妃にふさわしくないのだ!」
「わかりますわ、わたくしもそう思います。ですからぜひ、婚約破棄いたしましょう!」
殊勝な面持ちでうなずけば、ダスティン殿下はあっけにとられた顔をしました。
「……え?」
「いえ、実はわたくしも自分に王妃は務まらないとずっと思っていたのです。殿下には散々ご迷惑をおかけしてきましたし……」
――わたくし、エヴァンジェリン・L・ブライスの実家は侯爵家。
顔は社交界の華と呼ばれた母譲りで、自分で言うのもなんですが大層美人に生まれました。ところがそこですべての運を使い果たしてしまったようなのです。
とにかく幼い頃から病的に胃が弱く、そのせいで今まで何度ご迷惑をおかけしてきたか……。
初めてダスティン殿下とお会いした際には興奮しすぎで盛大に嘔吐してしまい(赤ちゃんの頃からよく吐く子だったようです)、社交界デビューの夜には緊張から胃痙攣(とっても痛いやつですわ……)を起こして失神。
お茶会では度々胃痛を起こし(その度に、すわ毒薬か!? と大騒ぎになりました)、ほかにも些細なことで嘔吐してダスティン殿下に吐しゃ物をお見せしたのは一度や二度ではなく……。
ああ、思い返してつらくなってきましたわ。
もちろん、原因を探るため侯爵家の力を使って何人もの医者に診てもらいましたが、
『この子はとにかく胃が弱いですね。それ以外は健康ですよ』
と言われてなすすべもなかったのですよね。
実際わたくしのお父さまも幼少の頃こんな感じだったそうなので(大変苦労したでしょうね……心中お察ししますわ)、まあ胃弱については遺伝かと諦めているんですの。
だからわたくしがダスティン殿下の婚約者として選ばれた時、それはそれは驚きました。
たしかに胃以外はまあ元気なのですけれど、王妃として公の前に立たなきゃいけないなんて……うっ、考えただけで胃が痛いですわ。
ダスティン殿下のことは決して嫌いではないですし、むしろ弟のように好ましく思っているのですが、それとこれとは別。
そんなわたくしにとって婚約破棄はまさに渡りに船。願ったりかなったりだったのです。
わたくしは嬉々としてお返事いたしました。
「そういうわけですから、婚約破棄は謹んでお受けいたします」
侯爵令嬢に相応しいお辞儀は、まるでプロポーズを受けているよう。
ですが実際は全くの逆。婚約破棄の受理です。
「あっ、ああ……うん、そうか……」
殿下が拍子抜けしたように言いました。
さて、これでわたくしも解放ですわ……と背伸びをする前に、もうひとつだけ思い出しました。
「そういえば、先ほどおっしゃっていた真実の愛というのは?」
これはもう完全なる好奇心です。ええ、好奇心。弟同然の殿下を託す相手がどんな方か、知りたいじゃないですか。
わたくしの言葉に、ダスティン殿下がハッとしました。気を取り直したように背筋を伸ばし、意気揚々と遠くに立つ女性を指さします。
「ふっ。僕の真実の愛は彼女だ! 来てくれ、マチルダ!」
ダスティン殿下が指さしたのは、見事な赤毛の女性でした。
少し勝ち気な瞳とつんと上を向いた鼻筋が美しく、そのお体は女性にしては長身ですらりとしています。
確か、エインズワース男爵家のご令嬢ですわね。
マチルダさまはダスティン殿下に呼ばれ、ずんずんこちらに向かって歩いていきます。
……ですがその顔は嬉しさでいっぱいというより、どちらかと言うと怒っているような……?
と思った矢先でした。
マチルダさまが思い切り手を振り上げて、そのままダスティン殿下の頬にめがけて振り下ろしたのは。
「あっ」
わたくしの叫びと同時に、パァン! という音がホールに響きました。
しん……と辺りが静まり返ります。
そりゃそうですわね。真実の愛と呼ばれた男爵令嬢が、よりにもよって王太子であるダスティン殿下の頬を思いっきりひっぱたいたんですもの。
殿下もびっくりすしぎて声も出ないみたいです。ほっぺに見事な紅葉が咲いてらっしゃいますわ。秋ですわね……なんて思ったら怒られるかしら。
「マ、マチルダ、なぜ……?」
弱々しくもらしたのはダスティン殿下です。お声が泣きそうになっていらっしゃるわ。
一方のマチルダさまは烈火の如く怒り始めました。
「なぜ、じゃないですよ! 私何度もお断りいたしましたよね!? 王妃になる気はないですし、エヴァンジェリンさまを蹴落とすなんて絶対にごめんだと!」
「そ、それは、照れ隠し……」
「照れ隠しのわけあるわけないでしょうがこのスットコドッコイ王子が!」
まあ。すっとこどっこいなんて単語、本当に使っているのは初めてお聞きしましたわ。
言葉全体の歯切れも良くて、なんと愉快なお方なのでしょう。本当は不敬だと突っ込むべきなのかもしれませんが、ダスティン殿下が怒ってないなら気にしないことにします。
なんて感心していたら、マチルダさまはダスティン殿下を放置して、わたくしの元にやってきました。それから騎士が膝をつくように、わたくしの前にひざまずいたのです。
「ああ、エヴァンジェリンさまにはなんとお詫びしていいのか……! 信じてください、私は本当に、こんなスットコドッコイと結婚する気などないのです」
本日二回目のスットコドッコイをいただきましたわ。
わたくしはどう返事したらいいのかわからなくて、頬に手を当てました。
実際の所……ダスティン殿下がこの方を選ぶことに、わたくしは何の異存もないのです。
だってわたくしは王妃になりたくありませんし、そもそもこの女性――マチルダ・S・エインズワース男爵令嬢は、とてもいい方なんですのよ。
清く正しく美しく。
そんな言葉を体現しているようなマチルダさまは、はきはきとした物言いと媚びない態度のせいで一部の方には嫌われているようですが、わたくしはいつか仲良くなれたらとずっと思っていましたの。
それに、前に一度ダスティン殿下を諫めているのを目撃して、とても感動したことがありますわ。どうも年が五つも離れているせいか、わたくしはいつも殿下を甘やかしてしまいますから……。
だからわたくしよりもダスティン殿下と年が近く、その上健康そのもののマチルダさまは殿下の妻にぴったりだと思ったのですけれど……。
「まあ……ということはダスティン殿下の片思いだったんですのね?」
「はい! 私は王妃の座に座ろうなど、そんなおこがましいことはまったく! 微塵も! 毛ほども思っておりません!」
マチルダさまが断言するたびに、隣ではダスティン殿下が死にそうな顔をしています。ちょっとかわいそう。こんな公衆の面前で振られるなんて。でも仕方ありませんわね、恋は戦争ですもの。
「マチルダさまのお気持ちはわかりましたわ。でも、わたくしのことを気にする必要はありません。実はわたくし、王妃にはどう考えても向いておりませんから、婚約破棄はとってもうれしく――じゃなかった。妥当なことだと思っていますの」
にっこり微笑んで、マチルダさまのお手をとる。
「ですから、どうぞマチルダさまはダスティン殿下と一度向き合ってみてくださらない? ちょっとお馬鹿――じゃなかった、暴走しがちなところはありますが、根はいい子なんですのよ」
哀れな殿下のために、ここは元婚約者としてお相手の背中を押して差し上げなければ。……いえ決して自分が逃げ切りたいからとかではありませんわよ? 本当でしてよ?
「えっ……!?」
マチルダさまは明らかに困惑なさっています。
「まあ無理もありませんわよね。突然王妃にだなんて、プレッシャーで胃が痛くなってしまいますもの。……イタタ、そう言っているうちにまた胃が」
「大丈夫ですか、エヴァンジェリンさま!?」
マチルダさまの勢いに呑まれて一時的に痛みを忘れていましたけれど、残念ながらわたくしのしつこい痛みはそう簡単には逃してくれません。……ただ、逃げ出すためにちょっぴり過剰演出したのはこの際黙っておきましょう。
「もっとお話ししたいけれど、わたくしは一度退散させていただきますわね……あ、婚約は滞りなく解消してくださいまし」
にっこりと微笑むと、わたくしはその場を後にしました。最後は少しわざとらしくなってしまいましたが、こうしてわたくしは無事、王妃という重責から逃げることに成功したのです。
◇
「……ふぅ」
足早に乗り込んだ馬車の中。温石を抱えたままため息をつくと、隣に座っているオズワルドさまがくすりと笑いました。
……うん? 隣?
「あ、あの、オズワルドさま……? なぜ馬車の中に……? ダスティン殿下についておられなくて平気ですの?」
「先ほど言っただろう? 『家まで送るよ』と」
「そ、そうでしたかしら……わたくし、聞き逃していたんですのね……」
そんな爽やかな笑顔で言われたら、もう何も言えませんわ……ただでさえわたくしはオズワルドさまの笑顔に弱いのに!
「それより、君は大丈夫なのか。胃もそうだが、心が傷ついているのでは」
そう言って心配そうにのぞき込んでくるオズワルドさまも素敵……って見とれている場合じゃありません! ぐっとこらえて、わたくしは淑女らしく笑みを浮かべました。
「大丈夫ですわ。むしろ、婚約破棄されてほっとしておりますのよ。王妃の座はどう考えてもわたくしには重すぎますから……」
「……それなら君は今後、どうするつもりなんだ?」
「そうですわね……」
聞かれて、わたくしは考え込みました。
嬉々として返事をしてしまったけれど、残念ながら今後のことは何も考えていなかったんですのよね。
「とりあえず家に帰って……しばらく養生しようかと思っておりますわ。社交界の逃れられないさだめとは言え、ここの所お茶会続きでわたくしの胃はずっとへとへとですもの」
色とりどりのスウィーツに、たくさんのご令嬢がいらっしゃるお茶会。それはとても楽しいのですが、わたくしの貧弱な胃にはかなり負担になっていたのですよね。
この際だから、婚約破棄されて傷心であることを理由にしばらくお休みしてしまおうかしら? 皆さまに会えないのが残念だけれど、背に腹は代えられませんわ。
「それがいい。ずっと思っていたんだが、食べるものを制限すれば君の胃はもっとよくなると思うんだ」
「まあ、そんなことまで考えていてくださったんですの? オズワルドさまにはお薬といい勉強といい、お世話になりっぱなしですわ。本当になんてお礼を言ったらいいのか」
「お礼なんていらないよ。私こそ感謝し足りないくらいなんだ。君のおかげでおもしろいものにたくさん出会えたのだから」
そう言って微笑むオズワルドさまは、銀の髪がきらきらと輝いて本当に気高い天使さまのようです。
――オズワルド・N・ランドン公爵令息。それがオズワルドさまの正式なお名前。
彼はダスティン殿下の従兄であるため、幼い頃から殿下のお守り役と言いますか、お目付け役といいますか、とにかくダスティン殿下のおそばにいることが多かったお方です。
わたくしは殿下の婚約者だったため、当然わたくしともよくお会いする機会があり、そうしているうちにオズワルドさまともお話しするようになりました。
とくに、知っての通りわたくしは昔から胃弱。
色々試したのですが残念ながらどのお薬も治療法も効かず……それを知ったオズワルドさまが、はるか東の島国に伝わる“漢方”と呼ばれるお薬をわざわざ仕入れてきてくださったのです。
おまけに、一年間あちらの国に留学して学ぶ本格っぷり。そもそも一年で語学どころか薬のことまで覚えるなんて、オズワルドさまは一体どれだけ優秀なのかしら……。
そんな彼が仕入れてきてくれたお薬は、見た目も匂いも味もとても強烈。その代わり今まで飲んだお薬の中で一番の効果を発揮しました。恐らく、わたくしの体に合っていたのでしょうね。
それからです。わたくしがオズワルドさまを師と呼んで漢方のことを教えていただくようになったのは。
わたくしより五つ年上のオズワルドさまは、殿下に帝王学を教えながら同時にわたくしに漢方を教えていたのです。なんて多才なのでしょう。
あっ、イタタ……! 思い出しているうちにまたもや痛みがぶりかえしてきました。ぎゅっと温石を抱えると、それに気付いたオズワルドさまがすぐさま声をかけてきます。
「座っているのもつらいだろう。無理せず横になりなさい。私の膝を枕にするといい」
「えっ! そ、そんなわけにはいきませんわ。反対側で横になればいいんですもの」
言いながらわたくしはごくりと彼の太ももを見ました。オズワルドさまに膝枕してもらうだなんて、そんな! 動揺するわたくしをよそに、彼はいたずらっぽく微笑みます。
「男の硬い太ももで申し訳ないが、枕があった方が楽だろう。……大丈夫、これは二人の秘密にすればいい」
人差し指を口にあてて、しぃと言うオズワルドさまの、なんて魅惑的なこと……! 気付いたらわたくしは、しっかり彼の太ももを枕にしておりました。
ごめんなさい、お父さまお母さま。恨むならわたくしの虚弱な胃を恨んでください。……それに、秘密にすればばれませんわよね?
「いい子だ。そのまま家に着くまでひと眠りするといい」
オズワルドさまの低く甘い声と、優しく髪を撫でられる心地よさといったら。気づけばわたくしは、すやすやと夢の世界へと旅立っていたのです。
◇
「……ジェリン、エヴァンジェリン、家に着いたよ」
やがて聞こえてきたオズワルドさまの声に、わたくしははっとして飛び起きました。
あわてて口元を拭いましたが、幸いにしてよだれは垂れていなかったようです。あ、あぶないところでしたわ……! 寝顔をさらしたうえよだれまで見られたら、もうお嫁にいけなくなるところでした。
そんなわたくしを見て、またオズワルドさまがくすりと笑います。
「少しは痛みも収まったかな?」
「あ、あら……そういえば」
言われてみれば、さきほどまでの痛みはすっかり消えていました。きっとお薬が効いたんですのね。
「さ、エヴァンジェリン。手を」
先に馬車から降りたオズワルドさまが手を差し出します。わたくしはその手をとり、馬車から出ようとして……オズワルドさまにじっと見つめられていることに気づきました。
「オズワルドさま?」
「……エヴァンジェリン、君に聞きたいのだが」
そこでオズワルドさまは一度言葉を切りました。それからすぅっと息を吸って言います。
「――私の妻になる気はないか?」
「えっ!?」
驚きすぎて、つい大きな声が出てしまいました。
「お、オズワルドさま! 急に何をおっしゃるのです!」
これはわたくしをからかっているのでしょうか? それとも婚約を解消されたわたくしに同情しているのでしょうか? お優しいオズワルドさまなら、ありえますわ……!
わたくしが動揺していると、オズワルドさまがどこか悪いお顔をして言いました。
「冗談ではないよ。私はずっとこの機会を待っていたんだ。ダスティン坊やが、君を手放してくれるのを」
えっ? 待っていたってどういうことなんですの? ついていけなくて目を白黒させるわたくしの手を、オズワルドさまがゆっくり引き寄せます。
「驚かせてしまってすまないね。……胃は大丈夫かい?」
「は、はい、なんとか……!」
胃は大丈夫ですが今度は心臓がばくばくしすぎて困っていますわ!
そんなわたくしに、オズワルドさまは続けます。
「エヴァンジェリン、私は本気だよ。私の妻になってくれないか?」
「だだだだ、駄目ですわ!」
オズワルドさまの美声に身を震わせながらも、わたくしはきっぱり答えました。
正直、気持ちだけで言うならすっごく嬉しいですわ。オズワルドさまほど素敵な殿方は他におりませんし、何より……オズワルドさまは長年密かに憧れていた方だったからです。
けれど、憧れと結婚は別。そもそもダスティン殿下に婚約を解消されたのも、わたくしの胃が弱かったからこそ。
次期公爵家当主であるオズワルドさまの妻は当然、公爵夫人。王太子妃ほどではないものの、やっぱり責任が重すぎます。
こんなに貧弱な妻では、彼に迷惑をかける未来しか見えません。いえ、今も十分かけているのですけれども……。
「……わたくしに公爵夫人が務まるとは思えません。わたくしなどを娶ったら、きっとオズワルドさまが笑われてしまいますわ……。それに、ダスティン殿下とオズワルドさまの仲がこじれてしまわないかも心配です」
正直な気持ちを伝えると、オズワルドさまは静かにうなずきました。
「なるほど。つまり、君自身は私との結婚が嫌なわけじゃないんだね?」
あ、ええ、まあ、そこはオズワルドさまの言う通りではあるんですけれど……なんて思っていたら、彼が言いました。
「なら、返事はしばらく保留にしてくれないか。……その間に、私が障害を片付けよう」
にっこり微笑んでおられますけれど、障害って言葉がやたら不穏なのは気のせい……ですわよね?
「それより、エヴァンジェリン」
まるで何事もなかったかのように、オズワルドさまは話題を変えました。
「しばらく養生する気なら、私の別荘に来ないか?」
「オズワルドさまの……別荘?」
わたくしは首をかしげました。
オズワルドさまは公爵家のご嫡男であるため、彼個人の別荘を持っていてもおかしくはありませんが、なぜ急に?
そんなわたくしの疑問に答えるように、オズワルドさまは言いました。
「実は、漢方好きが高じて専用の部屋を作ってしまってね。そこにはさまざまな生薬を取り寄せたんだ。君がいつも飲んでる桂皮や延胡索はもちろん、葛根や鬱金もある。もちろん皆、薬になる前の姿だ」
「まあ! 実物が!?」
またもや声を上げてしまいました。
だって、わたくしがいつも見るのは既に丸薬になった姿だけ。ケイヒはクスノキ科ニッケイの樹皮だというのは教えてもらいましたが、実物は一度たりとも見たことがないのです。興奮せずにはいられませんわ!
「それに、生薬専用の畑も作っているんだ。桔梗や菊などを自分たちで育てられれば、わざわざ仕入れる必要がなくなるからね」
「まあまあ! 生薬専用の畑まで!? なんて素敵な……!」
行きたい! 今すぐオズワルドさまの畑に行きたいですわ! でも、先ほどわたくしは求婚されたばかり。この誘いにうなずいたら、そちらにもうなずいたことになるのでは……!?
わたくしがそう考えているのを、オズワルドさまも気づいたのでしょう。にっこりと微笑みながら続けられました。
「もちろん、一人でとは言わないよ。君の妹も連れてくるといい。これは家同士の交流だ。アンジェラは喜んで来ると言っていたし、君の父も了承してくれた」
「まあ、妹と父が?」
アンジェラは今年十歳になる、歳の離れたわたくしの妹です。名前の通り天使のように愛らしく、目に入れても痛くないほどかわいい子なんですの。
「別荘の辺りは空気が綺麗な田舎だが、少し行けば観光に適した街もある。君もアンジェラも、退屈しないと思うよ」
「まあ……それなら……」
オズワルドさまの言う通り、妹が一緒でお父さまも了承しているのなら、それは家同士の交流に値しますわよね? ううん、知らないけどそういうことにしておきましょう。
「それに、材料だけじゃなくて道具もそろっているから、君も実際に薬を作ってみてはどうかな?」
「行きますわ!」
とどめの一言に、気付けばわたくしは一もなく二もなくうなずいていました。漢方薬作りができるなんて、そんな魅力的な提案をお断りできるわけがありません。
ああ、今日はことごとくオズワルドさまの提案に負け続きです。
でも、後悔は全くしていません。だって漢方の原料に触れられるんですもの。こんな心ときめくことが、オズワルドさまのお顔を眺めること以外にあったなんて!
そのあと、わたくしはわくわくしながら、彼の馬車を見送りました。それからふと気づいたのです。
……あら? そういえば、オズワルドさまはいつのまにアンジェラやお父さまに別荘のお話をしたのでしょう?
首をかしげながらも、わたくしは深く気にせず家に入りました。だって、楽しみの方がはるかに大きかったんですもの!
◇
一週間後。わたくしは言葉通り、妹のアンジェラと一緒にオズワルドさまの別荘にやってきていました。
別荘と言っても大層豪華なお屋敷なのですが、わたくしは内装には一切構わず、とあるものを一心に見つめていました。
「まあ! これがケイヒ! これがエンゴサク! これがわたくしの胃に!」
目の前には木の板にしか見えない茶色の物体と、見た目はただの土くれのような茶色い茎。どちらもわたくしがお世話になっている胃薬の材料です。
「そりゃこれだけ茶色いのなら、お薬も茶色になりますわよね」
なんて妙なところで感心しているわたくしを見て、オズワルドさまが笑いました。
「楽しんでいるみたいでよかった。生薬はまだまだたくさんある。時間をかけてゆっくりと見て回るといい」
「ありがとうございますわ。……ってあら、アンジェラは?」
さきほどまでいたわたくしの可愛い天使の姿が見当たりません。きょろきょろしていると、オズワルドさまが外を指さしました。
「アンジェラなら執事たちと周辺探索に行ったよ」
「まあ、いつの間に」
別荘に到着するなりまっすぐこの部屋に来たわたくしが言うのもなんですけれど、アンジェラもなんて行動が早いんでしょう。姉妹で似てしまいましたわね。
「護衛も何人かつけてあるから、心配しなくていい。今日は思う存分、この部屋を見るといいよ」
オズワルドさまの言葉に、わたくしは再びうっとりと部屋を見渡しました。広々とした部屋の中に並ぶ、大きなガラス瓶たち。
中には黄色やら黄土色やら茶色やら黒色やらの、大地の恵みを感じさせるさまざまな生薬!
息を吸い込めば、苦いような甘いような、土っぽい独特の匂いが鼻をくすぐります。
苦手な人も多いようだけれど(ダスティン殿下は嫌っていましたわ)、わたくしはこの匂い、大好きですの。
一つ一つ取り出して手でじっくり検分する。
ああ、こうしているだけでなんて心満たされるのでしょう……! 漢方、最高!
こうして、わたくしの幸せ漢方生活は幕を開けたのです。
◇
「ねえアンジェラ、今日こそわたくしと一緒に漢方のお勉強をしない?」
「やだ。アンジェラは今日みんなとピクニックに行くの! あ、お姉さまはついてこないでね! それからオズワルドさまもだめ!」
なんて言いながら、わたくしの可愛い天使はデレデレ顔の執事やら使用人方やらを大量に引き連れてピクニックに行ってしまいました。
「悲しいわ……。なぜかこっちに来てからアンジェラが遊んでくれないのです……」
「そういうお年頃なのだろう。それよりエヴァンジェリン、今日も漢方の勉強をするかい?」
オズワルドさまに尋ねられて、わたくしは喜んで答えました。
「もちろんですわ!」
アンジェラに冷たくあしらわれていること以外は、毎日信じられないぐらい幸せでした。
社交界から離れたゆったりとした空気の中、朝起きたらまず一杯の白湯をゆっくり飲むんです。
それから普段リゾットに使うお米を、たっぷりの水でくたくたに煮た“おかゆ”というものをいただくんですわ。調味料を何も使わないのですが、しみ出したお米の優しい甘みが、それだけで極上の調味料になるんですの。
この“おかゆ”というのは体をあたためてくれる上に、消化もよくて胃に優しい、まさにわたくしにぴったりの料理。もちろん、卵を足して優しい味わいのたまごがゆにしたり、トマトやささみ、チーズを足してコクのあるリゾット風にアレンジするのもよいですわ。
他にも、くたくたに煮たキャベツたっぷりのポトフや、甘酸っぱい酸味が食欲をそそるラディッシュのマリネ風。ジャガイモとリンゴと生薬で作った漢方風ジャムにリコリスとタンポポの薬膳茶。
どれもこれもおいしい上に胃腸にまで優しいと聞いて、わたくし思わず料理人の方に拍手してしまいましたわ。
その上もう妃教育を学ぶ必要もなく、オズワルドさまがみっちりと漢方を教えてくれる毎日。
これを幸せと言わずして、なんと言うの!
――そんな調子で辺境の田舎生活を満喫していたら、ある日突然別荘にお友達の令嬢がやってきたんです。
「エヴァンジェリンさま! お会いしたかったわ! エヴァンジェリンさまがいないお茶会はつまらなくて……お元気にしてました?」
応接間で、茶目っ気たっぷりに微笑んでいるのはライラ伯爵令嬢さま。
太陽のようにとても快活な方で、彼女がいるといつも笑いが絶えないのです。
「お会いできてうれしいですわ、ライラさま。わたくしは見ての通り絶好調よ。あなたや他の皆さまはお元気でして?」
……ところでなんでわたくしがここにいるの、バレたのかしら? 家族以外には話していないはずなのだけれど……。
そんなことを考えていると、ライラさまが続けました。
「ええ、もちろん元気よ! ……って言いたいところなんだけどね……」
言いながら、ライラさまが少し目を細めます。それからくつくつと、悪い顔で笑い始めました。
「王都は今も大騒ぎよ。ダスティン殿下が許可なく勝手に婚約破棄してしまったものだから、陛下はカンカン。殿下本人はマチルダさまに振られたショックで部屋にこもって出てこないし、これからどうなっちゃうの? って感じよ」
「まあ……もう半月経ちますのに?」
婚約破棄の件は、お父さまが「わかった、エヴァの好きにしなさい」と言ってくれたからあっさり終わったものかと思っていたのに、まだ騒動が収まっていなかったのね。
考えていると、ライラさまがケロッとした顔で言います。
「ま、どう考えてもダスティン殿下が悪いから、しょうがないわ。……それより、エヴァンジェリンさまにお願いがあるの」
「お願い? 何です?」
「実は……エヴァンジェリンさま、珍しいお薬を飲んでいるんでしょう? ええと確か……」
「漢方のことですか?」
「そう! カンポウ!」
手を打ったライラさまが、キラリと瞳を輝かせながら続けます。
「前にもお話したけれど……私、相変わらず肌荒れがひどいんです!」
言いながら、彼女は自分の顎を指さしました。そこにはぷっくりとふくれあがった、赤いにきび。
もう二十一になる私と違って、ライラさまはまだ十七歳。輝くような若さが眩しい反面、お肌には思春期の証がところどころ鎮座していらっしゃいますわ。
「色んなお薬を、飲んでみたり塗ってみたり貼ってみたりしたんですけど全然ダメで……」
はぁ、と大きなため息をつきながらライラさまはドスンッと腰を下ろしました。
「こんなお肌じゃ、恥ずかしくて殿方の前には出られません。化粧でもごまかせないんだもの」
十七歳と言えば日々夜会に出かけ、恋の花を咲かせるお年頃。そんな乙女にとって、確かににきびはにっくき敵です。
ライラさまが拳を握りしめて、また身を乗り出しました。
「だから、お願いエヴァンジェリンさま! 私にも、肌荒れが治るお薬をもらえないかしら!?」
「うーん……」
わたくしは考え込みました。
「確かに、肌荒れを直すお薬もありますわ……。でもライラさま、それは“お薬”なんですのよ。お薬である以上副作用もありますし、そもそもわたくしに処方する知識も資格もないんですの」
「そこをなんとかお願いしますわ! エヴァンジェリンさまが最後の頼みなんです。いろんなものを試しても効き目がなくて、このままだともう“魔法の薬”に頼るしか……!」
……あら? なにやら突然あやしい単語が出てきましたわね?
「魔法の薬? 何ですのそれは?」
わたくしが眉をひそめると、ライラさまがひそひそとささやいてきます。
「最近令嬢たちの間でちょっと噂になっているんです。何でも、飲むだけで痩せる上に肌も綺麗になって、おまけに頭もよくなって、さらに睡眠いらずで何時間でも活動できるっていう――」
「待って待って待って? それどう聞いてもいけないものじゃなくって?」
わたくしは慌ててライラさまの腕を掴みました。
「まさかライラさま、もう手を出してしまったとか……!?」
「いえ、さすがにまだ。……でもエヴァンジェリンさまが助けてくれないなら……」
なんて言いながら子うさぎのようにチラッとわたくしを見つめてきます。……これは哀れみを誘っているようで、ちゃっかり脅してきていますわね。ライラさま、いい根性をしています。
わたくしはため息をつきました。
「はぁ……仕方ありませんね。ライラさまには負けましたわ。とりあえず、オズワルドさまに聞いてみましょう」
ついでに、その“魔法の薬”とやらもオズワルドさまにチクって……じゃなくて、報告しなきゃ。そんなことを考えながら、わたくしはオズワルドさまの書斎に行きました。
話を聞いたオズワルドさまがにっこりと微笑みます。
「なら、エヴァンジェリン。君がライラ嬢にどの薬がいいか決めてあげるといい」
「わたくしがですか!? 無理ですわ、全然知識が足りませんもの!」
わたくしはあわてて拒否しました。
けれどオズワルドさまはゆったりと構えたまま動じません。
「今の君なら、ライラ嬢に必要な薬がわかるはずだよ。私も隣で見ているから、まずは思うようにやってみるといい」
オズワルドさまの言葉に、うず、と抑えていた好奇心が騒ぎ出します。
勉強の成果を実際に活用できるのって、考えただけでときめくことなんですのよね……。おまけにオズワルドさまもついていてくれるから、間違えても訂正してくれるはず……。
「ね、エヴァンジェリンさまお願い! もう本当に手立てがないの!」
そう懇願されて、わたくしはついにうなずいてしまいました。
「わかりましたわ。わたくしがライラさまのお薬を見立てます」
――決意したわたくしは、すぐにライラさまを座らせるとじっくり観察します。
ライラさま、十七歳。体型は中肉中背で背筋はまっすぐ。目はきらきらと輝き、若木のような健やかさを放っています。
それから口の中を診たり、お腹を触ったり。あとは普段の生活などについてもお聞きします。舌は綺麗なピンク色で、お腹も……うん、硬いですわね。
「ライラさま。もしかして汗をかきやすかったり、のぼせやすかったりはしませんか?」
「えっ、よくわかりましたわね。そうなんです、すぐ顔が赤くなってしまうんです」
それを聞いて、わたしくしはにっこり微笑みました。
――これで材料は大体そろいました。
ライラさまのお悩みはにきび。そしてライラさまの体質は“実証”ですわ。
そんな彼女にお薬を出すとしたら、これが一番だと思います。
「でしたら、ライラさまには清上防風湯がぴったりだと思いますわ」
「セイジョ……封筒?」
ライラさまが不思議そうな顔で聞き返します。わたくしはうなずきました。
「はい。簡単に言うと、コガネバナの根っこを主にしたお薬ですわ。体内の熱を逃がして、炎症を抑える。ライラさまにぴったりのお薬だと思います」
漢方の大きな特徴の一つに、“症状だけではなくその人の体質に合わせて決める”というものがあります。
例えばライラさまのように、活気に満ち溢れて体力がある方のことを“実証”と分類して、“実証”の方に相応しいお薬を処方するんです。……まあ正確には陰陽やら五行やらいろいろあるんですけど、ややこしいので今回は簡略化していきますわ。
逆に、見るからになよやかで線の細い方は“虚証”と呼ばれ、同じにきびでも胃腸の弱さを考慮したお薬が選ばれるんです。
……そうですわよね!? オズワルドさま?
わたくしが心配そうに彼の方を見ると、オズワルドさまはにっこりと微笑んだまま、包みを差し出しました。そこには“清上防風湯”と書いてあります。
どうやら、わたくしが見立てた薬は合っていたようです!
「エヴァンジェリンさま、ありがとうございます! お薬はなんかうさぎのフ……じゃなくて、独特の見た目ですけど、頑張って飲みますわね!」
でかけた言葉を、ライラさまは慌てて呑み込みました。
うん、まあそう見えますわよね。気持ちは痛い程わかりますわ。
「二週間くらいで効果が出てくるはずですが、一ヶ月経ってもだめな時はまた相談しましょうね」
「はい!」
薬の包みを抱え、目を輝かせてライラさまは意気揚々と引き上げていきました。
その馬車を見送りながら、わたくしはオズワルドさまに話しかけます。
「お薬、ちゃんと効いてくれるといいのですが……。オズワルドさまもありがとうございますわ。今度、お礼をさせてくださいませ」
実はわたくしのお薬もなのですけれど、オズワルドさまには一切お金を払っていないのです。
というのも、金銭が絡むと法律やら薬師組合やら、色々筋を通さないといけない部分が多いんですのよ。
だからわたくしたちが薬をやり取りするときもあくまで趣味として、嗜んでいる程度に抑えなければいけないのです。
お礼ももちろん、お金以外のお品をお渡ししてきました。贈り物の範疇、ってことですわね。
今回の贈り物は何がよいかしら? ボタンやピンなど、殿方が身に着けるものはひととおりあげてしまったし……。
なんて悩んでいると、オズワルドさまがスッ……と一歩近づいてきました。それからわたくしの髪をさらりとすくいとったのです。
「それなら、君の髪に口づける権利をもらいたいな」
言って、返事も待たずにオズワルドさまがわたくしの髪に口づけました。
亜麻色の髪にゆっくりと落とされる、オズワルドさまの唇。
その横顔は繊細で美しく、伏せられたまつげから覗く瞳は紫水晶のよう。
ちゅ、と聞こえる濡れた音に、わたくしの顔が一瞬で赤く染まりました。
「な、なな、なっ……!」
威力が反則ですわ!!! 刺激が強すぎて法に引っかかりますわ!!!
髪に口づけされただけなのに、まるで自分が愛撫されているのを見ている気分になってしまいましたわ!?
美形の威力、恐ろしい……!
動揺するわたくしを見て、オズワルドさまが手で口を押さえて笑っています。
たまにこういう茶目っ気を発揮されるのは知っていましたが、今のは大変心臓に悪いですわ……! すぐにでも動悸を鎮める漢方を飲まないと。えーとえーと、何だったかしら!?
「ふふ、からかって悪かったね。君があまりに可愛いものだから、つい気持ちを抑えられなかった」
「かか、可愛い……!? お、オズワルドさま、こんな方でしたっけ……!?」
次々と飛び出す甘い台詞に、わたくしが酔ってしまいそうです。必死に手でぱたぱたと風を送っていると、オズワルドさまが「そういえば」と口を開きました。
「ライラ嬢には何も口止めをしなかったけれど、大丈夫なのかな?」
「え? 大丈夫とは?」
「いや……ライラ嬢が君に漢方をもらったと社交界で言いふらしたら、もしかしたらお客さんが殺到しないかなと思って」
「えっ」
――そしてその言葉は、すぐさま的中することとなったのです。
◇
「エヴァンジェリンさま! わたしにも美肌のお薬をわけてください!」
「わたくしには痩せ薬をお願いいたしますっ!」
「私にはその両方をくださいませ!!!」
ライラさまにお薬を上げた一週間とちょっとあと。
突如わたくしが滞在するオズワルドさまの別邸に、馴染みの令嬢たちが押しかけてきました。
どうやらオズワルドさまの読み通り、ライラ嬢は社交界で盛大にわたくしのことを話してしまったようなのです。
彼女のにきびが治った証でもあるのでそれは喜ばしいのですが、実際問題そう簡単には行きません。わたくしは謝りました。
「皆さま、本当にごめんなさい。お薬をお分けしたいのは山々なのですが、これ以上大々的になると、薬師組合の方々に目をつけられてしまいますの。期待に応えられなくて本当に申し訳ないですわ……」
よよよと泣きながら“薬師組合”を強調すれば、令嬢たちはがっかりしながらも皆大人しく引き下がってくれました。
そりゃあそうですわね、そういう方々に目をつけられたら怖いのは、皆百も承知ですもの。
……でもその中で一人だけ、最後まで残った令嬢がいました。
「ディアナさまは、どうなさいましたの? と言いますか、珍しいですわね。ディアナさまはこういう流行ごとに乗るタイプではありませんのに」
そこに佇んでいたのは、ディアナ子爵令嬢――いえ、今はディアナ侯爵夫人ですわね。半年前に侯爵家に嫁いだばかりの、新婚ほやほやさんなのです。
普段から奥ゆかしく静かな方ではいらっしゃるのですが、今は静かというより身を震わせて泣きださんばかり。
「……ごめんなさい。ご迷惑だとはわかっていたのですが、他に相談できる方がいなくって……」
「気にしないでくださいませ、お友達ですもの。喜んで相談に乗りますわ。さ、このお茶をどうぞ。気持ちが落ち着くジャスミンと蓮の実のお茶ですわ」
ディアナさまをソファに座らせると、わたくしはお茶を差し出しました。
一口お茶を飲んだディアナさまがほっ……と吐息をもらします。それから、静かに口を開きました。
「……私が侯爵家に嫁いで、半年になります」
「よく覚えておりますわ。ディアナさまの花嫁姿、とってもお綺麗でしたもの。……もしかして、婚家で何かあったんですの?」
尋ねると、途端にディアナさまの顔がくしゃりと歪みました。
「……家の皆さまはとても優しいんです。旦那さまもお優しくて……」
「まぁ、とても喜ばしいことですわ。新婚生活は順調ですのね?」
「はい……。でも」
ディアナさまはそこで一度言葉を切り、それから蚊の鳴くような声で言いました。
「……子が、できないんです」
それきり、ディアナさまは黙ってしまわれました。
「まぁ……お子が……。それでずっと悩まれていたのですね」
――嫁いだ貴族女性、とくに上位貴族にとって、世継ぎの誕生は死活問題です。
かく言うわたくしも、王妃になって王太子を生むことを考えただけで胃が痛くなっていたくらいですもの。
わたくしはそっとディアナさまの手に自分の手を載せました。
「でも……ディアナさまはまだ嫁いで半年でしょう? そんなに焦る必要はないのではなくて?」
「いいえ、エヴァンジェリンさま。まだ半年じゃないのです、もう半年なのです」
そう言って首を振るディアナさまの顔は切羽詰まっておられます。
「今はまだ半年と言っていられますが、一年経っても駄目だったら? 二年経っても駄目だったら? ……その時のことを考えると、とても不安なんです」
「まあ……。ディアナさまは慎み深く慎重な方ですが、それはいささか心配しすぎだという気がしますわ。何か、不安になるような心当たりがありますの?」
わたくしが尋ねると、ディアナさまはぎくりとした顔をしました。それから観念したように息を吐きだします。
「……実は、昔から月のものが不順なんです。来たと思ってもすぐ終わったり、かと思ったら二月も三月も来なかったり……。だから子ができない原因があるとすれば、きっと私ですわ……!」
そう言って、ディアナさまはわっと泣き出してしまいました。ずいぶんと思い詰めていたようです。
わたくしは慌てて彼女の隣に移動すると、華奢な肩を抱き寄せました。
「それはおつらかったでしょうね。でも、あなたに原因があると決まったわけではありませんわ。それに、不順でも子を授かった方はたくさんいますのよ」
そう言っても、ディアナさまは「でも」を繰り返すばかり。
しょうがないですわね。見たところディアナさまは著しく自信を喪失していらっしゃいますもの。そういう時、他の方がどんなに慰めても、言葉が届かないことは多々あります。
わたくしは泣くディアナさまをじっと観察しました。
ディアナさま、十八歳。身長はやや高めですが、とにかく細身で華奢な方です。普段からお声も小さく、風が吹けば飛んでいきそうな儚さを持っていらっしゃる方ですわ。
本当はお口の中なども拝見しなければいけないのですが、この方の場合は明らかに虚弱……じゃなかった、“虚証”にあたりますわね。
女性特有の悩みに加え、精神も衰弱していらっしゃるとくると……ここはやはりあれかしら。
「……わかりましたわ。わたくしのお薬を少しお分けしましょう。……ただし、他の方には内緒ですわよ? また押しかけられたら今度こそ組合に怒られちゃいますから」
それからわたくしは応接間を出て、オズワルドさまの元に向かいました。
書斎でお仕事をしていた彼はわたくしを見ると、まるで待っていたかのように微笑みます。
「それで、ディアナ嬢には何の薬がふさわしいと思ったんだい?」
「まあ、なぜそのことを?」
「彼女だけまとっている空気が重かったからね。君が放っておけるはずないだろうなと思っていたんだ」
やっぱりすべてお見通しでしたわね。
わたくしはディアナさまに申し訳なく思いながらも、意見を聞くためオズワルドさまにすべてお話ししました。
「それで、君はどう思う? ディアナ嬢に相応しい薬は?」
「わたくしは……当帰芍薬散だと思うんです」
当帰芍薬散は、女性のお悩みに寄り添うのにぴったりなお薬です。血の流れをよくし、さらにイライラや不安を和らげる効果も持つんです。
ライラさまのようにしっかりした体型の方でしたら同じ悩みでも桂枝茯苓丸を出すのですが、ディアナさまのようにほっそりした方にはちょっと刺激が強いんですのよね……。
「うん。さすがエヴァンジェリンだね。私もそれが適切だと思う」
褒めてもらって嬉しくなりながら、わたくしはすぐさま差し出された包みをディアナさまに持っていきました。
薬を見て、ディアナさまが涙ぐみます。
「ありがとうございますわ、エヴァンジェリンさま……! 本当に、なんて感謝したらいいのか」
「いいんですのよ。わたくしはお薬を用意しただけ。もししばらく飲んでも効果が実感できなかったり調子が悪いようなら、またいらしてくださいね。それから、これも持って行ってください」
そう言って握らせたのは、食材とレシピのメモです。
ディアナさまの場合、小豆やナツメ、レーズンにピーナッツなどをおかゆに入れて食すのもいいし、プルーンやドライフルーツをワインに漬け込んで食べるのも滋養強壮効果が見込めるんですの。
「ディアナさま、帰りの馬車でも涙ぐんでいらっしゃったわ。お薬、助けになれるといいのですけれど……」
馬車を見送りながら、わたくしは呟きました。
ディアナさまも侯爵夫人ですから、きっとわたくしの所に来る前に相談した医師も多いはず。けれど、わたくし同様いい手立てが見つからなかったのでしょうね……。
わたくしは漢方を飲み始め、ここで養生生活を送るようになってから驚くほど胃痛は減っていました。この国の医学を否定する気は全くありませんが、同じような人たちに、手段の一つとして漢方を堂々と提示できたら……。
ついそんなことを考えてしまい、ため息をついてしまいます。
それから、オズワルドさまの書斎に向かいました。
「あの、今回もありがとうございましたわ。……そ、その、お礼を、しなければと思っているのですが……」
いつも通り、平静に。
そう思って口を開いたのに、声が上ずってしまいましたわ。
だって前回同じことを言った際には、その、髪にキス、されてしまったんですもの。今回だって、何があるかわからないでしょう!?
わたくしの気持ちに気づいたのか、オズワルドさまはにこりと笑いました。
「それなら、今度は頬に口付ける権利が欲しいな」
ぼんっ! と一瞬にして、わたくしの顔が赤くなりました。うう、そんな予感はしていましたけれどやっぱり……!
こうなったら目をつぶってやりすごさなければ!
わたくしがぎゅっと目をつぶって待っていると、頬にオズワルドさまの指が触れました。大きな手がさらりとわたくしの髪をかきあげ――それから耳元でささやかれました。
「――返事がないけど、構わないということかな?」
低く、甘い声。全身にぞくりとしびれが走ります。
あああ! そんな声でささやくなんて反則ですわ! 思わずビクンッてしちゃったのが猛烈に恥ずかしいですわ!
わたくしが返事の代わりにコクコクとうなずくと、くすりと笑う声が聞こえ、それから頬にやわらかな唇が触れました。
ああ、わたくし、もう何も悔いはない……じゃなかった! 淑女たるもの、喜んでいる場合じゃなかったです!
「そそそそそそれではあたくし、部屋に戻りますわねっ!」
動揺しすぎて“あたくし”なんて言ってしまいましたわ……。
わたくしは逃げるようにその場から駆け出しました。本当はちょっと嬉しかったなんて、そんなことはこれっぽっちも思っていませんわよ、本当ですわよ!
◇
「姉さま、最近すごく楽しそうね」
鼻歌を歌いながら生薬の根から土を払っていたら、珍しく妹のアンジェラが顔を覗かせました。
「ええ、ここはおもしろいものがいっぱいで、本当に飽きないですわ。ずっといたいくらいよ」
「えっ? ここにいるんじゃないの? 姉さまとオズワルド兄さまが結婚するって聞いたよ」
わたくしは思わず生薬を取り落としそうになりました。
「なな、なんですって!? どうしてそんな話に?」
「みんなそう言ってるよ? 『エヴァンジェリンさまと坊ちゃまの結婚式が楽しみですね』って」
思わずわたくしは顔を覆いました。
実は、そう言われるだろうことはうすうすわかっていたんです。
だって居心地が良すぎて、あと一週間、もう一週間と滞在する日付を伸ばしているうちに、気付けば二か月も経っていたんですもの……。我ながらなんて図々しい……。
でも、そうよね。
このままだらだらと居座り続けるわけにもいかないわ。わたくしもそろそろ、きちんと返事をしなければ。
ぎゅっと手を握り、オズワルドさまの所へ向かっていたその時です。突如屋敷の中が騒然とし始めました。
「一体どうしたのです?」
「エヴァンジェリンさま……それが、どうやらダスティン王太子殿下がお越しのようで」
ダスティン王太子殿下。
かつての婚約者の名前に、わたくしは目を丸くしました。
◇
「――だから、さっさと薬を渡してくれればいいと言っているだろ!」
ソファにふんぞり返った殿下が、イライラしたようにオズワルドさまに言いました。
一方のオズワルドさまと言えば、殿下の言葉に顔色ひとつ変えることなく、優雅にお茶を飲んでおられます。ちなみにわたくしはなぜかその隣に座らせてもらっています。
「聞いているのか!? オズワルド!」
「ええ、聞いていますよ殿下。でも意外ですね。あなたが胃痛だなんて」
「こ、ここのところ少し食べ過ぎたんだ。……その、ごはんがおいしかったからだぞ! 決して他意はないぞ!」
そう言われて、わたくしはピンときました。
マチルダさまに振られて、やけ食いなさったのね。そういえば心なしか以前より頬がふっくらしているような……。
「なんだその目は! エヴァンジェリン、お前いま僕をあわれんでいただろう!」
「いえ、決してそんなことは」
「くそっ……満ち足りた顔をしやがって……! エヴァンジェリンだって、オズワルドの本性を知ったらまた胃が痛くなるに決まってる!」
えっ? 本性? ……ってなんのことですの?
わたくしがきょとんとしていると、オズワルドさまが今まで聞いたことがないぐらい低い声を出しました。
「殿下」
その声にビクッとダスティン殿下が震えます。
「な、なんだ! 別に僕は怖くないぞ! いいかエヴァンジェリン、この男はずっとお前を騙していたんだ! 本当は誰よりも腹黒くてずるいやつなんだぞ!」
えっ? 腹黒い? ずるい? どういうことですの?
わたくしがおろおろと二人を見ると、オズワルドさまがはぁーっと大きなため息をつきました。
それから、青い瞳がきらりと光ります。
「……全く。ダスティン殿下には遠慮というものがひとつもありませんね。そんなんだからマチルダ嬢にも振られるんですよ」
「うぐぅっ!!!」
オズワルドさまの容赦ない言葉に、ダスティン殿下が胸を押さえました。
「お……お……お前……! そのことには触れてくれるなとあれだけ……!」
「でしたら、言葉遣いにはお気を付けください。どんな相手にも敬意を持って話すようにと、散々注意したではありませんか。マチルダ嬢も、あなたのそういうところが嫌なのでしょう」
「おうふっ……」
手厳しすぎるオズワルドさまの愛の鞭に、ダスティン殿下はもう撃沈寸前。
……というか目の前の殿方は本当にオズワルドさまなのでしょうか?
今までの穏やかさは嘘のように消え、まるで知らない人のようですわ。わたくしがしぱしぱと目をまばたかせていると、オズワルドさまが嫌そうに言いました。
「そもそも、薬をもらうためだけに、わざわざここまでやってきたんですか?」
「どれだけ呼んでもお前が戻ってこないからだろう! 前は用事もないのに現れていたくせに……!」
「そりゃそうですよ。殿下の隣にはエヴァンジェリンがいましたからね」
えっ? そうなんですの? 新情報の連続にわたくしが戸惑っていると、ダスティン殿下がまたぷりぷりと怒り出します。
「それよりも薬だ。エヴァンジェリンが飲んでるやつは、抜群に効くんだろう!?」
「殿下……あれはエヴァンジェリンのために処方した薬で彼女だから効くのです。あなたとは性質が全く違う。それにあなたは王太子。許可のない薬を飲ませられるわけないじゃないですか」
「う、うぐぐ……」
「あの……殿下。他のお薬じゃダメなんです?」
わたくしは尋ねました。
殿下の一過性の胃痛ぐらい、宮廷医師たちがいくらでも直せそうなものなのに。
「そ、それは……」
そこで殿下はなぜか言いよどみました。オズワルドさまが、はぁーっとため息をつきます。
「全く殿下も素直じゃないですね。私やエヴァンジェリンに会いたいのなら、素直にそう言えばいいでしょう」
「バッ!!! バッカお前そんなんじゃ……!」
あら? あらあら? そういう?
思ってもみなかった言葉にわたくしは目を丸くしたのですが、不思議なことに殿下は顔を赤くしていらっしゃいます。
「殿下はわたくしを嫌っているんじゃなかったんですの? だって婚約破棄されましたし」
問いかけると、彼はバツの悪そうな顔で言いました。
「……別にそういうわけじゃない。ただ、その、マチルダにちょっといいところ見せようと思って調子に……」
「まあ、あれでいいところを見せていたつもりだったんですの!? 殿下はそこまでお馬鹿さんでしたのっ!?」
「ふぐぅっ」
あ、しまった。つい勢いでとどめを刺してしまいましたわ。
そこへ、厳しい声音でオズワルドさまが続けます。
「それで、殿下は謝らないのですか? わざわざ皆を巻き込んでエヴァンジェリンを婚約破棄したことは、決して許されることではありませんよ」
その言葉にダスティン殿下がギクリとしました。
「そ、それは……その……。……確かに色々間違ったと思っている。……ごめん、エヴァンジェリン」
小さな子どものように、ダスティン殿下がしゅんと背中を丸めました。わたくしはにっこりと微笑みます。
「大丈夫ですわ。わたくし本当に気にしていませんし」
むしろ大喜びだったなんて、言えませんわね。
「そっ! それより! 薬はもらえるのか? もらえないのか?」
照れを打ち払うように殿下が声をあげ、オズワルドさまが答えます。
「先ほども言った通り、王太子であるあなたに、むやみやたらに薬を飲ませるわけにはいかないのですよ。……それこそ薬師組合で認められれば、いくらでもおわたしできるのですが」
「なんだ、薬師組合を説得すればいいのか? それならすぐにできる」
えっ? そんな安請け合いして大丈夫ですの!?
わたくしの動揺とは裏腹に、オズワルドさまはにっこりと微笑みました。
「ならば、先行して少しだけお薬を渡しましょう。残りは組合を丸め込んだ後で。……せっかくだからエヴァンジェリン、君が見立ててあげるといい」
「は、はいっ」
言われて、わたくしはダスティン殿下をじっと見つめました。
ダスティン殿下、十六歳。背は高くもなく低くもなく、声はご存じの通り大きいですし食欲もたっぷり。普段からとても暑苦しい――じゃなくて、まごうことなき健康優良児なので、虚実で言うなら“実証”でしょうね。
症状は胃痛を訴えているけれど、もう少し突っ込んで話を聞くと、胃痛というよりはやけ食いによる一時的な胸焼けに近い。それに加え、殿下はとにかく怒りっぽいですわ。
それらを総合すると……。
「わたくし、ダスティン殿下には黄連解毒湯がいいと思うのですが、いかがでしょう?」
「オウレンゲドク? なんだその呪文は」
そう言った殿下を丸無視して、オズワルドさまが尋ねました。
「黄連湯ではなく、黄連解毒湯の方にしたのはなぜだい?」
この二つの名前が似ているのはわけあって、どちらも黄連というお花の根を使う薬なのです。ただ配合されている生薬が違うので、効き目も若干変わるんですわ。
「純粋に胃痛に効果がある黄連湯より、殿下にはイライラやのぼせを鎮める効果もある黄連解毒湯の方がいいかと思いました」
わたくしが説明すると、オズワルドさまが「さすがだね」と微笑みました。
「そうだね、確かに殿下には解毒が必要かもしれないね」
「と、言うか! まさかこんなものを飲めというのか!?」
わたくしが用意した薬を指して殿下が叫びました。
そこにあるのは、コロコロした赤黒い丸薬。
「ええ。本当は効き目を考えたら煎じた方がいいのですが、長く保存できるのはこちらですから……」
「こ、こんなもの、うさぎのフンじゃないか!」
あらっ! ついに言ってしまいましたわね! 今までみんな口に出さないようにしていましたのに!
「しょうがないですわ。丸めたらみんなこの形になってしまうんですもの」
「飲みたくないなら飲まなくてもいいんですよ、殿下」
オズワルドさまがサッと薬を持ち上げます。
それを見て慌てたのはダスティン殿下でした。
「まっ! 待て待て! 飲む! 飲むから!」
「よかったですわ。なるべく食前十分前の空腹時に、飲んでくださいましね」
「ふ、ふん……。わかったよ」
「殿下、お礼は?」
「……あ、ありがとう、エヴァンジェリン」
「大変よろしい」
にっこりと微笑むオズワルドさまを前に、ダスティン殿下はぶつくさ言いながら帰られました。
わたくしたちはそんな殿下を見送ると、また屋敷の中に戻ります。
オズワルドさまはいつも口数が多いのですが、ダスティン殿下が帰られてからは、ずっと静かです。……もしかしてわたくしが、何かそそうをしてしまったのでしょうか。
「あ、あの、オズワルドさま」
「エヴァンジェリン」
玄関に入ってすぐ、わたくしたちが口を開いたのは同時でした。
「すまない。何だい?」
「あっ、いえ、大したことではないのでオズワルドさまからどうぞ」
「それなら先に失礼して。その……君は私の本性を見て、嫌いになったかい?」
そう聞いたオズワルドさまのお顔は、珍しく緊張しているようです。
本性? ……ああ、ダスティン殿下に“腹黒”と言われていたやつですわね?
「いえ、少しびっくりしましたけど、嫌いにはなりませんわ。そういう一面もあるのですねと思うくらいで」
むしろ、ずばずばダスティン殿下をぶった切っているのを見て、失礼ながらちょっと笑ってしまいましたわ。いえ、これは口には出せないのですけれど。
「そうか……」
オズワルドさまは、ほっとしたように微笑みました。
あっその顔とてもいい。ちょっと余裕のなくなった感じもステキ……なんて思っていたら、オズワルドさまがそっとわたくしの手を握ります。
「エヴァンジェリン……殿下の言ったことは事実だ。私は君を手に入れるために色々とずるいこともした。殿下をマチルダ嬢にけしかけたのも私だし、裏で手を回して君を囲い込もうともした」
「オズワルドさま……」
「そんな私に、こんなことを言う資格はないのかもしれない。……だが、私は君のことが好きなんだ。初めて会ったときからずっと、君の明るさと優しさに惹かれていた」
いつになく切羽詰まった瞳にわたくしは言葉に詰まりました。
今のオズワルドさまはどこからどう見ても真剣そのもの。まさか本当に、こんなに強く思っていてくれたなんて……。
「本当は、漢方も君の為に勉強しに行ったんだ。……君に近づくきっかけが欲しかった」
わたくしのためだけに、向こうの国にまで!? じょ、情熱と行動力がすごい。それはむしろ申し訳なくなってきましたわ……!
……でも、今こそわたくしの素直な気持ちをお伝えせねば。
「……オズワルドさま、まだ、わたくしを妻にとお考えですか?」
「もちろんだ。公爵夫人の地位は嫌かもしれないが、なるべく負担を少なくすると約束しよう」
「いいえ。その必要はありませんわ」
そこでオズワルドさまはハッとしたお顔をしました。
一瞬、断られるのだと思ったのでしょう。
けれどわたくしはそこで背筋を伸ばし、にこりと微笑みました。
「わたくし、覚悟を決めました。負担を軽くしていただく必要はありません。立派な公爵夫人になれるよう、精いっぱい努めさせていただきますわ。……だからどうか、わたくしをあなたさまの妻にしてくださいませ」
「エヴァンジェリン……」
オズワルドさまは微笑みました。そのお顔は心から嬉しそうで、見ているわたくしが泣きたくなってしまうほど素敵な笑顔です。
「今までわたくし支えられてきたばかりでした。ですが、これからはわたくしもオズワルドさまを支えたいのです」
わたくし、思うのです。
愛する方とともに生きて、愛する人と互いに支えあう。きっとそう思ったからこそ、人は“結婚”という制度を作ったのではないかと。
「嬉しいよ、エヴァンジェリン。よろしく、……私の未来の奥さま」
そう言って、オズワルドさまの顔が近づいてきます。
……と、とうとう唇に口付けを……!?
ドキドキしながらそこまで考えたところで、わたくしはふとあることを思い出しました。
「あ、待ってくださいオズワルドさま」
とっさに手でお顔を押さえてしまったので、オズワルドさまが「うっ」と呻きました。
「……何だい、エヴァンジェリン」
「ひとつ気づいてしまったんです。わたくしたち、今後はがんばってダスティン殿下のお尻を叩かねばいけないのではなくて!?」
ダスティン殿下は、ああ見えて王太子。今回の件で廃嫡とはならなかったようですが、彼が将来の王になるというのはそれはそれで大変不安ですわ……!
「ああ、それなら心配ないよ」
わたくしがそう言うと、オズワルドさまはにっこりと微笑みました。
「殿下を廃嫡にしないよう、陛下に頼んだのは私なんだ。それから、もし私の助言で殿下がマチルダ嬢を射止めることができたら……それはとてもすばらしいことだと思わないか?」
「あっなるほど」
その言葉でわたくしは全てを察してしまいました。
オズワルドさまがじわじわとわたくしの外堀を埋めてしまったように、きっと遅かれ早かれ、マチルダさまは殿下の求婚にうなずくことになるのでしょう。
そうすれば廃嫡回避の恩もあって、ダスティン殿下はオズワルドさまには逆らえませんわ。そうして殿下が即位した暁には、きっとオズワルドさまが宰相に選ばれるのでしょうね。
「愛する妻がいる国なんだ。殿下に潰されてはたまらないからね」
そう微笑んだオズワルドさまは、大変あくどいお顔をしていらっしゃいました。……でもそんな顔もステキ。
「ああ、それと私もひとつ思い出したんだが、君は本格的に漢方を勉強してみる気はないかい?」
「えっ? 本格的にとは?」
「ちょうど、あちらの師匠から最近手紙をもらったんだ。兄弟弟子の一人が、我が国に興味があるらしい。留学がてら、君の先生になってもらってはどうだろう」
現地の方が先生に!? まあ、なんて素敵な提案なのでしょう!
わたくしは目を輝かせました。
「ぜひ、お願いしたいですわ!」
「なら迎え入れる返事を書こう。殿下が薬師組合に働きかけてくれるだろうし、もしかしたらこの国で初めての漢方医師が誕生するかもしれないね」
まぁまぁ! なんて魅力的なお話なのでしょう……!
王妃という立場はわたくしにとってはただただ重圧でしかありませんでしたが、オズワルドさまを支えながら漢方を広めるというのは聞いただけでやる気がみなぎってます。
わたくしはオズワルドさまの話を聞きながら、彼に引かれてゆっくりと階段を上りました。
そこにあるのは、わたくしたちの輝く未来、それだけでした。
◇
――数年後。わたくしたちは、それぞれ異なるあだ名で世間から呼ばれることになります。
私は『漢方夫人』、オズワルドさまは『影の支配者』と。
ダスティン陛下はオズワルドさま(当然のように宰相ですわ)の呼び名に不満そうですが、マチルダ王妃陛下がわたくしたちを熱烈に支持してくださっているので、何も言えないらしいです。
尻に敷かれているダスティン陛下の姿を想像すると、笑ってしまいますわね。フフッ。
あら、そんなことを話している間に、また今日の患者さんがいらしたみたい。
それではわたくし、この辺りで失礼させていただきますわね。
あっ、もし体の不調でお困りの際には、ぜひわたくしの医院へお越しくださいませ。
あなたにも、よき未来があらんことを……。
――エヴァンジェリン・L・ランドン公爵夫人、通称“漢方夫人”より。
<終>
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また、この作品は「腹黒」とテーマにした「腹黒恋愛短編企画」の参加作品です。
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もしこの短編を呼んで参考文献が知りたくなった方、あるいは漢方に興味を持った方向けに、
4/15の活動報告に読んだ資料を一口感想とともに載せました。
お読みいただきありがとうございました!