11話 化学者の楽観
僕は今、王都のどこかにいる。
なぜこれほど曖昧な表現になっているかというと、当然、ここがどこかわからないからである。
どうしてこうなってしまったのか。まずはそれを解説しようと思う。
まず、僕たちは学校から帰宅するべく、大通りを歩いていた。そこら中に屋台が出店し、魅力的な香りをこれでもかと撒き散らしている。
くきゅぅ。
「あ」
お腹と口から声を漏らしたのはティア様である。幸いなことに、側にいる僕たちがようやく聞こえるくらいの小さな音であったのだが、6歳児とはいえティア様も乙女。羞恥の色が耳元まで表れていた。
「お父様、何か買って差し上げてはいかがですか」
「い、いいえっ。結構ですっ。私は全然お腹なんて空いていませんからっ」
ここだけの話、真っ赤になって慌てるティア様は、映像として記録に残しておきたいほど庇護欲をそそった。
「はは。そうだな。屋敷に戻れば、昼食が用意されている。そこまでの辛抱だ。それとも、アクオスの方が我慢できないか?」
「いいえ。そのようなことはございません」
自制心は紳士の嗜みである。
そんな会話をして、父とティア様が僕に背を向けて、再び歩き出した瞬間。
僕は、何者かに腕を思いきり引かれ、後ろへ倒れこんだ。打ち所が悪かったのか、僕の意識はそこで途絶えてしまった。
しばらくして、僕の意識が戻ると、今のような状態。
つまり、謎の廃屋の中で、手を椅子に縛り付けられている状態なのである。
いったいどうしたものか。周囲には今誰もいないが、十中八九、これは犯罪に巻き込まれている。
ついに、僕がこの世界で恐れていたことが起きてしまった。
この国の王都は、相対的に見て、治安が良い方である。とはいえ、それはこの国の中での話で、日本なんかと比べてしまえば、雲泥の差である。
防犯カメラなどあるはずがないし、貴族が多く集まる中央はまだしも、郊外になればスラムが形成されている。そして、この授職の儀の日には、貴族のカモ、もとい客に集るため、郊外の人々がやってくるわけだ。混雑を極めた状態となった王都は、誘拐等、犯罪の温床となるわけである。
そんな呑気に解説をしている場合ではない。僕は誘拐されているのである。犯人がいつ戻ってくるかも知れないので、早いうちに脱出を試みるとしよう。なに、失敗しても、殺されるということはないだろう。僕は人質なのだ。
手首にある感触から、僕の手を椅子に縛り付けているのは、何かのロープである。幸い、そこまでキツく縛られているわけではない。が、6歳児の腕力でどうにかなるはずもなく、自力で脱出するのは困難である。
というわけで、能力を使うことにした。活性化状態へ移行し、生み出す液体に集中する。
今回行うのは、極めて原始的な方法だ。能力により、鉱油、つまりは潤滑油を生成し、脱出を試みるのである。
そこで気がついたのだが、能力を発動する場所は、掌に限らないらしい。全身のうち、集中する箇所を変えれば、生成地点もそこへ移行するようだ。
これ幸いとばかりに、手首へ真っ黒な鉱油を垂れ流し、思いきりもがく。外れろ外れろと祈りながら。
しかし現実はそう甘くない。手首から先がドロドロになっただけで、一向にすっぽ抜ける気配はなかった。
こうなれば最終手段である。母から貰ったこの体を傷つけたくはなかったのだが、誘拐犯から逃亡するために已む無しである。
次に生成したのは、ヒドラジンと呼ばれる物質である。自然発火する性質をもつ液体であり、ロープに染み込んだ鉱油に点火しようというわけである。
まず間違いなく火傷を負う。が、やはり背に腹は代えられない。
迷いなくヒドラジンを生成した。ほどなくして発火したわけだが、どういうわけか、熱くもなんともない。
しばらくして、手に自由が戻り、着火したロープを再度目で確認すると、確かに燃えている。
意を決して炎に触れてみると、やはり熱くない。
意味がわからない奇怪な現象だが、好都合だ。無傷で脱出出来るとは思わなかったので、幸運ここに極まれりである。
さあ脱出だ。廃墟の中を駆け出したわけだが、僕の幸運はそこまでだったらしい。
部屋を抜け出し、廊下に出たまでは良かった。まさかその曲がり角で、犯人とおぼしき黒マスクと鉢合わせることさえなければ。
誘拐された廃墟の廊下で、僕は犯人と鉢合わせた。
「あああああ!」
叫んだのは犯人の方だった。それはもう、クリスマスに家で取り残され、泥棒に出会った某少年の如く。
しかし、さすがに犯行を企てるだけあって、すぐに持ち直し、反対方向に逃げた僕を、不思議な力が縫い止めた。おそらくは、彼の魔法であろう。
非力な僕は、彼の魔法になされるがまま、彼の胸元へ抱えられた。
一応暴れてみるが、びくともしない。
「縄が外れたのか? くそ。だからもう少しキツく縛っておけと言ったんだ」
今の彼の発言から、グループによる犯行であることがわかった。当然といえば当然である。誘拐だけする馬鹿はいない。身代金の要求が必要である。とあれば、見張りと交渉、少なくとも二人は必要なのだ。
「暴れるなよ。お前は人質なんだ。立場をわきまえろ」
「人質ですから、殺しはしませんよね」
「ははは。面白い坊主だ。逃げ出そうとするだけのことはある。だがな、俺たちはお前が死にさえしなけりゃあそれでいい。お前の親から金を踏んだくってやれればそれでいいのさ。お前の体がどれだけ傷つこうと知ったことじゃない」
そう言って男は刃物を取り出した。お世辞にも切れ味が良いとは言えない、使い古された出刃包丁である。とはいえ刃物は刃物。6歳児の柔肌を割くのは容易いだろう。
「どれ。逃げられないように足でも切り落としてやるか」
「そうすれば、僕は失血死しますよ」
「なんでそんなに冷静なんだお前」
それはそうである。彼が僕を抱えた時点で、僕はいくらでも彼を傷つけられるのだから。
「あ? なんか濡れて」
男が下を確認した。ちょうど僕の真下には、赤褐色の小さな水溜まりができている。
「お前まさか、そんな強気な発言をしておいて、漏らしたのか? はっはっは! やっぱり子供は子供か! びびってチビりやがった!」
そんなわけはない。96歳にもなって、体が言うことを聞かないというわけでもないのに、お漏らしはいくらなんでも恥ずかしい。
あらかじめ能力を発動し、バレにくいよう、下半身からある液体を垂れ流していたのだ。
尚、この作戦は、僕の作り出した液体が僕自身には影響を及ぼさないという仮定の元で行っている。一応、息を止めているが、それもいつまで持つかわからない。
そもそも、皮膚をこの液体で濡らした時点で、本来なら化学火傷のオンパレードになるのだから、今更である。
「それにしてもお前のはくせえなあ。何食ったらこうなるんだ?」
当然である。これは尿ではない。そんなものとは比較にならないほど危険な物質、臭素である。
臭素というのは、唯一、常温で液体の非金属元素である。その性質は劇物で、液体に触れれば即座に化学火傷を起こす。また、蒸発しやすい性質を持ち、その気体は言うまでもなく猛毒である。
男が僕を放し、もがき始めた。窒息の症状が出始めたのである。僕の足元にある臭素だまりから、気体の臭素が供給され続けるので、いずれ失神するだろう。死ぬか否かは彼の運次第だ。
さて、一人撃退したところで、逃走を続けさせてもらうとしよう。
確認してわかったが、案の定、僕の体は臭素の影響を受けていない。毒蛇が自分の毒では死なないように、と言えば道理に合っているような気はするが、めちゃくちゃである。こんな能力の時点で今更だが。
しばらく走り続けたところ、廃墟の外に出た。意識を失っている間に、随分遠くへ連れてこられたらしい。周囲は森林で、都市の面影はどこにもない。
どうしたものか。方向感覚だとか以前の問題である。ここがどこだかさっぱりわからない。
まあいい。僕を人質に捕らえたのだ。彼の仲間が、きっと父を呼んでくれるに違いない。彼はああ見えて、息子である僕を溺愛している。決して見放すことはないだろう。
今のうちに、臭素つきのズボンを洗っておこう。洗うというより、臭素を薄めるわけだが。今このズボンは、僕以外が履けば拷問器具なのである。
当たり前ながら、服を臭素に浸した経験などないわけで、どれくらい薄めれば良いのか、履けるのかも定かではない。
安全面を考えれば、まず間違いなく履いてはいけないわけだが、下半身を露出して街を行くわけにもいくまい。
そうこうしているうちに、獣道から物音と話し声がし始めた。一応、洗ってびしょ濡れのズボンを履いておく。
不思議なことに、薄めるために生み出した水も僕の能力で作り出したものであり、僕の感覚としてはサラサラである。端から見ればピッチリ張り付いているのだが。
「本当にアクオスはいるのだろうな」
「本当だぜ。今ごろ椅子に縛り付けられて、ピイピイ泣いて...」
目が合った。
「あああああ!」
本日二度目の叫び声である。どいつもこいつも人を泥棒みたいに。
「アクオス!」
「お父様。助かりました。道がわからず困っていたのです」
冗談めかして、にこやかに応対する。父は安堵を通り越し、呆れた様子で肩を竦めた。
「お、お前! 兄貴はどうした!」
「そこの中で伸びていますよ。死ぬかもしれませんが、僕の知ったことではありません」
誘拐犯の相棒は、度肝を抜かれているようだった。それはそうだ。6歳児に大の大人が倒されたとなれば、誰もが驚く。驚かないのは、そこで苦笑している父くらいなものだ。
「くそぉお!」
襟首を捕まれる感覚。恐らくだが、誘拐犯B(仮名)の魔法だ。
僕はそのまま宙へ浮き、またもや抱えられることとなった。小さなナイフが僕の眼前に差し向けられている。僕の人質としての役目はまだ終わっていなかったらしい。
「こいつの命が惜しければ、金を置いていけ!」
さて、どうしたものか。もう一度臭素を使っても良いが、父にまで危害が及ぶ。それは避けたいところだ。
ひとまず、凶器をどうにかしよう。ちなみに凶器は、ナイフと称するにふさわしく、刃渡りが僕の両手分程度である。これならば、問題はあるまい。
「お前! 動くな!」
お断りである。能力を発動し、ナイフの上に手を添えた。生成する液体は、単純明快、濃塩酸である。超高純度の鉄ならともかく、粗い鉄を溶かすのならこれが安定択だろう。
シュワシュワと音を立てて、ナイフが溶け始める。
「おい! 聞いているのか!」
「あと5分くらい待ってもらえますか?」
「ふざけるな!」
さすがに待ってはもらえず、ナイフを手の届く範囲から離されてしまった。とはいえ、さすがは濃塩酸。
「調子に乗りやがって! 痛い目を見てもらおうか!」
短い時間といえど、ナイフをなまくらにするくらいは造作もなかったようだ。
僕の頬に突き立てられた元凶器は、ぷにぷにと僕の肌を押すだけである。
「な、なんだこれ!」
当然ながら、犯人は動揺。そこで僕は父にサムズアップをした。
すなわち、これでもう安全ですから、ボコボコにしてあげてください。と。
僕のサインを読み取った父は、魔法を用いて僕を犯人から引き離した。
「あっ! こらてめぇ!」
「ありがとうございます、お父様」
「まったく無茶をするものだ。一人で誘拐犯に立ち向かうなど」
「この程度は赤子の手を捻るようなものです」
実年齢の差を考えても、その諺がしっくりくる。
父は僕を取り戻すと、一歩前に出た。
「さて。よくも俺の息子を拐ってくれたな」
「う、うるせえ! 食らえ!」
男が魔法を放とうと、掌をこちらに向けた。
しかし、その魔法が発動することはなく、代わりに彼は、破裂音と共に吹っ飛び、木に背中を打ち付けた。
「がはっ!」
今のは何だ。一瞬にして人が飛ばされるなど、こんな魔法は見たことがない。
「ふぅ。スッキリしたな」
「お、お父様。今のは」
「はは。秘密だ」
父の謎が、また一つ増えた。
「帰るぞ、アクオス。腹が減ったろう」
思えば、空腹が限界を迎えている。正午はとっくに過ぎており、今は、太陽の位置から察するに三時頃。おやつ時であった。
帰って食事を摂りたいという気持ちは十分にあるのだが、ひとまず。
「その前にお父様」
「何だ?」
「ズボンを購入していただけませんか?」
実験に後片付けはつきものである。




