朱鷺子の追憶
ママのブローチでふと思い出した。
ムギちゃんが顔に大きな傷を作った日のことだ。
あの日は授業参観でママはお姉ちゃんとムギちゃんの授業を見学した後、私の教室に来てくれた。
私はまだ1年生になったばかりでキラキラのブローチをつけてオシャレしたママが教室にいるのが気恥ずかしくてずっとソワソワしていたのを覚えてる。
給食を食べた後ママと一緒に家に帰って、お姉ちゃんたちの帰宅に合わせて喫茶店にケーキを食べに行こうかなんて話をしていたのに、かかってきた電話に出たママはきれいな服のまま外へと飛び出して行ってしまった。
そのままママもお姉ちゃんたちも帰ってこなくて私はすごくお腹が空いてひとりですごく怒ってた。
帰ってきたらいっぱい文句言わなきゃって、ケーキもアイスもドーナッツだって食べさせてって。
外が薄暗くなってきた頃ようやくドアが開く音がして、私は玄関へと駆け出した。
「ママ!」
今にも破裂しそうな気持ちはそのあと目に入ってきた光景によってしゅるしゅると萎んでしまった。
そこにいたのは顔を真っ赤にして目を腫らしてずっと泣いているお姉ちゃんと、おでこに分厚く包帯を巻いて着ている服が赤黒く染まっているのに泣いているお姉ちゃんを慰めているムギちゃん。
今も昔もお姉ちゃんの泣き顔を見たのはこのときだけだ。
おっとりしていてあまり感情的にならないけど優しいお姉ちゃん。
小さな私を守ってくれる絶対的存在だった。
そんなお姉ちゃんが泣いていることがあまりに衝撃的で私は立ちすくんでしまった。
一方ムギちゃんは私の動揺にすぐ気付き、お姉ちゃんの背中を撫でながらにっこり笑ってくれた。
「朱鷺ちゃんごめんね。びっくりさせちゃった? そんなに大したケガじゃないのに血まみれだから怖いよね? すぐ着替えるから待っててね」
どう答えたらいいのかわからない。
小学1年生の私のキャパシティを超えていた。
どうにもできなくて気付けば私の目にも涙が溜まる。
「ああっ朱鷺ちゃん泣かないで。大丈夫、大丈夫だから」
だって絶対大丈夫じゃないんだ。
あんなに服が血まみれなんだもの。
それなのにムギちゃんは笑う。
お姉ちゃんは無傷なのに泣いている。
ママの顔色は真っ青を通り越して白っぽいお面みたいに見えた。
いつもより早くムギちゃんのパパとママが帰ってきて、ママがふたりに謝っているときもムギちゃんはずっとママとお姉ちゃんをかばっていた。
私が勝手にやってケガしただけだから鴻ちゃんもみーさんも悪くないよ、大したケガじゃないから大丈夫って。
本当なら泣いたり痛がったりしてもいいはずのムギちゃんが周囲に気を遣って笑っているのが怖かった。
だってムギちゃんはなにも悪くないのに。
お姉ちゃんにしつこく絡んでいた上級生の男子が反応の悪いお姉ちゃんに対し脅かすように石を握って殴りかかったところ、とっさにムギちゃんが間に割り込んでお姉ちゃんを庇ったのだという。
向こうは殴るふりだけで殴るつもりはなく、割り込んできたらぶつかってしまったと言っていたらしいけれど。
それ以上のことはわからない。大人同士でなにか話し合いとかはあったのかもしれない。
ただその日からお姉ちゃんは学校へ行かなくなった。
自分のせいでまたムギちゃんがケガをしたらと怖くなったんだと思う。
自宅学習に切り替えた結果お姉ちゃんが勉強ができるおっとりした子ではなく、頭の回転が速すぎて周囲にうまく合わせられなかった天才タイプだったと判明したのは怪我の功名だっただろうか。
私はあの日までムギちゃんのことをお姉ちゃんほど好きじゃなかった。
嫌いでもないけど一緒に住んでるお姉ちゃんの友達くらいの感覚だ。
でもムギちゃんは誰かに気を使って誰かを守って私の知らないところで死んでしまうかもしれないと思ったらすごく怖くなった。
だって自分がケガしてもお姉ちゃんを守って、ママを庇って、私に気を遣って!
あのときのムギちゃんの年齢を追い越した今でも私はそんなことできない。
誰かがムギちゃんを守らないと、ムギちゃんはきっと人のために早死にしてしまう。
それなら私がムギちゃんを守れる人になろう。
ムギちゃんが誰かのために怪我したりしなければ、お姉ちゃんも泣かせずに済む。
私は人より背伸びしてもムギちゃんもお姉ちゃんも守れる人にならなきゃ。
今もムギちゃんの額から眉間にかけてくっきりと大きな傷跡が残っている。
傷跡によってムギちゃんの魅力が損なわれているなんて思わないけれど影も形もなくなるくらいきれいに消してあげたい。
だから得意なことで有名になって大人になるよりはやく沢山お金をもらおう。
どんな手術でもムギちゃんが自由に選んで受けられるくらいね。
それでどこにも行ってしまわないようにずっと隣にいてもらうんだ。
こんな風にムギちゃんが服を作ったり小物を作ったりするところを見守りながら歳をとって、おばあちゃんになるまでずっと家族でいたいんだもん。
朱鷺子→紬の根底に「喪失の恐怖」があるという話。
3人娘の中で一番普通かつ健全なのは朱鷺子で、紬は自称するほど普通の子ではないのです。




