23話 執事とシリカゲル
それから数日は、バリー少年も反省した、というより機会を伺っているのか、手出しをしてこなかった。いつ何をけしかけてくるかと戦々恐々としていたのだが、杞憂に終わったようで何よりだ。
そんなある日のこと。帰宅したところ、いつもとことこと駆けてくるティア様が、今日は来ない。どうしたのかと思い探してみると、廊下で呆然と突っ立っていた。
「どうなさいましたか、ティア様」
「ふぇ? あ、お兄さま。おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
ティア様が先程まで視線を向けていたのは、花瓶に生けてある花束であった。
よく見ると、色落ちが始まっており、生け始めた当初の瑞々しかった頃とは見違えるほどにみすぼらしくなってしまっていた。
「もうすぐ枯れてしまいそうですね」
「はい...どうにかして長持ちさせてあげられないでしょうか」
ふむ。そういうことであれば、僕に考えがある。
僕が定年で退職するとき、生徒から花束を貰ったのだが、その保存に困ったことがあった。なるべくなら長持ちさせたいという気持ちをインターネットにぶつけたところ、有用な情報を発見したのである。今こそ、それを披露するときだ。
「わかりました。その願い、少しですが、叶えられるかもしれません」
「本当ですかっ」
「ええ。お任せください」
「お願いします、お兄さま」
まるで我が子の命を助けてもらうつもりかのような勢いで、ティア様は僕に詰めよってくる。そこまで期待されると、失敗したときに居たたまれなくなってしまうのだが。
早速準備に取りかかろう。材料を作るのに極めて時間がかかるのだ。それも、花束と呼べるほどの数の花を処理しようと思うなら。
まず、容器に、水ガラスと呼ばれる、粘性の大きな液体を生成する。ちなみに、水ガラスの分かりやすい名称は、ケイ酸ナトリウムの濃い水溶液である。
それに塩酸を加え、かき混ぜる。そうすることで、ケイ酸が弱酸遊離する。そうすると、元々粘性の大きな液体であるのだが、それがほぼほぼ固体のようになってしまう。
あとはそれを加熱乾燥すれば、乾燥剤、シリカゲルの完成である。しかし、いかんせん量が多い。調理場を借りる約束は取り付けてあるのだが、やはり時間がかかる。
ふとそこで、扉をノックする音が響いた。
「お兄さま、どうでしょうか」
「今のところは順調です。時間がかかるのはここからですね」
シリカゲルが完成し、生けてある花をドライフラワーにするが先か、それとも花の色が抜け落ちてしまうのが先か。なんともいえない賭けである。
「それが、お花を乾燥させる薬ですか?」
「はい。そうです。といっても、これからこれ自体を加熱乾燥させる必要がありますが」
「それが完成したら、お花はずっと綺麗なままなんですよね?」
「ずっとではありませんが、できる限りのことは手を尽くしますよ。例えば、この乾燥剤による乾燥が終わった後は」
そこまで言いかけて、ふと思い至った。この工程を上手く使えば、ティア様への誕生日プレゼントにもなり、僕の押し花を生徒証の間から解放することができるかもしれない。
「お兄さま?」
「いえ。なんでもありません」
一瞬のうちに、視界が全面に開けたような気分だ。これさえあれば、全てがうまくいく。
思わず笑みがこぼれそうになるのを抑えた。僕の企みを、ティア様に気取られるわけにはいかない。あくまでもサプライズが重要なのだ。
その点で言えば、ここで言葉を不自然に切ってしまったことは痛手なのだが、どうにか誤魔化そう。
「それでティア様。どういったご用件でしたでしょうか」
「そうでした。晩御飯ができたそうなので、呼びに来たんです」
「そうでしたか。ありがとうございます」
自然に、とはいかなかったものの、追求を振り切ることはできそうだ。
ティア様と一緒に、階段を降りる。
有害な気体が発生する可能性もあるので、念のため、四階の、基本的に誰も使わない部屋を占領していたのである。
「お兄さま」
「はい? 何でしょうか」
追求が来たものと思い、今度はどう誤魔化そうかと考えたが、それは杞憂に終わる。
「ありがとうございます。私の我が儘を聞いてくれて。お兄さま、いつも私に優しいですよね」
その通りではあるのだが、面と向かって言われると面映ゆい。
「当然です。僕はティア様の」
誤魔化すように兄と口走ろうとして、やめた。
僕は彼女の、義理の兄である。たった一ヶ月しか変わらないが、それでも、一応兄である。しかし、立場的には、どう足掻いてもティア様の方が上。それは能力的な面でもそうである。
今でこそ、僕は前世の知識を利用し、子供らしからぬ言動をしているが、それもいずれ、ティア様は全て吸収してしまうだろう。
そうなったとき、僕は兄という立場さえ危ぶまれる。それは悪いことではない。ソリューシャ家の当主が優秀であることに、不都合は何もない。だが、そのときになってもなお、彼女が僕を兄と慕い、格別の愛情を向けるのは、少しばかり、世間体が悪いのだ。
だからせめて、今のうちに、僕のことを兄ではなく、他の何かへ少しでも逸らせよう。
では、何が良いだろうか。こんな老いぼれに相応しい役どころは。
「僕はティア様の、執事のようなものですから」
「ふふっ。そうかもしれません。何でも我が儘を聞いてくれる、優しい執事のようです」
執事。そんな言葉が、ふっと頭に浮かんだ。物語の登場人物の中で、年寄りで白髪のイメージがあるのは、執事とサンタクロースくらいなものである。生まれ変わった僕の髪は金髪であるが。
「参りましょう、お嬢様」
「はいっ。優しい執事のお兄さまっ」
そっと手を取り、転ばないように、されど優雅にステップを踏んで、夕陽が差し込む廊下を進んでいった。




