第2話 三人並べば大中小
静まり返った教室にチョークが黒板を叩く規則的な音が響く。
ここは県立岩蔵中央高等学校、教室棟一階の一年生の教室。室内には30人近い生徒が詰め込まれているがシャーペンの音やノートをめくる音はほんのわずかしか聞こえない。
それもそのはず、生徒たちのほとんどは居眠りをしていた。
今は金曜日の七限目。一週間で最後の授業であり、一週間の内で最も疲れが溜まっている日時である。そんな時間に、恐らく「退屈な授業四天王」筆頭であろう日本史の授業を持ってきているのだ。教室内が死屍累々の地獄絵図の如き様相を呈しているのも当然のことと言えよう。もっとも、本当に地獄絵図になっているのは自分の授業で大睡眠学習大会を実施されている日本史担当教員の心の内なのだが。
なにはともあれ、どのような悲劇にも必ず終わりの時は来る。静まり返った教室に軽やかなチャイムの音が鳴り響き、日本史担当教員が「今日はここまでだ。しっかり復習しとけよー」と宣言したその瞬間、死んでいた生徒達は一斉に蘇った。
「くあー! やっと終わったかあ! いやあ、疲れた疲れた」
「なにが『疲れた』ですか。静夏さん授業中ずっと寝てたじゃないですか」
一つ前の席で欠伸混じりに伸びをする友人、根岸静夏に冷たい目を向けながら、瑞樹は呆れたような声で言い放つ。
「ずっととは心外だなあ。ちょっとは起きてたよ」
「いや、起きてる方じゃなくて寝てる方をちょっとにしてくださいよ……」
友人のあまりにも残念な言葉に、瑞樹はガックリと肩を落とす。そこに横から聞き慣れた声がかけられた。
「瑞樹の言う通りよ? アンタ、授業始まってすぐに爆睡してたじゃない」
「実里さん……」
長い黒髪を靡かせながら二人に歩み寄ってきたのは日高実里。瑞樹と静夏の友人である。
「おー、実里ー。お疲れー。ていうかなんでアタシが寝てたの知ってんの? 席離れてんのに」
「なんでもなにも、授業始まってすぐ机の上に崩れ落ちたらそりゃ気付くわよ。ただでさえアンタは目立つんだから」
「むー。いくらアタシが大柄だからってそんな言い方はないと思うなー」
そう言いながら静夏はぷくりと頬を膨らませる。本人の言う通り静夏は背が高い。おおよそ160代後半くらいの背丈だろうか。その上に髪の毛を頭頂部で大きな団子型に結っているため余計に背が高く見えるのだ。不服そうな様子の静夏に実里は落ち着いた様子で首を横に振る。
「そうじゃないわよ。いや、それもあるけど、アンタの席って教室のど真ん中でしょ? 教室の後ろからでもよく見えるのよ。あと話を逸らすならもっと上手くやりなさい」
「クッ、バレてたか」
腕を組んで立つ実里の苦言に、静夏は言葉を詰まらせる。どうやら「不用意な発言で傷ついたフリをして話題を逸らす」作戦は失敗に終わったらしい。
「いや、だって日本史だよ? ずっと先生の話聞いてるだけでノート取る以外になんにもやることないんだよ? そりゃ寝るよ。ね、瑞樹!?」
いささか目を泳がせながら、静夏は目の前の友人に助けを求める。
「いえ、私は寝てませんので」
「はい、ダウトォ! 嘘ついたってダメだよ? ノートの字の乱れを見れば居眠りしてたかどうかなんて簡単に……って、めっちゃキレイじゃん! 嘘、もしかしてマジで居眠りしてないの!?」
「だからそう言ってるじゃないですか」
驚く静夏に瑞樹はにべもなく答える。次々に屍に変わっていく生徒たちのなかにあって、瑞樹は数少ない生存者側の生徒だったのである。ちなみに実里も瑞樹同様生存者側の生徒である。
「この真面目っ娘め! 裏切り者!」
「裏切り者!? そこまで言いますかっ!?」
静夏の理不尽な糾弾に目を剥く瑞樹。あっという間に漫才と化した会話に苦笑しながら実里が静夏に聴いた。
「ていうか真面目な話、そんなので期末テスト大丈夫なの? 中学校じゃないんだし下手したら留年するよ?」
「大丈夫、大丈夫。いざとなったら徹夜するから!」
「一夜漬けする気満々ですか……」
地道に勉強するという道を最初から放棄した発言に瑞樹はため息をつく。普通なら止めるところだろうが、静夏の場合本当に一夜漬けでどうにかなってしまうのでなんとも言えない。この要領の良さこそ彼女のすごいところであり、性質の悪いところなのだ。
と、そんな話をしていると教室前方の扉を開けて白髪頭の男が入って来た。古典担当教員で瑞樹たちのクラス担任の下塚恭二郎だ。
「お前ら早く席に着けー。帰りのホームルーム始めるぞー」
下塚の号令で、友達との立ち話に興じていた生徒達はぞろぞろと自分の席に戻っていく。実里も「じゃあまた後で」と手を振って席に戻って行き、しばらくしてホームルームが始まった。
***
数分後。
風邪が流行っているので体調に気を付けるようにという旨の連絡以外にたいした連絡事項もなく、ホームルームはすぐに終わった。帰り支度をすませた生徒達がぞろぞろと出ていくなか、瑞樹たちも鞄を片手に教室を出る。
「今日はこの後どうしましょう? 遊びにでも行きますか?」
下駄箱に向かう途中、瑞樹が横の二人に問いかける。
「ゴメン、アタシ今日は練習があるから」
片手を上げて実里が言う。日焼けしたことなどなさそうな白い肌や腰まで届く長髪といった容姿のせいで誤解されやすいが、実里は陸上部に所属している。長距離を得意とする女子陸上部の主力メンバーなのだ。
「そうでしたか。あれ、今日って部活の日でしたっけ?」
「ううん、自主練。大会が近いから最近部活外でもちょっと走り込んでるの」
「ああ、なるほど。お疲れ様です……部活かあ」
呟きながら瑞樹は実里を見上げる。静夏と並んでいると目立たないが、実里も女子の平均よりは少し背が高い。
(やっぱり運動したら背が伸びるんでしょうか……)
「……私もなにか運動はじめようかな」
ポツリと瑞樹が呟く。すると、それを聞いて実里が顔色を変えた。
「それはやめた方がいいんじゃない、瑞樹!? ほら、運動したら体に負担がかかるし、屋外だと季節によっては熱中症になったりもするし!」
普段のにこやかで落ち着いた様子から考えられない取り乱しようでまくしたてる実里。そんな実里とは対照的に冷静な、しかしどこか不満を滲ませたような表情で瑞樹は実里を制止する。
「実里さん、落ち着いてください。私はもう大丈夫ですから」
「っ! ……そうね、ごめんなさい。取り乱したわ」
気を落ち着けるように実里は自分の頬に手を当てる。普段はにこやかで落ち着いている実里だが、瑞樹のことになるとつい過保護気味になってしまう。中学校の頃からの実里の悪癖である。
「いえ、実里さんが私のことを心配して言ってくれているのは分かっているので……」
瑞樹が実里から目を逸らす。二人の間に気まずい空気が流れ――
「そりゃっ!」
突然瑞樹に抱き着いた静夏の声で見事に霧散した。
「いやー、相変わらず愛されてるねえ、瑞樹!」
「ちょ、静夏さん! 抱き着かないでくださいっ!」
「えー、だって瑞樹って抱き心地いいしー。可愛いしー」
「理由になってませんよ、って回らないでくださいぃぃぃいい!?」
「あははは!」
静夏に背後から抱きすくめられて顔を真っ赤にしてもがく瑞樹。そんな瑞樹を、何を思ったか静夏はくるくると回って絶叫させる。小柄な瑞樹の体は完全に地面から浮いており、見ようによっては親が幼児をあやしている様子に見えなくもない。
しばらく回ると気が済んだのか静夏は瑞樹を降ろした。
「うう……酷い目に遭いました……」
「いやあ、ゴメンゴメン。つい楽しくなっちゃってー。あ、今日は私も付き合えないよ。この後バイトあるからー」
「それこのタイミングで言いますか……?」
まだ目が回っているのか少しよろけながら瑞樹は下駄箱にたどり着く。もはや最前までの気まずい空気は微塵も残っていない。年季の入った木の扉を開けて外靴を取り出しつつ、瑞樹は静夏を振り返った。
「そういえば、静夏さんのバイト先ってどこでしたっけ?」
「喫茶店だよ。寺町の『和光庵』ってとこ」
寺町とは岩蔵高校の裏にある岩蔵山の麓に広がる町の総称である。もともと岩蔵山中腹にある『巌山寺』の参道に出店していた茶店や露店が元になって発展した町であるため寺町と呼ばれているのだ。
「『和光庵』?」
同じく外靴を取り出していた実里が反応する。
「あのいい雰囲気のお店? 人気そうだけど忙しくないの?」
「そうでもないよ? 忙しくもなく暇すぎもせずって感じかな。まあ、だからこそ店の仕事と私の趣味を両立できるわけだしね」
きしし、と静夏は悪戯っぽく笑う。
「趣味って……ああ、『噂話の収集』のこと?」
「そうそう」
わが意を得たりとばかりに静夏が頷く。
いつも明るく飄々としている静夏だが、実は無類の噂話好きでもある。といってもゴシップ好きというわけではない。もちろんそういった噂も嫌いではないが、静夏が好むのは怪談や都市伝説といった類の噂である。
「噂を集めるためにわざわざバイトするって……アンタも物好きよね」
「ていうか、喫茶店でバイトしたからってそんなの、集まるものなんですか?」
不思議そうに首を傾げる瑞樹の顔の前で静夏はチッチッチッと人差し指を振る。
「甘いねえ。饅頭の砂糖漬けのように甘いよ、瑞樹クン」
「いったい何キャラなんですか」
瑞樹のツッコミを無視して静夏はドヤ顔で語り続ける。
「喫茶店には人が集まる。人が集まれば会話が生まれる。そして会話が生まれれば噂話に花が咲くのが世の常というもの! つまり! 噂話を集めるなら喫茶店以上に適したバイト先はないのだよ! ……実際、色々と聞こえてくるしね。この間もうちの高校の生徒っぽい子達が『河原になんでも願いを叶えてくれる神様が現れる』って話で盛り上がってたし」
「神様?」
突拍子もない話に瑞樹が鼻白んだ様子で返す。柳の下に幽霊ならまだしも河原に神様とはどういう配置だ。おまけに「なんでも願いを叶えてくれる」など噂話といってもあまりに夢想が過ぎるのではないか。瑞樹のそんな疑問を察してか、静夏は肩をすくめながら続けた。
「いやー、アタシも詳しいこと聞けたわけじゃないから分からないんだけどね? なんでも、町内のとある河原に現れた神様に願いを叶えて貰ったっていう人がいるらしいんだよ、噂によると」
「また、ずいぶんと漠然とした話ね……具体的な情報が何もないじゃない」
実里が眉をひそめる。きっぱりとした性格のせいか実里はこういった雲をつかむような話は好きではない。
「まあ噂ってそんなもんだからねー。こればっかりは仕方がない仕方がない」
あっけらかんと言う静夏の声を聞きながら下駄箱が並ぶ玄関ホールを抜けて三人は外に出た。目の前に広がるアスファルトの地面を、西日が橙色に照らしている。
校門に向かって歩きながらふと静夏が顎に手をやった。
「ああ、でも一つだけ具体的に分かってることもあるよ」
瑞樹は右隣を歩く静夏を見上げた。西日がまともに目に入り、思わず目を細める。
「一つだけ?」
「うん、一つだけ。その神様が出た場所っていうのがさあ――」
言いながら静夏は前方の一点を指差す。
「うちの校門前の川らしいんだよね」