2話 輪廻転生
輪廻転生、という言葉がある。その道に詳しい訳ではないが、宗教用語らしい。確か、あの世へ旅立った魂が、この世に生まれ変わること、だったか。
いったいどのようにして、宗教家たちはそのような着想を得たのか甚だ疑問だったのだが、なるほど、現実として突きつけられたのであれば、提唱せざるをえないというものだ。
話の流れからわかってもらえる通り、僕は輪廻転生を体験した。前世である老いぼれの記憶をバッチリと引き継いでいる。
そこまでは良いのだ。前世は我ながら幸福な人生で、文字通り第二の人生を生き抜くのにも大変有用な情報が含まれているであろう。
がしかし。僕には、前世の記憶があることを悔やむ気持ちが生まれていた。老熟し、少しは落ち着いた雰囲気も身に付いたと自負する僕だが、受け入れ難い事実というものはある。
「たあぅ」
目の前で種も仕掛けも無しにティースプーンが浮いていたら。ましてきりもみ回転なんてしていたら。こんな現実、前世の常識が染み付いている僕からすれば、卒倒ものだ。
因みに、「たあぅ」というのは、僕のため息である。
「おはよう、アクオス。目が覚めたのね」
きりもみスプーンが向かう先には、金髪の女性がいた。染め物ではなく、恐らくは地毛の。金髪と言っても、白人ではない。肌の色は日本人にとって馴染みの深い、いわゆる黄色人種というやつである。
なお、声の源もこの女性である。前世の妻を想起させるような優しい声音で、顔立ちもまた整っている。僕の姉となる人だろうか。おしとやかな雰囲気こそ纏っているが、二十歳にも満たないであろう、未成熟と称すべき体躯である。
「はぁ。アクオスったら、どうしてこんなに可愛いのかしら」
アクオスというのが、どうやら僕の新しい名前であり、何やら呼び掛けられているのだということはわかった。それ以外はてんでわからない。
少なくとも、日本語でないことは確かだ。加えて、過去九十年、論文を読むにあたり、さまざまな言語に触れてきたはずなのだが、そのどれにも該当しない言語である。
そも、ここは地球ですらないのかもしれない。というより、十中八九そうだ。どこの地域に飛行するスプーンがあるのか。
「アクオス。いないなーい、ばあっ」
...笑った方が良いだろうか。
僕の姉(仮)がなんとも古典的な芸で赤子のご機嫌を取ろうとしているが、その実、僕の中身は老人である。何が面白いのかさっぱりわからない。ただただ、姉が弟を喜ばせようと張り切っている、微笑ましい光景なのである。
本物の赤子にとってみれば、現在目に見えるものが全てなのであって、さも突然姉の顔が表れたかのように認識するものなのだろうが。生憎と、爺にとっては、ともすれば滑稽にも映るのである。
「あら、おかしいわね。ティア様は笑ってくれたのだけれど」
ふむ、赤子がいつまでも仏頂面では姉が可哀想かもしれない。そう思い、一芝居打ってやろうと思ったのだが。
僕の姉は、唐突に僕の下を脱がしたのである。
「んー、やっぱりこっちも違うわね。こっちなら泣いて教えてくれるはずだもの」
何事か納得した様子で、僕の下を戻した姉。ひょっとして、オムツの確認をしてくれたのか。前置き無しにズボンを下ろされるのは、被介護生活に馴れた年寄りと言えども抵抗というか、驚きを感じる。
「じゃあ、おなかが空いたのかしら」
僕が落ち着いた途端に、今度は姉が上の服を脱ぎ出した。言葉にならない悲鳴が僕の脳裏を木霊する。赤ん坊になったとはいえ、うら若き乙女の素肌を見てしまうことは忌避すべきことなのだ。
しかし姉は、そんな僕の思惑を感知することなく、軽々と僕を持ち上げて、意外に豊満なそれを僕の口元に差し向けてくる。僕は必死で目をつぶった。
「これも違う? アクオスは難しい子ね」
否、これまで姉と勝手に解釈していたが、この少女、もとい淑女は、僕の母なのではないか。それにしてはいやに若作りであるが。
僕を寝床に戻した母(仮)が服を着たことを確認し、目を開ける。
この状況、可及的速やかに、僕がご機嫌ナナメなどではないことを母に伝えねばならない。
「たぁう! たぁう!」
僕の表情筋を完全導入し、これでもかと笑顔を作って、甲高い声で機嫌の良さをアピールする。嗄れた声に馴れた元老体としては、こんな声を自分が出していると思うと違和感満載だが、この際気にしてはいられない。
「...泣いているのか笑っているのかわからないわね」
恥もプライドも棄てた全力のアピールも虚しく、母に首をかしげられてしまった。
「私、子育てに向いていないのかしら」
少々過度であったのかもしれない。さりげなく、それでいて笑っているのだとわかるような表情を作るのだ。
イメージは、そう。実験成功に喜ぶ子供たちへ向ける優しい笑顔だ。
「なぁい」
「...私、慰められているのかしら。自分の子供に。この子もこの子で、なんて大人びた笑みを浮かべるのよ」
言葉の意味はわからないが、何故だか呆れたような様子で僕を見つめる母。兎も角、僕は大丈夫だとわかってもらえたようで、目的は達成である。
さてさて、危機が去ったところで、情報収集再開である。これからまた何十年と過ごすことになるであろう世界だ。化学の発展具合なんかも是非知りたい。地球になかった物質なんかもあると嬉しいのだが。
「アクオス、こんなお母さんだけど、よろしくね」
とにもかくにも、まず言語の習得からだ。この子供用ベッドから見える景色だけでは、情報を得ようにも限度がある。母の話を聞き取り、あるいは本でも読んでもらおう。
第二の人生が如何なものになるか、現時点ではさっぱりだが、少なくとも、一度目の人生と遜色ない程度には楽しみたいと思う。折角やってきたボーナスステージなのだ。素晴らしい時間を過ごそうではないか。
「ティア様はまだ眠っているし、アクオスももう一眠りしましょうか」
軽く意気込んでいると、母は僕の寝床の側を立ち、部屋の隅へ。何やら数本の糸が張られたオブジェクト、恐らくは楽器であるだろうそれを手に取り、再度僕の側へ。
「おやすみなさい、アクオス」
母は穏やかな気色でそれを鳴らし始めた。ハープのような落ち着いた音色は、僕を容赦なく眠りの世界へ誘う。
言葉の習得に逸る気持ちもあるが、何よりこの体は赤子。今のところは、欲求に従って生きるのが正しい生き方というものだろう。
「はにゃあ」
うつらうつらしていると、楽器の音の合間を縫って、何やら隣から猫のような鳴き声が聞こえた。
条件反射的にそちらへ体が向く。
するとそこには、銀色の産毛を拵えた、僕と同じ赤ん坊がいた。桃色の寝巻きを身に纏っていることから、女の子であるのだろう。その幸せそうな寝顔と言ったら、年老いて荒んだ心も一発で浄化されるような、天使などと陳腐な言葉では最早言い表されない神々しさ、可愛らしさである。
当然ながら、僕の心はこの赤子に奪われてしまった。なんとしても、この可愛らしい少女を守らねばならない。そう思ったのである。
僕の第二の人生の目標は、その初日に決まってしまったのであった。