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最終話 32歳、《ルールブック》片手に救世紀行

 ソフィアが遅れた理由は単純だった。

 ロアともう一人、ディードリッドという女性がここに残ることを宣言したため、二人の説得にぎりぎりまでかけていたらしい。

 だが結局、二人の気が変わることはなく、その代わりに加わったのはラットマンと長年の連れ合いだったマルガレーテという気の強そうな女性だ。

 ラットマン曰く、マルガレーテはバルニバービの地理に詳しく、”探索者”としてもかなり腕が立つ、とのこと。

 彼女の同行を認めて、最終的な”アドベンチャー号”の乗員は86人と決まった。



 ソフィアから事情を聞いた京太郎は、早速、船員の名簿を載せた伝書鳩を”ギルド”へ向けて飛ばし、大きく息をつく。


――これで、……この街ですべきことはなくなった、はず。


 次の目標は決まっている。

 各国を巡って”勇者”たちと謁見。”終末因子”を発見し、取り除く。

 つまり、――根っこの所は、彼が最初にこの世界へ訪れた時から変わっていない。

 情報収集、だ。


「それじゃ、そろそろ出立としますか」


 呟くと、傍らにいた船員が独り言を聞いていたらしく、


「出港だぞぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 と、全世界に聞かせるような大音声で叫んだ。

 それに応じる声が船のあちこちから聞こえて、ちょっとだけ恥ずかしくなる。

 そんな京太郎の内心を見抜いてか、フック船長がにこにこ笑って、


「では、これを」


 酒瓶を一本、手渡した。

 封を開け、匂いを嗅ぐ。赤ワインらしい。


「――なんです、これ?」


 乾杯でもするのだろうか?


「ああ、外国の方なら知らなくて当然ですね。ワタシたちの国では、新たに結成された船員で出港を行うとき、船首にこれを叩き付ける儀式を行うのです。昔は山羊の血を捧げていたようですが……ワインは、その代わりで」

「マジすか」

「……船の責任者が二、三ほど船員に挨拶して、酒瓶をパリン。それでワレワレはようやく、出港準備に取りかかるのですよ」

「え、なにそれ聞いてない。自分、アドリブとかめっちゃ弱いんですけど……」

「では、ワタシが代わりましょうか? 挨拶は船長がしてもいいことになっています」

「あー……いや、それはさすがに……」


 ひょっとすると航海中、”ドアノブ”であっちこっち飛び回ってここの船員とはあんまり顔を合わせないかもしれないし。


「わかりました。私がやります」

「よろしい」


 フック船長は、遙か高みから見守る大先輩の余裕で、京太郎に道を譲る。


――飲み会とかの〆の音頭をとるようなもんだよな。


 島国で出会った仲間たちが見守る中、船首へと向かう。


――あ、やべーこれ、ちょっと緊張してきた。


 無理もない。先ほどまであれほどやかましかった船員たちが皆、固唾を呑んでこちらを見つめているのだ。

 皆が皆、自分の出自についてあれこれ噂していることは知っていた。

 何せここの船員たちは、これほど快適な船を知らない。中には、この船なら一生だって住んでいられると公言する者もいるくらいだ。

 ”アドベンチャー号”の持ち主は、どこかの”勇者”の血族なのではないかという説が有力だった。


 京太郎は、潮の匂いを大きく吸い込み、


「えーっ…………ごほん。…………えーっと…………」


 一言目で躓く。

 なんだかとつぜん、心臓がばくばく鼓動を始めたのである。顔に血が上っていくのがわかった。


――ええと。何を話そうか。指揮に拘わることだから、……ある程度はこちらを印象的づけて、できればみんながリラックスして仕事に当たれるような……。


 これが、ちょっと意外なほどの難問である。

 シムとステラになら、いくらでも話せることはあった。

 だが、ここの船員は恐らく、この”アドベンチャー号”をただの探査船、あるいは商船だと思っているわけで。


――あれ? となると、みんなには何を言うべきだろう?


 そこまで考えて、頭が真っ白になる。


「あーっと。…………ええっと…………そのぉー」


 ふいに、びっくりするくらい気まずい空気が船上に流れた。

 それでもなお、船員たちの関心は並々ならぬものらしい。彼らは一心に京太郎に注目している。ある意味京太郎はすでに、多くの指揮官が望んでも勝ち得ぬもの、――彼らの畏怖を勝ち得ていると言っても良かった。


――あ、やばいやばいやばい。なにも話す言葉が浮かんでこないぞ。


 ここまで何も浮かんでこないのは、高校の時、たまたま最後の日直だということでみんなへの挨拶を担任教師から強制させられた時以来だ。

 思えば、部活の飲み会とかではこんなことはなかったのに。


――何故? ……ああそうだ、そういう時はたいてい、酔ってたから。


 と、思って京太郎は、自分の右手に何が握られているかを思い出す。


――そうだ。景気づけにちょっとだけ呑めば……。


 ということで、京太郎は酒瓶の赤ワインを一口、ごくりと飲んだ。

 その姿を見て、「あっ!」と、フック船長が驚く。


「それ、儀式用の古いワイン……」


 同時に、京太郎の舌の上を完全に酸化した酒が通り過ぎ、


「ぶっ、べげぼおおおおおおおおおおおッ!」


 朝霧が漂う船上で、盛大に酒を噴き出した。

 ”アドベンチャー号”の甲板が一部、紅く染まる。


 一拍の、間。

 そして、どっと笑い声が湧き上がった。


 坂本京太郎を除く全ての船員が、腹を抱えて笑っている。

 船員たちを始め、フック船長、ソフィアたち”探索者”、ハーフリングのケセラとパサラ。そして、シムとステラまで一緒になって。


 京太郎はちょっとだけ苦い顔を作ったが、


――まあ、格好つけるのは私らしくないか。


 思えば、自分の冒険は最初からそうだった気がする。

 自分は、ヒーローではない。

 ”勇者”にも、”魔王”にも、”探索者”にすらなりきれない32歳のおっさんだ。

 無闇に背伸びをするくらいなら、自分らしく行こうじゃないか。


 とはいえ今の行動、ある意味では成功したと言えなくもない。

 そこで感情のベクトルを振り切ることができたのである。

 坂本京太郎は芝居がかって船首に載っかり、


「……と、まあ!」


 再び仲間たちが静まりかえった。


「この世の中! 予期せぬことが、いくらでも起こりうる!」


 檻の中の珍獣を眺めていたかのような彼らの目つきに、これまでにないものが混じっている。

 恐らくそれはきっと、これからの旅に役立つ何かであろうと思われた。


「それでも、この航海が終わるとき! みんな一緒に笑っていられるように!」


 そして、赤ワインを叩き付ける。

 あらかじめ割れやすくしてあったその酒瓶は、朝の光を受けてキラキラと輝いた。


「「「「「「応ッ!!」」」」」」


 それに応える号令は野太く、船員たちは忙しく動き始める。

 ”アドベンチャー号”が出港する。


 新たな救世紀行が始まったのだ。


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