12話 聖人君子の酔っぱらい
「ただいま戻りました」
下の服を清潔なものに履き替えて、屋敷に戻る頃には日も傾き始めていた。
というのも、僕が捕らえられていた廃墟は屋敷から反対方向へさらに進んだ郊外にあり、戻ってくるだけで一時間弱を要した。それに加えて、父が犯人を憲兵、こちらで言う警察のようなもの、に引き渡し、それに必要な手続きも合わさって、このような時間になったわけである。
正午頃、ティア様が屋台を我慢した手前、僕からねだるわけにもいかず、律儀に手続きを待ちつづけ、空腹は限界を通り越し、悟りの門を叩くほどになった。
「お兄さま! おかえりなさい!」
草臥れた様子を隠しもせず屋敷に入ると、玄関で待機でもしていたのか、ティア様が飛び出してきた。そのままの流れで僕を強く抱き締め、ぴょんぴょんと跳ね回る。
着替えておいてよかった。ティア様に臭素臭いなどと思われたときには、立ち直れないかもしれない。
「気がついたらお兄さまがいなくなっていて、本当に心配したんです! どこへ行っていたんですか?」
「あー、人混みの中に知人を見つけまして、話しかけようと追いかけたところ、お恥ずかしながら迷ってしまいました」
嘘である。見知らぬ人に気絶させられ、廃墟へ監禁されていた。そのまま伝えれば、ティア様に更なる心配をかけさせてしまう。それはあまり好ましくない。
「勝手な行動でご心配とご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございませんでした」
「いいですよ。お兄さまは戻ってきてくれましたから。でも、次からは私もつれていってください」
それは全力でお断りさせていただきたい。
「お兄さまが帰ってきましたから、お義母さま、ご飯にしませんか?」
「ええ、そうですね。詳しい事情は後で聞かせてもらうとして、先にご飯にしましょう」
「お前たち、まさか昼から何も食べていないのか?」
「ティア様がどうしてもとおっしゃって」
ティア様が。なぜだろう。何か用事でもあったのだろうか。それにしたって、母まで縛る必要はないはずである。
「はい。食事は家族みんなで一緒がいいんです」
まさに聖人である。それだけの理由で、五時間余り空腹に耐え続けたのだから。それも、まだ自制心の育ちきらない6歳児である。表彰でもされてはどうだろうか。
現実的な話をすれば、ティア様は去年までの数年間、独りぼっちでご飯を食べていたのである。その反動と考えるのが妥当であろう。ちなみに、去年からは僕がたまにご一緒していたが。
「なあ、ティアーユ。家族じゃなくてアクオスと、だろう?」
「そ、そんなことは、ないですよ?」
父が言うことはもっともである。普段、父は食事の場にいない。そこで急に家族というのは少々虫が良いというか。
「私お腹ぺこぺこです」
「ティアーユ...」
平時は威厳のある父だが、娘に仲間外れにされたとあっては形無しであった。
昼食を通り越し、夕食となった食事の後。僕と父、そしてティア様は、屋敷一階の大広間に集まっていた。
「ティアーユ。今からお前に能力の使い方を教える。ランクからもわかる通り、お前の力は便利だ。だが、それだけ危険な力でもある。心して使うように」
「はい。お父さま」
僕に教えたように、父はティア様に能力の発動方法を指示し始めた。
そして、ものの数分後。
「よし。それで良い」
「これで能力が使えるんですか?」
「ああ。加えて、ランクの高い能力になればなるほど、活性化状態で身体能力まで向上する。行儀は悪いが、試しにアクオスと競争してみろ」
「お父様、僕は運動はあまり」
「つべこべ言わずやってみろ。勝つ必要はない」
不承不承ながら、ティア様と横一線に並ぶ。
「では。始め!」
二人一斉に駆け出した。広間の隅から隅まで、ほぼ同着である。
僕は全力で走った。走り終えた後も、ぜえぜえと肩で息をしている。それに対してティア様は、全力ではあったものの、まだまだ体力に余裕がある様子。
「お兄さまと同じ速さで走れるなんて、驚きです」
もともとティア様は、こう言ってはなんだが、引きこもりであった。それにはれっきとした事情があるのだが、身体能力だけを見れば、それ相応のものであったはずなのだ。少なくとも、屋敷の中を歩き回って過ごしていた僕よりは体力も少ないはずである。
「これがランクの差だ。理不尽なものだろう」
まったくである。
「さて、今度は能力を発動してみろ。そうだな、この木の棒を切断するんだ」
父が取り出したのは、直径十センチほどの薪である。ティア様の腕力では、斧を使おうが絶対に割れることのない代物。
しかし、能力というのは不条理なものである。
ティア様が手を翳した薪は綺麗な平面を作り、真っ二つに割れてしまった。手品でも見せられている気分である。
「次は接合だ。やってみろ」
「はい」
再びティア様が手を翳す。すると、まるで逆再生のように薪が元に戻った。一切の継ぎ目なく。叩いてみるが、外れるような気配もなければ、先程まで切断されていたのが嘘のようであった。
ティア様から受け取った薪を眺めて感心していると、そのティア様の体が揺らいだ。慌てて抱き留める。
「ティア様。大丈夫ですか?」
「大丈夫、です」
「お父様、これはいったい」
「ランクが高い能力は、それだけ反動も大きい。もう少し耐えられるかと思ったが、今のティアーユではこれが限界か」
「気持ち悪い、です」
「お前たちは馬車に乗ったことがないからわからんだろうが、あれに乗って酔ったときと同じような感覚だ。これでわかっただろうが、能力は節度をもって使うようにしろ」
「はい。お父さま」
「まあ、アクオスの場合は心配いらないだろうが」
「ランクが低いというのは便利ですね」
「はは。便利か。やはり面白い子だな」
率直な感想を述べたまでである。僕は乗り物に強い方だったが、酔ったときの気持ち悪さは覚えている。どれだけ能力を使おうとあれが来ないと言われれば、安堵もするだろう。
ティア様がえづき始めたので、父は彼女を抱えて僕たちの部屋へ戻った。
言い忘れていたが、ティア様が退院した昨日から、僕たちは同室で過ごしている。もちろん、ベッドは別々に用意してあるが。零歳の頃のようにはいかない。
父はティア様を彼女のベッドに横たわらせて、出ていってしまった。
「吐きそうになったらいつでも言ってください。袋を用意しておきます」
「ありがとう、ございます」
どう見ても顔色が悪い。気休めにしかならないと思うが、ここは一つ、工夫をしてみよう。
能力を発動する。生み出す液体は、誰もが知っている炭酸水である。水と二酸化炭素、それから甘味を加えるため、少しだけ砂糖も混ぜておく。
「ティア様、これをお飲みください」
「だ、大丈夫ですか? しゅわしゅわしていますけど」
「大丈夫です。僕を信じてください」
体を起こしたティア様を支え、口元に炭酸水、というよりサイダーの入ったグラスを近づける。
炭酸の泡が胃を刺激し、吐き気を抑えてくれるという噂である。プラシーボ効果が働いているのかもしれないが。
「甘くて、口の中で弾けて、すごく面白いです」
「それだけではありません。気持ち悪くなったとき、それを和らげる効能もありますから」
「そうなんですか。やっぱりお兄さまはすごいです」
いたいけな少女を騙しているようで、罪悪感を感じる。
「それからティア様、手を出してください」
「はい? こうですか?」
「そうです。少し圧迫しますから、痛ければ言ってください」
おまけに、酔い止めに効くツボを押す。これまた信憑性はあまりないが、酔いやすい妻のため調べた方法にはこれがあった。妻いわく、効果はあったというので、ティア様にも試してみる。
「どうですか?」
「...えへへ。気持ちいいです」
「そうですか。それは良かったです」
サイダーをコップ一杯飲み終えたティア様は、再び横になった。無論、僕は手を揉んだままである。
ティア様は、マッサージをする僕の顔を、まるで暖かい日だまりにいるような、とろんとした優しい表情で見つめていた。
「このまま、寝てしまいそうです」
「構いませんよ。酔いを忘れるには寝ることが一番です」
僕からも微笑みを返し、少しずつ下がるティア様の目蓋を見つめていた。
「ティア様」
声をかけてみるが、反応はない。寝てしまったようだ。
もう夜も更けてきた。僕も眠りにつくとしよう。
そう考えて自分のベッドへ向かおうとしたのだが。
マッサージしていた手が、逆にティア様から握られている。無理矢理振りほどくこともできたが、どうもそれをしてしまうと、幸せそうな彼女の寝顔が崩れてしまいそうで、できなかった。
だがそうすると、僕は寝られないことになる。それはまずい。
徹夜なら前世で数えきれないほど敢行してきたが、6歳児には毒が過ぎる。
かくなる上は。
僕は意を決してティア様のシーツに潜り込んだ。
きっとティア様なら許してくれる。そう願って。




