田所さんへの贈り物
田所さんはタクシーの運転手です。年はもう七十を超えていて、帽子からは白い髪がのぞいています。
ずっと運転席に座っていると、腰が痛くてたまりません。それでも田所さんは休み休み腰をなでながら、毎晩のように運転していました。
田所さんは、夜にタクシーを走らせます。
昼のお客さんより、夜のお客さんのほうが、遠くまで行くので、多くの料金がもらえるのです。
夜に乗ってくれるお客さんたちは、霞が関というお役所のビルがいっぱい集まった場所にいます。なので、その夜も、電車が終わってしまうころに田所さんはタクシーで霞が関に向かっていました。
霞が関に行く途中にあるこんもりとたくさんの木の茂った皇居の前の道路で、田所さんは急ブレーキを踏みました。
道路を、小さな動物が走っていたのです。
タクシーがつんのめるように止まります。
後ろを走っていた車が、怒ったようにクラクションを鳴らしました。
慌ててタクシーを歩道に寄せると、急ぎすぎたのが、がりっとガードレールに当たってしまいました。
「しまったなあ」
田所さんはタクシーを降りて、帽子を脱いで大きなため息をつきました。ぴかぴかと黒く光るタクシーに、白い筋がついてしまいました。
「おい、何をしているんだ」
警棒を手にしたお巡りさんがやってきました。
このあたりには交番がいくつもあるのです。
「いやね、何か猫か犬みたいなのが道路を横切ったんですよ、お巡りさん。慌ててブレーキを踏んだらこの始末です」
若いお巡りさんはいかにも不機嫌に言いました。
「タヌキだろう。良くいるんだよ、このあたり。事故だな、記録とるぞ」
「いやいや、勘弁してくださいよ」
田所さんは頭を下げてなんとかお巡りさんに見逃してもらいました。
「やれやれ、今日はついてない」
その予感は次にもやっぱり的中しました。
霞が関のビルで、その夜に乗ってきたお客さんは、「外れの山田さん」だったのです。
「山田さん、お久しぶりですね。ご自宅でいいですか」
「ああ、頼むよ」
このあたりで電車が終わった後にタクシーを使う人は同じ人ばかりなので、名前も自宅もタクシーの運転手であればみんな良く知っているのです。
タクシー運転手たちは、遠くまで行くお客さんが大好きです。「当たりの山田さん」は大船という東京からとても遠い家に帰ります。いっぽう「外れの山田さん」は鶴見という東京の隣の町に住んでいるのです。
「こんな遅くにまで粘っていたのに、お客が『外れの山田さん』ですまないね」
山田さんは明るい声で言いました。田所さんは驚きました。誰が山田さんにタクシー運転手の間で呼んでいるあだ名を教えてしまったのでしょう。
「いえいえ、とんでもないですよ。乗っていただけるだけでこちらとしては有難いかぎりです」
田所さんは心からそう言いました。最近は不景気で、お客さんがとても少なくなってきたのです。
「まあタクシーの人に俺が残念な思いをさせることはもうないよ。もうね、来月で俺は定年なんだ」
バックミラーごしに見る山田さんの顔はずいぶんと疲れているようでした。
「定年になられても、お仕事はあるでしょう。官僚さんなら」
「いや、もうきっぱり引退するよ。さすがに疲れたよ」
山田さんは、薄くなった頭をなで、そうしてだらしなく座ったせいでぽっこりと浮いたお腹をなでました。
「俺の人生も外れだったな」
田所さんは赤信号で止まると、足元のクーラーボックスからビールの缶を出しました。
「よろしければどうぞ。お疲れさまでした」
それは長い距離を乗る「当たり」のお客さんに出すためのビールでした。
「いいのかい」
「ええ、どうぞ、どうぞ。私もそろそろ辞めるときが来たようです。腰は痛いし、車のガスももうないし、ちょうどいいから、今夜の山田さんを最後のお客に辞めてしまおうかと思います」
「そうかい、そうだよな、もう十分だよな」
山田さんはぷしっといい音を立てて缶を開けると、いかにもおいしそうにビールを飲みました。
山田さんを家に届けた後、田所さんは帰る途中にトイレに行きたくなりました。ちょうどまた皇居の近くにきたので、行きなれている半蔵門の公園に止まりました。
トイレをでると、もう朝日が出ていて、東からの明るい光が暗い藍色の空を西へ西へと追いやっていました。
半蔵門公園の桜は満開で、はらはらと薄紅の花びらが落ちています。黒く太い桜の大木がずらりと並んで、空をいっぱいふさぐほどにびっしりと花をつけた枝が広がっていました。半蔵門からなだらかに下っていく坂の下に、鮮やかな新緑に包まれた皇居のお堀と、ぴかぴか光る丸の内の高層ビルが三十、四十と見えました。
田所さんは、思わず立ち止まってぽかんとそれを見ていました。
「おはようございます」
爽やかに元気な声がしました。若いお巡りさんが笑顔で田所さんに挨拶をしました。
「あ、あ、おはようございます」
その向こうには、ジョギングをしている若い女性が、ポニーテールを弾ませながら桜を見上げて嬉しそうに走っていました。
道に止めっぱなしのタクシーに戻った時、車から小さな動物が走り出していきました。
「あれっ、なんだ」
慌ててタクシーに駆け寄ると、フロントガラスの前に、どんぐりが三つ置いてありました。
田所さんはどんぐりを手にとって、ごりごりとすり合わせたあと、ズボンのポケットに入れました。
「帰るか。ああそうだ、今夜の分のガスを入れておかなくちゃな」




