16話 朝の悶着
またやってしまった。昨日と同じくして今日もまた、ティア様がすぐ傍ですやすやと寝息を立てている。
そればかりか、昨日は背中を向けられていたが、今日は正面から抱き合っている。ティア様の方が身長は低く、僕の鎖骨辺りに顔を埋めるような形になっていた。どう考えても息苦しいだろうに。
それに加えて、今日もまた登校日。僕はそろそろ起きなければならない。とはいえ、どういう神経をしているのか、気持ち良さそうな寝顔で眠る彼女を揺り起こすわけにもいかない。
そんな葛藤を続けて数十分。部屋にノックの音が響いた。返事をしていないのに、扉が開く。
「アクオス様、今起きなければ遅刻になりますよ」
ビクッと体が震えた。別段やましいことがあるわけではないのだが、なぜか、この状況がとても不味いことのように思える。
「あら。仲がよろしいのですね」
「さ、サーヴァンさん。おはようございます」
「おはようございます、アクオス様。朝ですよ」
ほんのり微笑む美人な使用人。それだけであれば、前世の男たちから羨望の眼差しを突き立てられるような好状況なのだが、いかんせん、体に幼女を張り付けている状態である。
サーヴァンさんは、比較的若い使用人だ。僕の母よりも数歳若いと言えば、理解していただけるだろう。そのため、あまり政治的なことは理解していない。もちろん、最低限使用人として必要な知識は蓄えているが。
だが、この屋敷には、そこそこ年配の使用人もいる。貴族ほどの教育さえ受けていないが、元ある知識に加え、長年の使用人経験で培った政治的所見を有している者もいる。そういった人間にこれを見られた場合、非常にいたたまれない。
僕はティア様より身分が下である。その上、兄妹とはいえ、母が違えば政略結婚もあり得る時代。
これが6歳児の戯れと解釈されれば良いが、頭の堅いそういった使用人には、これがソリューシャ家の権威を貶める行為になると思わる可能性も、無いではないのである。
どうにか、これを外に漏らさないようにする必要がある。
「はい。それは分かっているのですが、ティア様を起こすのは忍びなくてですね」
「お気持ちはお察ししますが、ご自身の学業も大切になされてください。お父上の計らいによって、最良の教育を受けさせていただいているのですから」
「そうですね。反省します」
ティア様の体をそっと離し、ベッドから這い出る。ここらでサーヴァンさんに釘を刺しておこう。
「サーヴァンさん、このことは秘密にしておいていただけますか?」
「はい?」
「学業よりティア様を優先したとお父様に知られれば、怒られてしまうかもしれませんから」
「ふふ。そうですね。これも私の胸に秘めておきます」
「誰にも、ですよ。噂はどこから漏れるかわかりませんから」
「ええ。わかっております」
このくらい言っておけば、補講の件も合わせて、黙っておいてもらえるだろう。
補講の件は彼女の保身のため、今回の件は僕の保身のため。彼女からはそう映っているはずである。僕も彼女も父に秘密を抱える者同士と思ってもらえたなら好都合。打算的ではあるが、親近感も持ってもらえて、さらに漏らされにくくなるはずだ。
「それよりも、アクオス様、登校のお時間が迫っております」
「そうですね。急いで支度をします」
さて、色々と工作をしたせいで、もはや一分一秒を争うような時間となってしまった。
サーヴァンさんを部屋から追い出し、クローゼットを漁って着替える。
「くぁあ。お兄さま?」
「ティア様。おはようございます」
どうにか着替え終えたタイミングで、ティア様が目覚めた。しかし、あまり構ってあげられる時間はないのである。
「ティア様、ご自分で着替えられますね?」
「んぅ、はい」
「それでは、僕はお先に失礼します」
一礼をして部屋を出る、その一瞬で、ティア様の悲しげな表情が目に入った。餌を取り上げられた子犬のような、涙さえ滲むいたいけな表情である。僕の心臓は、罪悪感にぐっと掴まれた。
しかし、僕は振り返らない。ソリューシャ家の息子として、遅刻は大罪。それも、ティア様と遊んでいたからだと知れれば、部屋を同じくすることさえできなくなる。
長期的に見て、これは僕とティア様が共にいるため。
しかし、膨大な登校時間が恨めしい限りである。
というわけで、試しに走って登校してみた。
先んじて言っておくが、僕は運動が好きではない。理由は単純明快。研究ばかりでろくに運動をしていなかったせいである。
また、学生の頃も、理化学研究部に所属したのみで、運動という運動は体育の授業程度であった。当時の持久走の様など、推して知るべしである。
しかし、新しい生活を手に入れた現在。僕の体は、運動嫌いという点は変わらないものの、不得意ではなくなった。
というのも、ソリューシャ家の教育メソッドに、軍事訓練にも似た厳しいトレーニングが課されていたためである。おかげで運動嫌いは加速することとなったが、体力もつき、体を動かすセンスというものも、少しは身に付いた。
おかげさまで、徒歩一時間かかる登校が、なんと二十分も短縮されたのである。
ちなみにこの数値は、食後の苦しい腹具合も込みで算出されている。
タオルや食事を走った後にする等々、もう少し準備が必要な部分こそあるが、これで朝、ティア様との談笑の時間も取れるだろう。
意気揚々と、僕は学校の門をくぐった。




