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最強シスコン執事の化学実験室(ラボラトリー)  作者: リア
第一章 化学者が執事と呼ばれるまで
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8話 銀の鏡

 それから僕は毎日ティア様と顔を合わせた。


 伯爵家ということもあり、教育カリキュラムのようなものも存在しているのだが、所詮は幼稚園児レベルである。赤子の手を捻るようなもので、時間を作り出してはティア様の部屋へお邪魔していた。


 僕が訪れると、彼女はいつも笑って迎えてくれる。


 僕は乞われるがまま、いろいろな話をした。屋敷で起こった珍事件や、勉強の話など。


 本当であれば、彼女もその当事者になれるのだ。ハンセン病は軽度のものであれば、歩き回るくらい造作もない。だが、彼女はそうしない。使用人にでさえ、その顔を見られるのは嫌だそうだ。


「僕は良いのですか?」

「お兄ちゃんはいいの」


 なんて照れくさそうに言われてしまっては、無理に外へ出そうという気も起こらない。


 また、彼女自身の話もたくさん聞いた。長い間、半分自主的とはいえここに軟禁され、会える人もおらず、窓の外を眺めては妄想に耽る日々だったのだという。


「本当に寂しくてね。だから、お兄ちゃんが来てくれてうれしい」

「はぐぁっ」


 正直、老人の独りよがりなのではないかとビクビクしていたのだが、そんな懸念は一発で吹き飛んだ。心臓が止まってしまいそうなほど、可愛らしい笑みであったと報告しておこう。


 さて、現在の話をしよう。こうしてティア様と仲を深めながら、早くも一年が過ぎた。


 この一年間薬の投与を続けた結果、ティア様の顔にあった発疹は綺麗さっぱり取れて、元の愛らしいご尊顔へ戻っている。


「ティア様。あなたのご病気は完治しました。ですから、もう外へ出ても平気ですよ」


 だというのに、ティア様は頑なに外出を拒んでいるのだ。今日だって、首を思いきり横に振っている。自分の手で、顔の形も確認できるはずなのだが。


「嫌です。まだ、お外は怖いです」


 というのも、この一年間、彼女が面会を許した相手は僕と父だけなのだ。軟禁され、誰にも会えなかった時間を含めれば、四年間である。幼子が他人を怖がるようになってしまうには、十分すぎる時間であった。


「大丈夫です。ティア様はお綺麗ですから、皆さん歓迎してくださいます」


 そうでなくとも、彼女は病というコンプレックスを持ち合わせているのである。この一ヶ月程は毎日、薬を与える代わりに説得しているのだが、それも意味を為さない。


「そんなことないです。私が病気にかかったとき、みんな私のことを避けていたんです。きっとみんな今も」

「きちんとお父様が説明してくださっていますから。大丈夫です」

「そ、それに、ちゃんと治ってるか、まだわからないですから」


 毎日毎日これの繰り返し。まったく強情である。伊達に年は食っておらず、気が急くようなことはないのだが、明日は授職の儀なのだ。さすがに前日まで外に出られないというのは不安である。


「わかりました。治っていることが目で見て確認出来れば良いのですね」

「え。う、うん、じゃなかった。はい」


 それならば、僕に考えがある。


 ティア様の返事を聞いてから、僕は彼女の部屋を出た。ある道具を取りに行くためである。


 その間に、ティア様の変化した点を紹介しよう。この一年で、ティア様は僕の真似をするようになった。つまり、敬語を使い始めたのである。あまりに僕が敬語ばかり使うので、それが伝染ったと言った方が正しいかもしれない。


 また、彼女には僕が魔法を教えている。と言っても、母の受け売りであり、あまり具体的でなく、加えて僕自身は行使できないという、考えうる限り最悪の教育だが、それでもどうにか、魔法の魔の字分くらいは行使できるようになっている。ティア様曰く、体が勝手に使い方を思い出したみたい、だそうだ。やはり僕にはさっぱりわからない。


 そうこうしているうちに、またティア様の部屋へ戻ってきた。


「お兄ちゃ、様。何をするつもりですか?」

「少し実験をしようと思います。換気のため、窓を開けてもよろしいですか?」

「はい。いいですよ」


 念のためである。高校生でも行う実験であり、有害な気体が発生するわけではない。


 そして僕は、能力を使うため、活性化状態に移行した。


 僕が持ってきたのは、シャーレに似た硝子製の透明な容器である。そこへ、アンモニア性硝酸銀水溶液と、グルコース、分かりやすく言えばブドウ糖を混合した溶液を生成する。


「ティア様、この容器を暖めていただけますか? 人肌くらいがちょうど良いのですが」

「はい。わかりました」


 ティア様が容器に手を触れ、魔法を発動させる。


 そのまま数分間待ち続けると。


「お兄さま、色が変わってきました」

「成功です。もうしばらく続けてください」

「はい。お兄さま、これは何を作っているの? ですか?」

「出来上がればわかりますよ」


 ブドウ糖というのは、水溶液中では鎖状の有機化合物であり、その末端にはアルデヒド基と呼ばれる構造を持つ。


 そのアルデヒド基と、アンモニア性硝酸銀に含まれる、銀を含んだ錯イオンとが反応し、銀を生成するという実験である。


 結果だけ言えば、シャーレの壁面、および底面に銀が生成するのである。


「さあ。反応が終わりました。容器を貸していただけますか」

「はい。お兄さま」


 ティア様から容器を受け取り、反応しなかった液体を別の容器へ移し変える。これで完成だ。


「それではティア様。どうぞ」

「どうぞと言われても...え?」


 シャーレの底面を覗き込んだティア様が言葉を失う。さぞ驚いた顔の彼女の姿が、そこに映し出されていることだろう。


「こ、これ、私ですか?」

「はい。この実験は、鏡を作る実験なのです」


 銀鏡反応。それがこの反応の名称である。


 化学反応がそのまま実生活に役立つ、極めて少ない例の一つである。


「よく見てくださいティア様。綺麗な顔に戻っているでしょう」

「本当、です」


 この部屋には鏡が無かった。それ故、ティア様は自分の症状の程、治療の程を確認する術が無かったのである。


 少々遅れ気味な文化を持つこの国であるが、鏡が無いというわけではない。ただ、非常に高価であり、この屋敷でさえ、据え付けの一つしかない。


 そういうわけで、この実験を執り行ったのである。これでさぞティア様の自信も取り戻されたことであろう。


「さあ、ティア様。誰もあなたが病気だったなどと気づく者はいません」

「う」


 しかしあろうことか、ティア様はまだ渋っているのである。いい加減、僕も焦れったくなってきた。


「ティア様、あのですね」

「お、お兄さまが」


 僕が説教がましく捲し立てようとしたとき、ティア様は自らそれを遮った。


 うじうじと悩んでいる、というより、どこか照れたような表情である。


「お兄さまが、私を、ティアって呼んでくれたら、外へ出ます」

「...はい?」


 確かに、僕はティア様のことをティア様としか呼んでいない。同じ年齢であるが、敬語を崩したことはない。


 それには相応の理由があってのことなのだ。以前述べた通り、僕は妾の子で、ティア様は本妻の子である。立場的には、ティア様が圧倒的に上なのであり、一年にも満たない年齢差は誤差でしかない。


 そういった上下関係からこそ、僕の今の態度が生まれているわけなのである。


「お願いします。ティアって呼んでください」

「...わかりました」


 しかし、本人が望んでいるのであり、ここは彼女の私室である。他に聞く者がいるわけでもない。だとすれば、ティア様に部屋から出てもらうための代価として、背に腹は変えられないだろう。


「ティア。一緒に外へ出ましょう」

「はいっ。お兄さまっ」


 ティア様はとびっきりの笑顔で差し出した僕の手を掴み、部屋の扉を開けた。


 さては、最初からこれが狙いだったのではないかと思えるくらいの思いきりの良さである。


 いずれにせよ、彼女が部屋から出たのだ。それだけで十分な結果である。

今週の化学用語

 銀鏡反応

 アンモニア性硝酸銀水溶液に、還元性をもつアルデヒドなどの物質を加えて温めると、水溶液に含まれる銀イオンが還元され、ガラス容器の内壁に銀が鏡のように付着する反応。

 グルコース(ブドウ糖)

 炭素六個からなる単糖類の一種。水溶液中では、ほとんどが六員環と呼ばれる環状構造で存在するが、一部が鎖状構造となり、それがアルデヒド基を含む。

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