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1話 とある化学者の今際の際

 僕の人生は、これといった起伏もなく、恵まれている自覚こそあったものの、平々凡々としたものだった。


 そこそこ裕福な家庭に生まれ、生活に窮したことはなく、三人兄弟の末っ子ということで、親の愛情もたっぷりと注がれた自覚がある。二人の兄も、年が離れていたこともあり、喧嘩もほとんど無く、彼らが就職して家を出るまでは、そこそこ可愛がられていた。


 さて、良家に生まれたお利口さんとして幼い頃を過ごしていた僕は、高校生の頃に化学へ興味を持ち、その道を志した。


 滞りなく高校を卒業、進学し、博士号を取得した後、助教、講師、准教授を経て、研究の成果が認められて夢の大学教授へ。


 ちょうどその頃。お付きあいをしていた女性と結婚式を挙げた。あまり褒められたことではないだろうが、相手方の女性は元生徒である。僕の方から迫った訳では断じてない。


 けれども、優秀だ有能だと持て囃された順風満帆な人生もここまでで、それからの僕の研究は空振り続きだった。


 もっとも、それで僕の人生が極貧に落ちぶれたかといえば、そういうわけでもなく、幸いにも教育に関する実績は認められ、教授のポストを定年まで保持し続けた。


 退職した後、行き詰まり続けた研究に対する意欲は失われたが、教職の喜びは忘れられず、時折公民館を貸しきっては、子供向けの化学実験を行ったりもした。


 そのときの子供たちのキラキラした表情と言ったら、僕の人生で一二を争う幸福な光景である。僕と妻の間で子供は設けないと決めていたから、尚更そう見えたのかもしれないが。


 そして、こんな独白を続ける僕は、今や九十年を生き抜こうとしている。


 死期が近いことは、なんとなく察していた。


「川田さん」


 看護師が僕の名を呼ぶ。


「奥さんがお見えですよ」

「ああ。ありがとう。通してやってください」


 妻は入院する僕を毎日訪れてくれる。夫婦間の年の差が一般より大きいとはいえ、彼女ももう結構な歳だ。家事をこなすだけでも十分負担だろうから、来なくとも良いと言っているのだが、来たいと言って聞かない。


「先生。今日は調子、どうですか」

「あまり良いとは言えないがね。それよりも、先生呼びの方が問題だな」

「ふふ。良いじゃありませんか」

「どこからどう見ても、先生と生徒という年ではないだろう」


 偶然の一致か、それとも夫婦の絆故か、私が過去を懐かしんでいたのと同じように、彼女もまた、学生時代を思い返していたのだろう。


「あら。お薬が増えてますね」

「そうらしいな」

「あなた、他人事ではいけませんよ。きちんとお医者さんの言うことを聞かないと。インフォームドコンセントが何とかって、この頃ニュースで見ますから」

「む」


 元教え子に諭されてしまった。結婚生活数十年、こんなことにももう慣れてしまったが。


「わかった。では薬の組成から教えてくれないか」

「うふふ。はいはい。今看護師さんに聞いてきますね」


 研究こそやめてしまったものの、僕はまだ化学が好きだ。病院にいてさえ、化学雑誌を購読する程に。最近は新しい物質も発見されているから、ボケ防止にも丁度良い。はてさて、今の薬学に僕がついていけるかどうか。


「おや。雨か」


 確か、先日梅雨入りしたと妻から聞かされていたはずだ。


 静かな病院に、雨の音が響く。


 この音が、僕は好きだ。


「あなた。ちゃんと聞いてきましたよ」


 妻が戻ってきた。僕を愛してくれる妻。頭の堅い僕と幾度となく衝突を繰り返し、その度に僕を受け入れてくれた、最愛の恩人。


 その優しい笑顔は、いつも僕を安心させてくれた。研究が頓挫し、折れそうになった僕の心を支えてくれた。


 その笑顔の前で、唐突に、僕は体から力が抜けていくのを感じた。


「あなた?」


 ああ。これが死という感覚か。


 九十年続いてきた命が、呆気ないものだ。


 掠れた声で、最期の力を振り絞り、呆然と立ち尽くす妻へ別れを述べる。


「さようなら、だ」


 こうして僕は、穏やかに一度目の人生を終えた。

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