第147話 避難進捗
ふと気が付けば、日が沈みつつあった。
「アル、――すこし休んでください」
これから長丁場になります。
暗にそう告げる部下から白湯を受け取って、アル・アームズマンは人目を盗むように夕暮れの空を眺めていた。
今のところ、合流した仲間たちに伝えているのは、たった二つの真実のみ。
――地下に安全地帯がある。逃げよ。
――”魔族”を見かけたとしても彼らは敵ではない。協力せよ。
こういう時、あまり多くの情報を大衆に預けてはいけない。
だからこそ、混じりっけのない真実を。
子供でもわかるような、単純な指示を。
後は各々、何を感じるかに任せることにした。
この言葉がギリギリのところで説得力を持っていたのは、(フェルニゲシュという特例はあるものの)”竜族”と”魔族”が厳密な協力関係にはなかったためだろう。
実際、多くの避難民は「”竜族”の侵略」に、「”魔族”が味方についた」というような絵図を思い浮かべているらしい。
もちろんそれは、真実とはほど遠い憶測に過ぎないが……。
「ふむ」
黙考し、白湯を一口。
魔法によって温められた、火のように熱い液体が喉を通り過ぎていく。
地下の”迷宮都市”はすでに、人間が住めるような環境が整えられつつあるらしい。
▼
現状、住民の避難進捗は、五、六割方、といったところだろうか?
これはグラブダブドリップ全体の人口から計算すれば、想定を遙かに上回る成果であると言って良い。
とはいえそれは、あくまで人命救助にのみ焦点を絞った進捗であり、本当の問題が表面化していくのは、まだまだ先のこと。
残された物資の回収。
そしてその配給。
失われた仕事。家。
財産をなくした者の中から、気が変になるものが出てきてもおかしくない。
だが、――それでも。今のところ。
人命は。国民の命だけは保護することができている。
地上の誘導に関しては、”ゴーレム”が大きな助けになってくれていた。街にいるかぎり乱暴に扱っても怪我をさせるリスクがないため、細かいところに気がつかない彼らでも、実に効率的に作業を進めることができている。
厄介だったのは、気が遠くなるほど大量の人々を、順番に地下へと案内していく作業。
正気を取り戻した住民の多くは、何よりまず、家族と合流することを望んだ。
だが、皆が皆、都合良く家族一緒に救出されているとは限らない。”ゴーレム”が運び込んでくる人々は、ほぼランダムに決められているからだ。
そんな彼らをなだめ、順番に”迷宮都市”へと案内していく。特に子供や老人、病人の移動には細心の注意と人員を割く必要があった。
そういう時、意外なほどよく働いてくれたのは、常日頃から死と隣り合わせの仕事に挑んでいる”探索者”の面々である。
非常時ほど、ああいう連中は義侠心を発揮するものなのかもしれない。
彼らはほとんど自主的に住民たちを説得し、励まし、避難の手伝いをしてくれていた。
普段は乱暴者で通っている強面が、必死に子供やら病人やらを励ましているのだから、端から見ていて微笑ましい何かがある。
▼
アルが見たところ、避難民の行動は、大きく三つのパターンに分けられていた。
状況を理解し、避難誘導に手を貸す程度には冷静である者、一割。
混乱し、泣き叫び、訳もわからず脱走を試みる者、一割。
呆然とし、ただただ言われたことに従う自動人形のようになる者、八割。
いずれにせよ、列に加わる者の顔は一様に暗く、ぞろぞろと地下へ向かっていくその姿は死刑囚を思わせた。
多くの住民が、かの強大な竜の姿を目の当たりにしていた。
多くの住民が、自分の死と消失を覚悟していた。
そのショックから立ち直るのは、生半可なことではない。
きっと長い時間が必要だろう。
そこで、白湯をもう一口。
少しずつ、気力が漲ってくる。
特に”迷宮都市”側の受け入れ体勢が早々に整えられたのは、日中は”ワイバーン”退治に孤軍奮闘していた”大叔父様”の協力を仰げたことが大きい。
御年75になる、かの老人は、国民人気という点においてはリカ・アームズマンに肩を並べられるカリスマだ。彼が現れて避難民を勇気づければ、てきめんにみな協力的になるという有様で、これは残念ながらアル・アームズマンには欠けている資質である。彼自身あまり意識してそうしている訳ではないのだが、自分はどうも他人を不愉快にする才能に恵まれているらしい。
何にせよ、今のところトラブルは可能な限り最小……と、自負している。
”人狼”たちがうまくやっているせいか、我が国民が並々ならぬ人徳を発揮しているのか、”大叔父様”の影響か。
あるいは単純に、――脱走者が現れたとしても、行く先がないだけかもしれない。
大きな歴史の転換期にいるという自覚はあった。
いま、この状況における一挙一動が、後の歴史家に何千何万回と精査されるであろうことも。
「…………………よし」
物思いに耽っていたのは、時間にして数分ほどだろうか。
アル・アームズマンは、残りの白湯を飲み干し、嘆息する。
先ほどからずっと、――ほとんどバックグラウンドミュージックのように聞こえている声があった。
親とはぐれて泣く子供たちの声である。
「……いくか」
呟く。
こういう時に現れるのが、英雄というものだ。
▼
彼が見ていた先、――夕暮れが浮かぶその当たりには、三つの人影がある。
――坂本京太郎。ステラ。シム。
彼らは、静かに待ち続けていた。
”彼女”が現れる、その時を。
全ての決着が付く、その瞬間を。




