第90話 失踪
「ん……んがっ!?」
慌てて起き上がる。
二日酔い……になるほど飲んだわけではないが、半端に寝た所為で少し頭が痛い。
とはいえ、異世界に行けば活力剤がある。癖になると良くないが、今日くらいあれに頼っても良いかも知れない。
……と、京太郎はそこで、自分の小指に”命の指輪”が嵌まったままでいることに気付いた。試しにそれをぺろぺろ嘗めてみたが、何の効果も現れない。
――何やってんだ。我ながら。
京太郎は寝ぼけた頭をしゃっきりするため、エロティックなシルエットが外からでもはっきりと分かる仕様のシャワー室に向かう。
見ると、すでにシャワー室は使われた跡があった。恐らくウェパルだろう。
――あんな美人が……さっきまでここにいたんだよな。
そう考えるとなんだかヘンな気分が湧き上がってきたが、そこで性欲を爆発させるには若さと気力が足りていない。
――ウェパルは……先に帰ったのか。
さすがに同衾するのはマズいと思ったのかも知れない。下ネタをよく口にするくせに、ずいぶんと身持ちの堅いことだ。
まず身体を清めた京太郎は、時間的にまだ余裕があることを確認して、ホテルを出る。
延長料金を払おうとフロントに立ち寄ると、
「ああ、それであれば一晩分、お代いただいております」
この世界には夢も希望もない、といった具合に暗い表情の老婆がそう応えた。
「そうだったのか。……彼女、いつの間に出たの?」
「たしか終電の時刻だったかと」
「ふむ」
起こしてくれても良かったのに。
あるいは彼女もまた、京太郎と同じように急ぎの仕事があったのかもしれない。
「ありがとう。私も出ます」
「しかし、お代は返金できかねますが」
「構わない」
京太郎は早口で言って、きっと惨めな男に見えているだろうと思いながらホテルを出た。
時計を見る。西武池袋線の始発は五時。コレに乗っても十分間に合うが、なんとなく気が急いたためタクシーを捕まえ、とりあえず自宅までの案内を頼んだ。
よく知らない、落ち着いた曲調のクラシックを流すラジオ番組を聴きながら、自宅へ着いたころには深夜料金で二千円ほど取られていて、京太郎は重い気分に浸りながら自宅の鍵を回した。
いちいち着替える必要はないが、身だしなみを整えるのは京太郎にとってある種の儀式のようなものと言って良い。これをしないと落ち着かないのだ。
ヒゲを剃り、新しいシャツに着替え、昨日とは違うデザインのネクタイを締める。
朝食は抜きにして、京太郎は足早に会社へと向かった。
会社から歩いて数分の距離にいるということがいかに便利か。なぜみんなそういう風にしないのか疑問だ。京太郎はあっという間に例のボロビルに到着し、”(株)金の盾異界管理サービス”のオフィスをくぐる。
鍵は掛かっていなかった。
京太郎はウェパルの姿を探したが、やはりどこにもいない。
彼女は会社で暮らしていると言っていたが、どこで暮らしているかは判然としない。恐らく会社の奥の方に居住スペースがあるのだろうが、なんとなく気が引けてそこまで入っていったことは一度もなかった。
――まあ、昨日の件の支払いは後でいいか。
京太郎は自分の席の『ルールブック』を取り、ウェパルの机から金庫を引っ張り出す。
「ええと……”191955”だったかな」
慣れたもので、自分の分の《ゲート・キー》を確保。
時計を見ると、ちょうど五時半。イレギュラーな状況下においても一分も遅刻しなかった自分の有能さにしびれながら、いつもの通り異世界への扉を開く。
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扉の先は、昨日と変わらぬシムの部屋だ。
「シム、――いるかい?」
尋ねるが、反応はない。似たようなことが昨夜もあったなと思いながら、室内を歩き回る。
そこにあるのは、昨日生み出した”お菓子ガチャ”が一台。そしてその上に”真相新聞”が載っかっているだけだ。
――あれ?
いつものシムであれば、約束の時間には仔犬のように尻尾を振って待ち受けているのに
何か、予定外のことが起こったのだろうか。
京太郎は部屋の窓に向かい、街を見下ろす。夜明け前のグラブダブドリップを見たのは、その時が初めてだった。
”冒険者の宿”の前には、すでに馬車が二台ほど止まっている。目をこらすとそこに、見慣れたシムの茶髪があるのがわかる。
――先に行ってくれてるのか。
予定より早く”勇者”が来たとか、そういうことだろうか。
そして視線を建物の周囲に向けて、
――ん?
ようやく、異常な事態が発生していることに気付く。
以前、ケセラとバサラに案内してもらったこともあるグラブダブドリップ正門の当たりから、幾筋もの煙が上がっているのが見えたのだ。
――なんだ? 火事でも起こったのか?
京太郎は慌てて”真相新聞”を手に取る。
同時に、ぎょっとした。
そこに書かれている文字は、
『”勇者”、襲撃さる。』
という見出し。それはまだいい。
いつもならその横に添えられているのは、もう少しお堅い文体の内容であったはずだ。だが今日は違う。
『おはよう、坂本京太郎くん。
君と、君の仲間に危険が迫っている。
急いだ方がいい。』
たったそれだけの一文が、メッセージめいて書かれているだけだった。
「……………むう」
背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、京太郎は唇をへの字にする。
眠気は完全に吹き飛んでいた。何かの異常事態が起こっていることは間違いない。
そんなとき、ふいに部屋をノックする音が響いたものだから、びくんと肩が跳ねた。
「…………誰だ?」
京太郎が、扉に向けて尋ねる。その先には――意外な顔が。
目深に被ったフードのような帽子を被り、煙突の掃除人を思わせる薄汚れた作業着を身にまとっているため、前回会った時とはかなりイメージが変わっているが、――その純白の肌は見間違えようがない。
「よォ、旦那!」
「サイモンか」
驚いていると、サイモンは嬉しそうに京太郎の手を取り、ぶんぶんと上下に振る。
「おっす、ごぶさた!」
「あれから一週間くらいか? ごぶさたってほどでもないけど」
「こまけーこと気にすんなって! こちとら、百年くらい経った気分だってんだ!」
明るく言うサイモンに、どうやら少なくとも敵意がないことを察する。
「あれから俺の人生も上向き始めててよォ……何もかも、旦那たちと出会ってからさ! あんたらひょっとすると、幸運の女神サマなんじゃねーかって……」
「私? 私が何かしてやったか?」
「信じらんねえ! もう忘れちまったのか! あんた、俺の潰れた目、あっさり治しちまったんだぞ。お陰で女は寄りつくようになるわ、喧嘩の腕は上がるわで良いことづくめ……マジで覚えてない?」
「ああー……」
そんなこともあったな。出会い頭にさくっと癒やしてやったものだから、ほとんど記憶に残っていなかった。
「ま、それはいいや。君は何をしに来た? シムは?」
「おっと! そーだったな。旦那がナニしてたか知らねェが、あのシムってえ小僧がこの時間じゃねえとアンタが相手してくれねぇっつってたからさ。小僧の代わりに、俺が呼びに来たってわけ」
「なるほど」
話しながら二人は部屋を出て、階下へ向かう。
「その分じゃ、こっちで良い仕事にありつけたってとこかい?」
「そうだよ。――この”探索者”っての、思ったより俺の肌に合っててな。うめーこと組合の上層部にコネできて飛び級、今や茶帯よ」
「なんだって……茶帯?」
追い抜かれとるやないかい。日々の仕事の手を抜いているつもりはないのだが。
やはり世の中はコネクションなのか。
「ってか、そんなのどーでも良いんだよ。旦那たちいま、ちょいとマズい状況だってこと、わかってるか?」
「え」
「やっぱ知らねえんだな。――あの一ツ目の巨人に隕石を叩ッ付けた嬢ちゃん、いるだろ?」
「ステラのことかい」
「ああ。――なんでもあの娘、今朝から行方知れずなんだってさ」
京太郎が足を止めた。
「……なんだって?」
「まあ、それだけなら仕事バックレたってだけで済む話かもしれんがな。時期を同じくして、――さっき街に着いたリカ・アームズマンが襲われたんだってさ。……それもその時使われたのは、よりによって”星落とし”の術だ」
「……そうか」
「言っとくけど、この情報売ったのは俺じゃねえぜ。組合に報告書が上がってて、”星落とし”が使えるのはこの街で、あの嬢ちゃんだけってことで確定しちまったらしい」
京太郎は、眉を思い切りしかめる。
「”勇者狩り”の正体は、――あの嬢ちゃんだった。少なくとも”国民保護隊”は、そう見てる」




