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第98話 彼女がしなかったこと

「アリア」


 名を呼ばれて、びくりと肩を跳ねさせる。

 アリア・ヴィクトリアは今、懇意にしている娼館の一室で布団にくるまっていた。

 目をつぶっていたが、眠ってはいない。

 すぐそこに迫っているかもしれない命の終わりに、震えていたのだ。


「……アリア」

「だ、ッ。……誰?」


 弱々しく尋ねる。今の彼女に救いの手を差し伸べる可能性があるのは、この世界でたった一人しかいない。

 そうであってくれと願いながら目を向けると、――その、たった一人の人間が窓を叩いていた。


「に、兄さんっ」


 悲鳴のような歓声を上げて、アリアは慎重に窓を開いた。

 カークは昨日と違って、完全に武装している。彼は細身の身体にぴったりとあつらえられた竜の鎧を身にまとっていて、アリアですら女性的な色気を感じられた。


「無事か」


 カークはわざわざ籠手を取り外してまで、アリアをぽんと撫でる。


「兄さん、兄さん、おにいちゃん!」


 アリアはごつごつして痛くなることがわかっていても気にせず、兄を鎧ごと抱きしめ、その唇と頬に何度も口づけた。


「ごめんなさい……っ。ごめんなさいっ! わ、わ、私……」

「わかっている」


 幼少の頃から、兄は感情を表に出さない。実の妹であるアリアですらこの人の考えが読めないところがある。

 だからこそ、……孤立無援のアリアにとって、この助けがどれほど身にしみるものであったか。


「しかし状況はかなりマズい。――”蟲使い”が裏切っていた」

「タローが?」

「ああ。――お陰で俺も今、首輪で繋がれている状況だ。裏切りが判明したら即座に首を撥ねられるだろう」

「そ……そんな……っ」


 あのニホン人に対する憎悪で腸が煮えくりかえる。


「一つ、――タローから提案があった。……お前が一晩、奴のものになるなら、取り調べの際に口添えしてもいい、と」

「――ッ! そ、それは……!」


 背筋が寒くなる。

 外国人と寝るなど、純血思想に凝り固まった彼女にしてみれば、死よりも辛いことだった。

 種をもらうなら、最低でも同じ国、同じ人種で、――それもとびきり優秀な人間でなくてはならぬ。孤児とはいえ、身分が保障されているアル・アームズマンに近づいたのもそれが理由だ。


「兄さんは……それを了承したの?」

「糞食らえ、と言ってやった」

「やったー! かっこいい!」


 カークは話しながらも、自身の装備の一部を取り外し、身体のあちこちに仕込んでいた”暗器”を部屋のテーブルに並べていく。その一つ一つが、アリアの生存する可能性を高めることに特化した”マジック・アイテム”ばかりだ。

 公務に使うものは管理が徹底されているから、恐らく兄がもしもの時のため買い集めておいたものだろう。


「”フリー・ジャンパー”なら使い方はわかっているな?」


 頷くと、


「状況を簡潔に伝えておく。――今からどうやら、大規模な戦闘が始まるらしい。その機に乗じて街を去れ。南東の抜け道は覚えているな?」

「う、うん……」

来夢(ラム)が万事手はずを整えてくれているはずだ。彼女を頼り、船でバルニバービへ抜けろ」

「兄さんは?」

「俺はここに残る」

「…………………」


 一瞬、「それなら私も」という言葉が出かける。

 だが彼女の誇りと、それまで払ってきた犠牲がそれを許さなかった。末席とは言え”王”の血族である者にとってのタブーは、血を絶やすこと、そして異種の穢れた血を受け入れないこと、この二点の比重が大きい。


「まだここで、借りを返さにゃならん相手がいる」

「それって……」


 アリアはその男の名前を知っている。だが、それを呼ぶわけにはいかない。強力な魔法使いは時折、自分の名前を術の発動条件にすることがあるためだ。


「灰色のローブ持ってきたんだ。……これで顔を隠し、いったん屋根に上がるぞ」

「ちょっと待って。兄さん」


 アリアは兄の腰に手を回して、


「今から、昔みたいに一緒にお風呂、入れないかな」


 これは彼らにとって、これっぽっちも変なことではない。祖父のカリギュラ・ヴィクトリアは、実妹三人と関係を持っていたとされている。純血主義と近親相姦は常に隣り合わせにあるものだ。


「そんな時間はない」


 カークは冷静だった。人混みに紛れれば実の妹ですすら見失ってしまうほどに印象の薄い青年は、とうの昔に覚悟を固めている。


「もう、会えないのですか?」

「恐らく。……もし生きていたら、ラピュータで会おう」


 そしてこの兄妹は、葬儀のように深刻な顔で窓からそっと娼館の屋根にでた。

 壁に溶け込む色のローブを身にまとい、アリアは周囲に視線を凝らす。よくみると、”のみ(フリー)”を思わせる跳躍力で”探索者”たちが跳ねているのが見える。これならさほど目立たず移動することができるだろう。


「では。達者でな」


 カークはそう言って、自分の分の”フリー・ジャンパー”を起動。

 子供の頃からそうであるように素っ気なく、――煙のようにアリアの前から消え去った。

 彼が消えていく方向を見上げて、……アリアは息を呑む。


 恐らくは数百匹ほどのワイバーンの群れが、グラブダブドリップの北方から襲来しているのが見えたためだ。


――この街はもう終わりね。


 アリア・ヴィクトリアはそれっきり、一時は本気で想いを寄せていたアルのこと、――そして、あの奇妙なニホン人のことを忘れて、背を向けるのだった。



 ここでいったん、アリア・ヴィクトリアは、この物語から退場することになる。

 彼女は親友のニホン人、犬神(いぬがみ)来夢(らむ)の手を借りて、無事バルニバービまでの便に乗ることができるだろう。


 だが、このとき彼女がした、――いや、正確に言うと、()()()()()()()がこの事件に大きな影響を残すことになる。


 王族の末席に名を連ねるアリア・ヴィクトリアは、すでに気がついていた。

 ”王”の血族の者たちに伝わる、――世界の管理人の存在。

 坂本京太郎の正体に。

 彼が異世界人であることに。

 そして彼が、――決して悪しき者ではないことに。


 彼女であれば、それを兄に、兄からアル・アームズマンに伝えることもできただろう。


 だが何故だか、彼女はそれをしなかった。

 理由は自分でもよくわかっていない。

 たぶん一生わからないに違いなかった。


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