その8 祝杯の声
「ジェスタ、しっかりしろ。気を鎮めるのだ」
アルドモンド卿は半狂乱のジェスタを抱え込んだ。太くも暖かみのある腕の中にいるうちに心の乱れもおさまったのか、ジェスタは立ち上がり、目頭を押さえた。
「すいません、卿……。みっともないところを見せて……」
「もう大丈夫だな。しかし誠なのか? レイがナイトスタリオンの犠牲者だというのは」
「本当です。レイは事故で怪我をして以来、口癖のように言っていました。『兄ちゃん、騎士になって悪い奴等をばったばったとやっつけて』って……。これってそのまんまじゃないですか。ヴィラ・ハーがやってきたことと」
「そうか、そういうことか……。だからヴィラ・ハーはお前の姿となったのか……」
ジェスタの発言によって謎は解けた。ヴィラ・ハーより過去に起きた事件の場合、全て犠牲者が自分はこうしたい、ああしたいという願望を抱いていた。願い事は犠牲者自身のものであり、それを叶える人形も本人の姿となる訳だ。
ところがレイの場合は違う。レイは騎士になることを断念し、その夢を兄に託した。騎士になった兄が大活躍することこそレイの願い。夢を叶えるのは自身ではなく、他人なのだ。よって人形はその思い課す人物、即ちジェスタの姿をとったのである。
「俺が……俺が約束した通り、去年の誕生日までに村に一度帰っていれば、レイはあの化け物を呼び寄せたりはしなかったんじゃないかと……」
「どうしてそう思う?」
「だって卿……。ヴィラ・ハーは去年の八月三日に、初めて予告状を出したって……。この日はレイの誕生日ですよ。もし俺がこの日までに帰っていたら、レイは俺の現状を知って失望し、自分の夢を託そうなんて思わなかったはずです。でも……」
ジェスタは帰らなかった。けれど来年はきっと帰ってくる。兄は立派な騎士になって戻ってくる……。レイは諦めるどころか、その思いをますます募らせたのかもしれない。
「俺、思うんです。ヴィラ・ハーの異変も、今年の誕生日に俺が帰郷しなかったことが原因じゃないかと。今年の八月三日以降、奴は明らかにおかしくなりました。今までは悪人斬りをしていたのに、まともな人間や無関係の人まで容赦なく殺すようになった。俺が二度も約束を破ったから、レイが変なこと考えるようになったんじゃないかって……」
ジェスタは俯き、メソメソと泣き出した。一体どうすればこの罪を償えるのか。パニック状態に陥り、もはや自分を責めることしか出来ないようだ。
「そうかも知れないが、この件は本来お前とレイ、二人だけの問題だったはず。違うか?」
傷付いた心を労るような声に、ジェスタが泣きはらした目を向けると、そこにはアルドモンド卿の優しげな笑顔があった。
「ヴィラ・ハーの事件に関して、お前には何の責任もない。勿論レイにもだ。全てはあの人の心に付け入る魔物、ナイトスタリオンの仕業なのだからな。おのれ、ナイトスタリオンめ……。純粋な少年の心を利用するとは……許せん!」
仏のような顔付きが一変、アルドモンド卿は憤怒の鬼と化した。今すぐ魔物の血を見なければ気が済まぬと言わんばかりに、怒気がオーラとなって背後から立ち上っている。あまりの迫力にルピアも背筋が寒くなったほどだ。
されど怒りは一瞬のこと、オーラは直にスーッと消えた。アルドモンド卿は愛用の三日月刀を両腰に下げ、マントを羽織った。
「ジェスタ、直ぐにお前の村へ向けてここを発つ」
「卿、レイに何かするつもりじゃ……」
「レイに危害を加える真似はしない。群青石を使って奴を追い出し、必ずやレイを魔物から解放してみせる。もしレイに危険が及びそうになったら、私が守る」
別れを告げるとアルドモンド卿は立ち去ろうとしたが、ホーガニーに呼び止められた。
「お待ち下さい、アルドモンド卿。ナイトスタリオンの件、あなた様の口より直接ブラス男爵にご説明頂けないでしょうか?」
「ブラス男爵に? しかし私は今、追われる身。男爵にお会いするのは……」
するとホーガニーは身を屈め、下からアルドモンド卿の目をじっと覗き込んだ。
「ご存じないでしょうが、男爵の兄君は今年の初め、ヴィラ・ハーの手にかかって亡くなっているのです。男爵の御心中、家族を亡くされたあなた様ならお察し頂けるのでは?」
「そうですか、兄君を……。私の力が至らないばかりに申し訳ないことを……」
アルドモンド卿は頭を垂れた。愛する者を失う悲しみ。無実の罪で死んで行く苦しみ。そんな思い、もう誰にもさせてはならないと誓っただけに、痛恨の極みなのだろう。
「なに、男爵は大層出来たお人です。事情をお知りになれば、あなた様を王都へ送るようなことはなさいますまい。あと、男爵にはこちらへご足労頂きます。その方があなた様もお話しやすいでしょうし。宜しいですかな?」
「お願い致します」
返事を聞くやホーガニーは足取りも軽く、部屋から出て行った。無論、行き先は男爵邸。早速ブラス男爵を呼びに向かったのだ。
その妙に嬉しげな背中をルピアは恨めしそうに見詰めた。人の気持ちも知らないで……と、言いたげに。熱烈に憧れていた人は魔物の作り物。この衝撃的な事実に、ルピアはひっぱたかれたようなショックを受けたのだ。失恋したも同然、もうファンどころではない。
されどルピア以上に重傷、いや重体だったのがジェスタだった。ジェスタは壁に背をつけて腰を下ろしたまま、ぼんやりと天井を見詰めているだけの放心状態。主の嘆かわしい姿がルピアの目にはもどかしく映ったが、落ち込んでいる時にくどくど説教するのも酷だ。ルピアはジェスタの足下へ舞い降りると、踝を軽くつついた。
『旦那、顔を洗ってきて下さいな。そのぐちょぐちょの顔で男爵に会うんですか?』
「俺も……会うのか?」
『当然でしょう。事件の当事者なんですから』
「そう……か。そうだよ……な」
やっとのことでジェスタは腰を上げた。そんな頼りない主を見上げつつ、ルピアは思った。場合によっては多少の荒療治も必要かと。
一時間後、ホーガニーはブラス男爵を伴って帰宅した。ホーガニーの話によれば、男爵邸は騒然とした雰囲気に包まれていたという。お尋ね者が衛兵の追跡を振り切って逃走、町内に潜伏したとの情報は既にブラス男爵の許へもたらされており、これから大捜索を開始しようかという矢先だったのだ。そこでホーガニーが事情を説明すると、ブラス男爵は捜索を中止。自らアルドモンド卿に会いたいと言い出した。
五人全員――正確には四人と一羽――が客間に会すと、アルドモンド卿の口からヴィラ・ハーとナイトスタリオンの秘密が、ブラス男爵へ説明された。
「何と言うことだ! 攻撃すべきは人ではなく、馬の方であったとは……!」
全てを知ったブラス男爵は悔しさのあまり目を血走らせ、戦いた。もしここが男爵邸であったら、骨が砕けることなどお構いなしに拳をテーブルへ叩き付けたであろう。
「そうとわかっていれば、スルシスへ矢を放ったものを……。だが今は悔いている場合ではない。アルドモンド、そなたは犠牲者の少年が住む村へ向かうつもりなのか?」
「はい。今日中には出発いたします」
「ならば私も同行させてもらおう。私もこの手で兄の仇とりたい。よろしいかな?」
「仰せのままに。供の者はつけられますか?」
「いや、行くのは私だけだ。今回は忍びの旅となる故、供をつけては目立ってしまう」
ブラス男爵も十二分に心得ていた。アルドモンド卿と旅をする以上、人との接触は極力避けなければならないと。街道の利用は不可、野宿を余儀なくされるのだ。
「私のために大変な苦労をおかけすることになり、お詫びの言葉もございません」
深々と頭を下げるアルドモンド卿に、ブラス男爵は笑顔で応じた。
「気にすることはない。私もそなたと一緒であれば心強い。これ程頼もしい道連れはおらぬ。それに私も子供の頃は、周辺の山野を飛び回ったものだ。そうであろう、ホー爺」
「ファッファッファ。確かにあなた様は、このぐうたら教師の良い生徒で御座いましたなあ。野外授業と称して、お屋敷をこっそり抜け出したことがついこの間のことのようです。して、今回の旅には私もお供いたしましょう。魔術が役立つやも知れませんので」
「しかしホー爺、聞けばジェスタの故郷は南部の辺境地だという。馬で行っても十日程かかる。その様な旅にホー爺を連れて行くのは……」
「なーに、それぐらいの体力は残っております。で……ジェスタ、お前さんはどうするつもりじゃ?」
ホーガニーの質問にジェスタは即答出来なかった。行くべきか留まるべきか迷っているのだ。暫し考え込んだ後、暗い面持ちでジェスタは答えた。
「俺はここに残ります。俺が行っても役には立たないし、足手纏いになるだけだし」
ジェスタにしてみれば、自分なりに考え抜いた末の決断だったようだ。身の上にずしりとのし掛かる、「事件の原因を作った責任」という名の重石。これを取り除こうにも、ジェスタはあまりにも非力すぎた。アルドモンド卿やブラス男爵のように武術の腕前に自信がある訳でもなく、ホーガニーのように魔術が使える訳でもない。おまけに酷い臆病者で、魔物が現れようものならたちどころに身体が竦み、身を守ることすらままならない。ナイトスタリオンを倒すなど、とんだお笑いぐさだ。こんな自分が同行しても……と、思ったのであろうが――
『いいんですか、本当に行かなくても』
ルピアは正面へ回り、主の顔に眼を据えた。目から放たれた矢に胸を射抜かれたのか、ジェスタはビクリと肩を震わせた。
『アルドモンド卿がおっしゃるようにこの事件、旦那には責任がないかのも知れません。でも事件の当事者であることには変わりがないんですよ。なのに人任せですか?』
逃げるな――ルピアは一途な思いを瞳に込め、懸命に主へ訴えようとした。己の身に降りかかった困難や災いに立ち向かおうとはせず、逃げる。これこそルピアが以前から懸念していたことだったのだ。騎士修行の厳しさに耐えきれず、アルドモンド卿の許から逃げ出す。真面目に働く煩わしさから逃げ、盗みをする……。逃げて逃げて、ジェスタは逃げ続けた。もしこれでレイのことを他人に押しつけ、また逃げようものならどうなるか。ジェスタは弟の危機を知りながら何一つ手を差し伸べなかった卑怯者として、一生心に枷をはめたまま生きて行かねばならないのである。
『それにもし弟さんの身に万一のことがあったら、旦那は絶対に後悔しますよ。何故っていざという時、弟さんを守れるのは旦那だけだからです。そうじゃありませんか?』
「だが、行って俺は何をすればいいんだ……」
自棄になって頭をかきむしるジェスタに、ルピアは敢えて優しい言葉をかけなかった。すました態度で、いけしゃあしゃあと言ってのけたのだ。
『あら、簡単なことじゃないですか。弟さんに会って「御免、騎士になれなかった」って謝ればいいんです。そうすれば弟さんは心に願望を抱くことはなくなりますから、もうナイトスタリオンに惑わされずに済むんですよ』
無論自分が口にしたことが、ジェスタにとって容易い行いではないのは、ルピアも十分承知していた。されどこれがジェスタに出来る唯一の解決法だったのだ。兄の現状を知ることは、レイにとっても辛いことだろうが。
ルピアの思いが伝わったのか、ジェスタはしんみりと呟いた。
「……わかった。やろう。お前の言うように、それで責任がとれるんなら安いもんだな」
『わかってくれたみたいですね。大丈夫、弟さんはきっと今の旦那を受け入れてくれますよ。たった二人だけの兄弟なんですから』
ここで初めてルピアは声色を和らげた。自分の言うことになかなか耳を貸そうとしない主だけに、ことさら喜ばしかったのだ。
『旦那が行くんですから、勿論私もついて行きます。男爵、宜しいですよね?』
「同行するのは構わないが、群青石が足りぬ。私も自分とホー爺の分、二個しか持っていないのだ。お前達がナイトスタリオンと戦うことはよもやあるまいが、敵を近付けないためにも是非とも身に付けておいて欲しいのだが」
『大丈夫です。旦那は群青石のブローチを持っています。ねえ、旦那』
ジェスタは口を噤んでしまった。ブローチは盗んだ金で買った物。もしこの事実がアルドモンド卿に発覚したらどうなるか……と、思うと生きた心地がしないのだろう。幸いルピアも出しゃばらず、群青石の入手方法について追求する者もいなかったが。
この直後、ブラス男爵は諸手続きをするため屋敷へ戻った。暫くマイアムを留守にすることになるので、公務を側近へ代行させる必要があったのだ。
ところが説明も済んだというのに、アルドモンド卿は席から立とうともせず、塞ぎ込んでいた。そんな勇士らしからぬ態度が気になったのか、ホーガニーがそっと声をかけた。
「どうなされました? 何か気になることでも御座いますかな?」
「……はい。ヴィラ・ハーが何故私に素顔を見せたのか、どうにも気になるのです」
ヴィラ・ハーが人前で兜を脱ぐことなど、一度たりともなかったのだ。アルドモンド卿が訝しく感じるのも当然であったが、ホーガニーは軽く笑い飛ばしてしまった。
「気になさることではありません。ヴィラ・ハーとは言え、中味は十二歳の少年そのもの。きっとあなた様に再会できたことにレイは喜び、勢いで兜を取ってしまったのでしょう」
「そうでしょうか。私にはとてもその様には見えませんでした。もし叔父上のおっしゃる通りであれば、ヴィラ・ハーはにこやかな表情を見せるはずです。しかし、実際は全く違いました。今でもはっきり覚えています。私を蔑むようなあの目を。故にレイが自らの意思ではなく、ナイトスタリオンに唆されて兜を脱いだのではかと思われるのです」
「素顔を晒す行為が、ナイトスタリオンの意思で行われたとすれば、何か問題でも?」
「ナイトスタリオンはレイの記憶を通し、ジェスタが私の従卒となったことを知っています。ヴィラ・ハーの顔を見れば、私がジェスタの許へ向かうことは予測出来たはずです。メサの大賢者は言っていました。ナイトスタリオンは万里の目と耳により、千ディール離れた場所のものを見聞することが出来ると。奴はその能力で労せず目標を発見出来るのです」
万里の目と耳と聞き、ルピアは成程と感じた。七月末、リーベンゲル北側の草原で遭遇した出来事を思い出したのだ。ナイトスタリオンは万里の目と耳の力により、東部地方から中央部の草原まで逃走した赤套団を難なく発見、その目前に出れたのである。
つまり敵は夜間、こちらの行動を容易に監視出来るということだ。アルドモンド卿が恐れていることは、まさにそれだろう。アルドモンド卿は先月帰国した際、国境の関も通らず、入国後も人目に触れぬよう行動したという。ナイトスタリオンの目を引かぬよう、出来うる限りの注意を払ったのであろうが、何処まで効果があったのか。
「叔父上……。私の行動は奴にはお見通しなのかも知れません。ナイトスタリオンは、私がジェスタに会いに行くのを待っているのではないか。今更ながら奴の術中にはまったような気がして、仕方がないのです……」
もしアルドモンド卿の考えが的を射ていれば、ナイトスタリオンの狙いは何なのか。ルピアにもさっぱりわからなかった。ただアルドモンド卿の懸念が、杞憂に終わってくれればいいと願うだけで。
それから十時間ばかり経過した、九月十二日深夜。一行はシュルト山の山腹に広がる森の中にいた。馬に乗っての移動も、街道を通れないとあっては難渋する。未だ日が出ているうちにマイアムを出発したにも拘わらず、山を下りきることは出来なかったのだ。
その様な訳で、今夜は森の小広場で一夜を明かすこととなった。馬を近くの木に繋ぎ止め、四人と一羽は焚火を囲んで腰を下ろした。
休息中でもアルドモンド卿は周囲の警戒を怠らず、ブラス男爵は愛用の長剣の手入れに余念がない。騎士二人に比べてホーガニーは呑気なもので、持参した菓子をパクついている。そんな光景を一覧した後、ルピアは隣で火の番をしているジェスタに話しかけた。
『旦那が馬に乗れるなんて、意外でした』
ルピアの口調は褒め半分、からかい半分といった感じであった。どちらにせよ面白くなかっただろう。口をへの字に曲げ、ジェスタは枝を力任せにへし折った。
「俺は一年足らずだが、騎士修行をしたんだぞ。乗れて当たり前だろうが」
『でも、やっぱり下手くそでしたね。いつ馬の背中から転がり落ちるかおっかなくって、私は肩にも留まれませんでした。ホーガニーの方がずっと上手です』
「相も変わらず口の減らない鴉だな、お前は! この中に放り込んでやろうか!」
ジェスタが枝を焚火へ叩き込むと、ルピアはカーカー鳴いて一行の頭上を旋回した。幾分ミーハーの気はあるものの、ルピアが人前で大袈裟に騒ぎ立てることは珍しい。それもそのはず、故意にやっていたからだ。人目を避けての旅、その目的は魔物退治。一行の間に漂うムードは、どうしても暗く沈みがちになってしまう。そんな悪い空気を吹き飛ばそうと、ルピアは明るく振る舞ったのである。
努力の甲斐あって、ホーガニーは菓子を頬張ったまま得意の笑い声をたて、ブラス男爵とアルドモンド卿は微笑んだ。満足げに地上へ舞い降りたルピアだったが、折角の「いい雰囲気」も長続きはしなかった。馬の様子がおかしい。大人しく草をはんでいた四頭の馬達は一斉に頭を上げ、東の方角へ長い顔を向けたのだ。さらに忙しなく耳を動かし始め――突如狂ったように暴れ出したではないか。
宥めたくても棒立ちになるわ蹴るわで、近付くことも出来ない。ホーガニーが魔術で鎮めようとするも慌てたことが災いし、菓子を喉に詰まらせてしまった。すかさずルピアがホーガニーの背中へ体当たりをし、菓子を吐き出させたが、時既に遅し。四頭全てが手綱を引きちぎり、競馬さながらの猛スピードで駆け出したのだ。蹄をかわすのが精一杯で、止めるどころではない。馬達は我先に西の闇の中へ消え失せた。
馬がなくてはこの先の旅に支障が出る。ブラス男爵は急ぎ後を追おうとしたが、アルドモンド卿がサッと手を差し出し、制止した。
「お待ち下さい、男爵。魔の気配が致します。この場から動くのは危険です」
魔の気配――その一言に全員が息を呑んだ。暗い闇に潜み、殺意の眼差しを向ける者。その存在を知ってなお冷静でいられるのは、幾多の魔物と渡り合ったアルドモンド卿だけだった。ブラス男爵ですら、額に汗を滲ませている。
「それで馬共は怯えて……。ヴィードにも魔物は時折出現すると言うが、その類か?」
「いいえ、違います。寒気がするほどの妖気が感じられます。山野に潜む魔物は、ここまで強い妖気を発しません。それのこの気配、憶えがあります。これは恐らく……」
アルドモンド卿は東の闇へ目を向け、両腰からすらりと三日月刀を抜き放った。意味を覚ったブラス男爵も魔力の長剣を手にし、構える。ホーガニーも両手を軽く合わせ、いつでも呪文を唱えられる体制に入った。
「ジェスタ、ルピア。お前達は早く逃げろ!」
アルドモンド卿が押し殺した声で叫んでも、ルピアとジェスタは動こうともしない。逃げたくても身体が言うことをきかなかったのだ。ルピアは冷たい手で身体を鷲掴みされたような感覚を覚え、翼は愚か足までも竦んでしまった。ジェスタに至っては腰を抜かし、へたり込む有様。恐ろしい敵が迫り来る恐怖が、鎖のように絡みついて身体から自由を奪ってしまったのである。
ガサッ、ガサッ。下草をかき分ける音が、東から近付いて来る。それも土を蹴るザッ、ザッという音に変わり、闇の中に青白い光が灯った。モヤモヤとした光の塊は徐々に形を成し、誰の目にも明らかな姿となった。馬に跨った騎士の姿――いや、鎧姿の人を乗せた馬の姿に。
馬はゆっくりゆっくり、それこそ這うようなな歩調で一行の前へ姿を現わした。改めてよく見れば、誠に見事な馬だった。ケルンの一般的な軍用馬より二回りほど大きく、体格もがっしりしている。四肢は太く見るからに頑丈そうで、百ディール走っても疲れを感じさせないほどに逞しい。全身艶やかな体毛で覆われ、尾も鬣も絹糸ようにサラサラと風に棚引いている。誰もが目の色を変えて欲しがる駿馬だ――そう、魔物でなければ。
小広場へ馬が足を一歩踏み入れた途端、焚火の炎がボッと一瞬のうちに消えた。代わって人馬が発する青白き燐光が、仄かに周囲を照らし出す。
馬は小広場へ入って間もなく足を止めた。押し寄せる妖気を物ともせず、アルドモンド卿は相手の目――地獄の業火の如く赤き瞳を毅然と睨み返した。
「ナイトスタリオン・スルシスだな……」
「その通り」
低く、ずしりと重みのある声が返ってきた。答えたのはヴィラ・ハーではなく、馬――スルシスの方だった。
「何用でここに来た? ヴィラ・ハーにまた殺戮をさせる気か?」
「ヴィラ・ハーだと? ハッハッハ! これを見るがいい!」
スルシスが一回肩を揺すると、ヴィラ・ハーは背から滑り落ち、地面に叩き付けられてバラバラに分解してしまった。スルシスは青白き鎧を背に乗せているだけだったのだ。
「見ての通り、中味はない。これはヴィラ・ハーが纏っていた鎧と同じ物だ。我はこれをお前に纏ってもらおうとやって来たのだ――アルドモンド」
「私にだと? お前は私をヴィラ・ハーにするつもりか?」
「いかにも。我が計画の総仕上げとして、お前にはヴィラ・ハーとなってもらう。この国の愚かな国王は、お前がヴィラ・ハーであると信じこんでいるようだからな」
スルシスはクックと笑い声を漏らしたが、アルドモンド卿が激する様子は微塵もない。数々の魔物との戦いが彼に教えていたのだろう。挑発に乗っては敵の思う壺だと。ブラス男爵もホーガニーも相手の出方を窺っているのか、一言も喋らない。
「どうした? どのみちお前達は死ぬのだ。冥土の土産に全てのことに答えてやろう。我は心広き魔物なのでな」
スルシスは余裕綽々、尾をゆっさゆっさ振って微笑んでいる。その憎たらしいほど悠然たる態度が我慢ならなかったのか、ブラス男爵が怒声をぶつけた。
「貴様の目的は何だ!」
「それは愚問だな。魔物の目的など知れたことであろう。そう、人間に苦しみや悲しみ、絶望を与えることだ。それこそ我等にとって、この上もなき甘美なことなのだからな」
「そうではない。私が訊きたいのは、何故これ程の事態を引き起こしたかということだ!」
「成程、よかろう。教えてやろうぞ、ラディル・ブラス」
スルシスは理由を語った。ナイトスタリオンは自分以外にも何体かおり、一族の間で優劣を競う争いが激化していると。そしてその争いに決着をつけるものこそ、人間に対する数々の非情な行いであった。つまり、どれ程の人間を苦しめ、人の世に混乱をもたらしたかによって、順位を確定しようというのだ。
スルシスはファリード大陸をーーファリード大陸に住む人間の夢の世界を「縄張り」にするナイトスタリオンだ。数百年に渡り、幾多の災いを引き起こしてきたが、それも精々個人や一家族、よくて集落一つを巻き込むくらい。こんなちまちまとしたことを続けていては、遅れをとるのは必至。焦りを感じたスルシスは、大勝負に打って出た。大陸全土を戦火で焼き尽くさんと画策したのだ。
そこで目をつけたのが古い歴史を持ち、大陸各国への影響力も強いケルン王国だった。ケルンで戦が勃発すれば、戦火は連鎖反応で次々と他国へ飛び火する……。
「国王を殺せば、ことは足りたかも知れぬ。だがそれではあまりに呆気なく、面白味に欠けるというもの。そこで我は思いついたのだ。王女の婿候補を一人ずつ始末することを。こ奴等は次期国王候補であると同時に国の重要人物、殺せば確実に国情は混乱する。さすれば南のナランが攻め込んでくるのは、間違いなかったからな」
「些細な悪事では飽きたらず、その様なことを企てるとは……!」
全身の血が怒りで煮えたぎっているのか、ブラス男爵の顔は真っ赤だ。が、そんなものなど眼中にないかのように、スルシスは平然と話し続けた。
「だが一つ、困ったことがあった。人形――ヴィラ・ハーに婿候補を殺させようにも、我が憑いたレイにはその気がなかった。そこの腰抜け――兄のジェスタに王にまでなってもらおうとは望んでいなかった。故に一年かけ、じっくり慣らしていったのだ」
昨年の八月三日、ジェスタは帰郷しなかった。まだ兄は騎士修行に励んでいるとレイは信じ、一層期待感を募らせていった。兄は歴史に名を残すような、アルドモンド卿を越えるような凄い騎士になる。絶対に……と。
その思いに惹かれ、スルシスはレイに憑依した。しかしスルシスの思惑とは異なり、レイが望んでいたのは兄が騎士となって大活躍すること。そこで最初の一年、スルシスはレイの望むままに悪人退治をさせた。ヴィラ・ハーが活躍すればするほどレイの感覚は麻痺し、更なる活躍を望むようになると知って。そして今年の八月三日の夜――
――兄ちゃん、今年も帰って来なかった。未だ修行中なのかな……。
夢の中でレイの人形――ヴィラ・ハーが肩を落とすと、スルシスは少年の心に囁いた。
――心配無用、お前の兄はきっと騎士になる。そして悪人退治よりも、もっと凄いことをやるかもしれん。王になるとか……な。どうだ、兄に王になってもらいたくはないか?
――うん! 兄ちゃんに王様になってもらいたい! そしたら僕は王弟だね!
ヴィラ・ハーが目を輝かせるのを見て、スルシスはしてやったりとほくそ笑んだ。
――そうだ。お前の兄は王になる。だが、それは容易なことではない。王になるには、その障害を取り除かなければな……。
その後ヴィラ・ハーはマイアムへ飛び、ヴァドラー大公の部屋へ矢文を打ち込んだ……。
「悪人退治の英雄が一転、王位を狙う謀反人へと堕落する。レイのおかげでこのギャップも十分に満喫出来た。レイには感謝せねばな」
「王都の人々をヴィラ・ハーに焼き殺させたのも、貴様の差し金か!」
「お前もなかなか優秀な人間だな、ラディル・ブラス。そう、我がレイに唆したのだ」
ヴィラ・ハーがゴラージでアラート副提督を急襲した際、側には召使いが一人いた。恐怖のあまり声も出ず、身を固くするだけの男をヴィラ・ハーは見逃そうとした。だが――
――王女の婿候補に味方する者は、全てお前の兄の敵。殺せ!
スルシスの一言でヴィラ・ハーはあっさり考えを翻した。兄は王になる。誰であろうと兄の邪魔はさせない……。この時点でヴィラ・ハーの心の中から慈悲は完全に消滅した。
続くファーラン公爵襲撃時も、ヴィラ・ハーは同様の理由で屋敷内の者を公爵の道連れにした。そしてスルシスは、またしても悪魔の囁きで唆したのだ。
――王都が焼ければ国の混乱に拍車がかかり、玉座を乗っ取りやすくなるではないか。焼き払え! 火炎竜を町へ向かわせろ!
ヴィラ・ハーは躊躇することなく、火炎竜に命令を下した。兄を王にするためなら、手段を選ばない。何をしても構わないと思ったのだろう――そう、これは全て夢なのだから。
「馬鹿な……。あの無垢な少年であるレイがその様なことを……」
冷静沈着なアルドモンド卿も、流石に動揺を抑えきれなかったようだ。アルドモンド卿は知っていた。五年前に辺境の村で出会い、松葉杖をつきながらも、自分の許へ足繁く通った無邪気な少年を。武勇談を聞く少年の瞳は、誰よりも美しく輝いていたのだ。
「人間とは所詮その程度の生き物よ。自分勝手は許さん、人に迷惑をかけるな……。そう口にはしても、それら全ては戯言、綺麗事に過ぎぬ。欲望は理性で抑えられると言うが、その理性などガラスの如く脆いもの。我がたった一言で、積み木を崩すよりも容易く瓦解するのだからな。『これは夢なんだから、何をしてもよい』……。この一言でな!」
「おのれ化け物、言わせておけば!」
ブラス男爵は歯を軋ませ、剣先をスルシスへ向けた。が、そこへホーガニーがひょいと飛び出したのだ。ウインクをすると、ホーガニーは勢いよく右手を挙げた。
「はーいはーい。ホーちゃん、スーちゃんに質問。どうしてレイに取り憑いたのー? スーちゃんが憑けそうな人は、他にも一杯いたはずなのに。ホーちゃん、わからなーい」
ホーガニーの惚けた態度が不快だったのか、スルシスはぴたっと耳を伏せた。だが、直ぐに鼻を鳴らし、質問に応じた。心が広いことを誇示したいと見える。
「確かにな。我も最初レイに取り憑き、兄を王にしたいという願いを抱いていないと知った時点で離れようとした。だが我は思い留まった。この子供に憑依するのは我にとって好都合であると。これほどよい犠牲者はいないとな」
レイの故郷はケルン南部の辺境の村。あまりに寂れた僻地にあるので、どの貴族も治めようとしない「領主に見放された地」だった。他の村落との交流は愚か、来訪者も皆無に等しい。五年前訪れたアルドモンド卿が三十年ぶりの客人だったくらいだ。
領主もおらず、人の往来もなければ、外部からの情報は途絶えてしまう。人形がどんなに暴れようとも、その噂はレイの耳へ届くことは決してない。夢の出来事が現実で起きていようとは、レイは全く気付かないのだ。
これはスルシスにとって重要なことだった。レイが事件を夢と思い続けている限り、夢に疑問を抱かぬ限り、人形を作る材料――願望が尽きることはないのだから。さらに僻地ならば犠牲者も見付かりにくく、スルシス自身の安全も保証されるのだ。
無論ホーガニーが疑問に感じたように、スルシスはレイ以外の者――例えば王女の婿候補を敵視する者などにも、憑依することが出来た。が、そうした人間は事件が起きれば、得てして目を付けられやすく、危険だ。もしも憑依中の日中に犠牲者が捕えられ、即刻斬首されようものなら、ナイトスタリオンは陽光の下に身を晒す羽目となってしまう。
「更に都合のよいことに、レイは『兄が活躍する夢』を、誰にも話していない。親にもな。そして毎晩、我が見させる夢を心待ちにしておるのだ。めでたいことではないか」
「純粋な少年の心を弄んで、何が楽しいのか!」
ブラス男爵が血を吐くような声で迫ると、スルシスは笑いを噛み殺した。
「純粋……か。果たしてそうかな? アルドモンド、一つ教えてやろう。ヴィラ・ハーが何故お前にだけ素顔を見せたのか、その理由を」
ヴィラ・ハーが素顔を隠した理由は、レイが「謎の騎士」として格好をつけたがったことにある。それはスルシスにとっても好都合だった。犠牲者が発見されにくくなるからだ。
ファーラン公爵が殺害された八月三十日の夜、スルシスは公爵邸の近くにアルドモンド卿が潜んでいることを察知していた。そこで公爵の護衛の前でわざと姿を消し、アルドモンド卿がいる教会脇の袋小路へ瞬間移動したのだ。そして――
「我はヴィラ・ハー、即ちレイにこうけしかけてやった。お前の兄は魔術を使い、火炎竜すら操れる。兄は師を越え、偉大な騎士になったのだ。その現実をアルドモンドに見せつけてやれ……と。結果、レイが何をしたのかは知っての通りだ。さぞや鼻が高かったであろうな、レイは。どうだ、これでもレイは心清らかな少年か?」
「そう言うことか。だが理由はそれだけではあるまい。お前は私がジェスタの許へ向かうことを知っていたはず。何か考えあってのことであろう」
「フフフ、感付いておったか。流石はケルン一の騎士、感服したぞ。その通り、お前は我の思惑通りに動いてくれた。しかしお前がそこの腰抜けの所に行こうと行くまいと、どうでもよかったのだ。我にとって重要だったのは――」
スルシスは一瞬、アルドモンド卿からその後ろに立つブラス男爵へ目線を移した。
「お前がラディル・ブラスと同じ場所にいるということだ。お前はヴィラ・ハーとしてラディル・ブラスを抹殺するのだ」
「馬鹿な。私には男爵を亡き者にする理由などない。ヴィラ・ハーにもだ」
淡々と受け答えするアルドモンド卿を、挑発するようにスルシスは白い牙を見せた。
「知らぬのか。お前にはラディル・ブラスを殺す理由がある。お前達二人は王位に就ける可能性がある人間だ。揃ってあの軽薄娘、ロミナに気に入られているのだからな。即ちラディル・ブラスは、玉座につくための最後の障害なのだ」
「戯けたことを。男爵も私も王位に関心はない」
「その様な事、どうでもよい。全ては我が描いたシナリオ通りに事が運べばよいのだ」
「シナリオだと?」
アルドモンド卿が剣を構えたまま一歩踏み込んでも、スルシス動かない。ただ不敵な笑みを浮かべ、佇むだけで。
「ヴィラ・ハー即ちアルドモンドは、ラディル・ブラスを王位目的で殺し、その首をマイアムの屋敷へ投げ込む。その直後我は消え、ヴィラ・ハーは男爵の家臣によって捕えられる。そして国家反逆罪で処刑され、国史にその名を永遠に残すのだ。名誉なことではないか。いや、無理か。ケルンはナランに滅ぼされ、大陸から消滅してしまうのだからな」
「貴様の思惑通りにはならぬ。ケルンはナランに屈しはしない」
「甘いな、アルドモンド。ナランは国土の三分の一が砂漠、豊かな土地を喉から手が出る程欲している。数年来ケルンを侵略する機会を窺い、着々と準備を進めてきたのだ」
もしスルシスのシナリオ通りに事態が進めばどうなるか。アルドモンド卿はケルンの英雄として国民に深く慕われている。その英雄がヴィラ・ハーであり、処刑されようものなら国民の動揺は避けられない。一人一人の「波」は小さくても、寄り集まれば津波となり、国家の存亡すら左右する。加えて国の要人は殺され、後任も決まっていない。今まで何とか国王が国情の混乱を抑えてきたが、もう限界だ。
ケルン国内に潜伏するナランの密偵は、この情報を即座に祖国へ伝えるだろう。ナランは国軍の大半を国境周辺に集結させており、いつでも越境可能な状態にあるという。敵は万全の体勢で攻め込んでくるのだ。片やケルンは何の準備も出来ていない。国内の混乱を沈静化することにかまけて、隣国への警戒を怠ってしまったのである。
「一度ケルンで戦が起きれば、他国もその影響から逃れられぬ。後は我が関与しなくても、戦火は瞬く間に大陸全土へ広がって行くであろう」
「あくまでも己の手は汚さないと言う訳か……」
「その通りだ、アルドモンド。全ては人間自身にやらせ、我等は力を貸すだけで直接手を下さない。その手で人間の命を奪ってはならないーーそれがナイトスタリオン一族で取り決められたルールなのでな。さて、質問はもう終いか」
スルシスの横に散らばっていたヴィラ・ハーの鎧が、ふわりと宙へ浮き上がった。いよいよアルドモンド卿にこれを纏わせ、ヴィラ・ハーに仕立てるつもりなのだ。
「私はヴィラ・ハーになりはしない。必ずや貴様を倒し、亡き家族や貴様の犠牲となった人々の無念、晴らしてみせる!」
アルドモンド卿が左右の三日月刀を力強く横へ払うと、剣圧は突風と化し、鎧を飲み込んだ。瞬時にして鎧は闇の中へ押し込まれ、静寂の森に金属音が響き渡った。
「ほう、なかなかやるではないか。ん……? そうか、思い出したぞ。以前、リーベンゲルのパン職人が商家で四人殺した後、こう言っていたな。『あと一人、アルドモンドという子供がいたはずだが……』と。成程、それはお前のことであったか」
「今頃気付いたか……」
アルドモンド卿は殺気を漲らせ、胸の前で二本の剣を交差させた。竜の太首も一撃で落とすという、誉れ高き「鉄斬」の構えだ。遅れをとるまいとブラス男爵も長剣を握りしめて左手に並び、二人はじりじりと距離をつめていった。
三つの刃が迫っても、スルシスは焦る素振り一つ見せない。夜は自分の天下、人などとるに足らぬ存在と高を括っているのだろう。アルドモンド卿の首根、ブラス男爵の左中指へ交互に目をやると、スルシスはフッと息を漏らした。
「愚かな。その様な石が役に立つと思っているのか? 確かに我を寄せ付けぬ力はあるだろうが、我はお前達に触れる必要などない。術を使えば――」
スルシスの得意げ表情が僅かに歪み、深紅の瞳が後方へ流れた。いつの間にかホーガニーが後ろへ回り、手招きしていたのだ。
「ヘーイ、スーちゃん! カモンカモン!」
ホーガニーは軽快にステップを踏み、にこやかに呪文を唱え始めた。自分へ注意を引き寄せ、騎士二名に攻撃のチャンスを与えようというのか。
「このふざけた老いぼれめ。我が同じ手に二度も引っかかるとでも思ったか!」
スルシスは振り返ることなく光の矢を発射した。ところが光の矢は、ホーガニーの身体をあっさりと突き抜けてしまったのだ。
「幻影と幻聴術で分身を作ったか。こざかしい真似を……」
まんまとはめられたと知ったスルシスは、地を蹴って悔しがった。そこへどこからともなく聞こえてきたのだ。あの陽気で耳障りな笑い声が。
「ファッファッファ。ハーイスーちゃん、本物のホーちゃんはこっちでーす」
ホーガニーは木陰からスルシスの右手へ躍り出ると、両掌を突き出して魔術を放った。分身で敵の目を欺いたのは、呪文を詠唱する時間を稼ぐためだったのだ。だが掌からは火球も雷撃も出ない。ホーガニーは指を目一杯伸ばし、唸りながらスルシスを睨むだけだ。
実はホーガニーは、金縛りの魔術で相手の動きを封じる作戦に出たのだ。生半可な攻撃魔術はナイトスタリオンには通用しないと考えたのだろう。
術が効いたのか、スルシスはホーガニーへ首を向けた状態で完全に静止した。魔術の援護を受け、再度接近しようとする騎士両名。ところが――
「この老いぼれ、いい気になりおって!」
パチーンと弾けるような音がし、スルシスは棒立ちになった。ナイトスタリオンは魔物の中でも上位に位置する者、人間に捕縛出来るはずもなかったのだ。
「あららー、ホーちゃん失敗しちゃった。スーちゃん、めんご」
「この期に及んでまだ戯けるか! もう二度とその様な振る舞い、出来なくしてやろう」
スルシスの鬣がざわざわと蠢き出した。されどホーガニーは逃げもせず、困ったように眉尻を下げだけだ。
「やっぱり謝ってもスーちゃん、許してはくれないのー」
「当たり前だ! これを受けてみよ!」
鬣にまとわりついていた魔力が衝撃波となり、ホーガニーを直撃した。あっという間にホーガニーの身体は弾き飛ばされ、地面にひっくり返ったまま動かなくなってしまった。
「叔父上!」
「ホー爺!」
アルドモンド卿とブラス男爵はホーガニーの身を案じ、駆け寄ろうとしたが、スルシスが行く手を阻んだ。不気味なほどに静かな面持ちで。
「気絶しただけだ。我が直接手を下してはルール違反になるのでな。だが我を侮るな。見るがいい。我が魔力を以てすれば、このようなことぐらい容易いのだ!」
スルシスを包み込む燐光が微かに明るさを増した。それに呼応するかのように、スルシスの足下から後方十ゼル(二十メートル)の間に生える草木が全て塵と化したのだ。そう、まるで砂の城が風に吹かれて崩れ去るように。一族間で取り決められたルールにより、スルシスは人間を殺めることが出来ない。そこで自らの魔力の強さを示そうと、こんな「芸当」を見せつけたのである。
ところが「芸当」はこれで終いではなかった。地面に積もった塵が、スルシスの右横へ波のように押し寄せ始めたのだ。全てが集まり、一塊になったところで塵は爆発。中から先程アルドモンド卿の剣圧で押し流されたヴィラ・ハーの鎧が出現した。
「とんだ邪魔が入ったが……。アルドモンド、覚悟をしてもらおうか!」
魔物の目がくわっと見開かれた直後、アルドモンド卿とブラス男爵の動きが止まった。今度はスルシスが金縛りの魔術を使ったのだ。過去の戦いにおいて、アルドモンド卿は幾度となくその強靱な精神力で金縛りの魔術を破ってきた。しかし今度は勝手が違う。ナイトスタリオンの強力な魔力の前に、呻き声をもらすことも出来ない。
彫像のように固まったアルドモンド卿の身体に、鎧のパーツが一つずつ装着されていった。籠手、脛当て、胴……。最後に兜の面当てが下ろされた時、その場に立っていたのはあの死神の騎士だった。
スルシスはにんまりし、二人にかけた術を解いた。身体が動くようになっても、ブラス男爵は呆然と立ち尽くしたままだ。青白き騎士を見詰めながら。
「な、何と言うことだ……! アルドモンド、今助け……」
兜へ手を伸ばそうとした刹那、アルドモンド卿の刃に襲われ、ブラス男爵は間一髪、身を屈めて攻撃をかわした。
「男爵、私から離れて下さい! か、身体の自由が……ききません!」
兜の下からアルドモンド卿の悲痛な叫びが響いた。ヴィラ・ハーの鎧を纏ったアルドモンド卿は、もはやスルシスの意のまま動く傀儡でしかないのだ。
「さあヴィラ・ハーよ。ラディル・ブラスを殺せ!」
スルシスの命にアルドモンド卿は二本の三日月刀を振りかざし、猛然とブラス男爵へ斬りかかった。ブラス男爵に逃走は許されない。敵に背を向けることは騎士の名折れ、真っ向から受けて立つ以外に道はないのだ。もっとも逃げようとしてもかなわなかっただろうが。
二人の剣が金属音をたて、火花を上げんばかりの勢いでぶつかり合った。だが、両者の実力差は歴然としていた。片や国外にまで名を知られた百戦錬磨の凄腕騎士。片や腕に覚えはあるが、実戦は未経験の貴族。しかもスルシスに操作されたアルドモンド卿が少しも容赦しないのに対し、ブラス男爵には相手を殺すことに明らかな躊躇いがあった。
力の差は直ぐに目に見える形で現れた。アルドモンド卿は二本の剣を交互に相手へ振り下ろす。並の剣なら一撃でへし折れるほどの威力をもつ攻撃を、矢継ぎ早に繰り出してくるのだ。ブラス男爵はそれを剣で受け止めるのがやっとで、防戦一方だった。
ブラス男爵は押されてじりじりと後退し、ついに大木の前へ追い詰められた。足が木の根元へついた時、ブラス男爵は肩で激しく息をしながらも剣を低く構えた。こうなればやむを得まい。腹を括り、一か八かの勝負に出たのだ。相手の懐へ飛び込み、胸を貫かんと。
が、相手の方が数段上手だったようだ。ブラス男爵が低い体勢で突っ込んでいっても、アルドモンド卿は落ち着き払ったもの。その右腕が唸りを上げ、電光石火の一撃を放った瞬間、ブラス男爵の剣は遙か遠方へ弾き飛ばされた。
青ざめる間すら与えられず、ブラス男爵は腹へ蹴りを食らった。さらによろめいたところに体当たりを受け、仰向けに押し倒されてしまったのだ。
馬乗りになったアルドモンド卿は、ブラス男爵の顔にさらに一発、剣の柄をお見舞いした。たちまち意識も朦朧、ブラス男爵は抗う力を完全に失ってしまったようだ。
「フフフ、よし。では首を……いや、待て。直ぐに殺しては面白くない。こ奴の苦しむ様をじっくり見るとしよう。まずは右手を切り落とせ。次は左手、その次は足……。四肢を全て切断したところで首を――」
何の前触れもなく飛んでた小石が、スルシスの首筋へ当たった。鬱陶しそうにスルシスが左後方を振り返ると、視線の先には冷汗まみれのジェスタの姿があった。
「きょ、きょ、卿に何やらせるんだよ、こ、この化け物馬!」
膝はガクガク、ジェスタは立っているのがやっとという状態だった。それでもなお石を握りしめるジェスタを、スルシスはふふんと嘲笑った。
「愚かな奴だ。アルドモンドのことより、お前は弟のことを心配すべきでないか」
「レ……レイをどうするつもりだ!」
「マイアムへ行く前にあの村に寄り、アルドモンドに始末させる。口封じをするに越したことはない。なに、兄弟揃ってあの世で暮らせるのだ。感謝してもらわねばな」
ルピアは主の傍らで飛び上がった。スルシスはジェスタまで殺すつもりなのだ。そこへ敵の集中力が途切れて幾分術が弱まったのか、アルドモンド卿の苦しげな声が届いた。
「な……何をしている、ジェスタ……! ルピアと叔父上を連れ、は、早く逃げろ! 奴は私にお前達まで……殺させる気……だ……!」
それでもジェスタは逃げようともせず、再度小石をスルシスへ向かって投げ付けた。しかし反撃も空しく、スルシスの魔力で小石は反転、ジェスタの額へ当たったのだ。ぱっくり割れた傷口から、血がダラダラと流れ出た。
「馬鹿め。大人しく見ているがよい。さあヴィラ・ハーよ、そやつの右手を落とせ!」
アルドモンド卿は左手の三日月刀を大きく振りかぶった。ぐったりと横たわるブラス男爵の右腕目がけて。あまりに恐ろしい光景にルピアは目を背け、主の方を見上げた。
そのジェスタといえば足を投げ出し、地べたに座り込んでいた。逃げる気力すら失ったようだ。ルピアにはわかっていた。ジェスタから気力を奪い去ったのは恐怖ではないと。己のふがいなさ、力の無さが悲しく、悔しくてたまらなかったのだ。
「俺は……俺は何て奴だ……。人に散々迷惑かけて、でも責任もとれなくて……。俺のせいで卿はヴィラ・ハーにされ、みんな殺されるって言うのに……」
ジェスタの目から大粒の涙がポロポロと零れ出し、その様をルピアは食い入るように見入った。ジェスタが流す涙に心奪われてしまったのだ――命の危機を忘れさせるほどに。ルピアはこれ程まで美しい涙を見たことがなかった。葉上に煌めく朝露の如く、澄み切った涙。深い悔恨の念が込められた、心からの償いの涙だった。
「レイ……御免、御免よ……。兄ちゃん、お前を守ってやれなかった。お前の夢、叶えてやることが出来なかった……。俺は駄目兄貴だ。許してくれ、レイ……!」
ジェスタは涙を拭おうともしない。涙は血と混じって顎から滴り落ち、ジェスタの胸をうっすらと紅く染めた。
その時だった。ジェスタの左胸が光り出したのは。
『な、な、何なの! これ!』
突然の異変にルピアはもんどり打った。ジェスタが付けていた群青石のブローチが光を発しているのだ。初めは淡かった光も急速に輝きを増し、小広場全体を照らし出すようになるまで殆ど時間を要さなかった。
眩しさに耐えかね、目を瞑るルピア。が、身を引き裂かれるような絶叫に、眼を見開かずにはいられなかった。スルシスの声だったのだ。見ればスルシスが口から泡を吹き、苦しげに横たわってもがいているではないか。
『そうか……わかったわ! この光は陽光なんだわ!』
ルピアの台詞を裏付けるように、アルドモンド卿を覆っていたヴィラ・ハーの鎧が煙の如く消えていった。剣を振り下ろす寸前で魔力から解放されたのだ。安堵の息をつく間もなく、アルドモンド卿はブラス男爵を抱き起こした。二、三度声をかけるうちに意識がはっきりしたのか、ブラス男爵は立ち上がった。敵がのたうち回る様を目にし、信じ難い思いに駆られたようだが。
「……これは一体何事か、アルドモンド」
「私にもわかりません。でも今が奴を倒す絶好のチャンスです!」
アルドモンド卿は自分の剣を一本、ブラス男爵へ手渡した。しかし二人が反撃に転じるよりも早くスルシスは跳ね起き、駆け出したのだ。光が届かない場所まで逃げ、魔力が蘇ったところで瞬間移動術を使い、レイの身体へ戻るつもりに違いない。二人が追いかけようにも、馬の足と人の足では勝負になるはずもなく、魔物の姿は小さくなって行くばかりだった。
『まずいわ! このままあいつに逃げられたら……! あっ、そうだ!』
やっと光に目が慣れたルピアは、ジェスタの膝の上へ乗った。
『旦那! このブローチ、私に貸して下さい! 針を外したままで! 早く!』
泡を食ってジェスタがブローチの針を抜く隙に、ルピアは呪文を唱えた。そしてブローチを受け取るや否や、スルシスを追って矢のような速さで飛んでいったのだ。ルピアが唱えていたのは、加速の魔術の呪文だったのである。
魔力消失の影響により青白き燐光は消えていたが、白い馬体はよく目立つので、見失うことはない。魔術の力添えもあり、瞬く間にルピアはスルシスの真上へ到達した。
「く……来るなぁ! 来ないでくれぇ!」
燦々と降り注ぐ「小陽」の光に走る力を殺がれ、スルシスはよろめきながら足を止めた。先程までの自信に満ち溢れ、人を蔑んだ態度は何処へやら。今はヒーヒー鳴いて狼狽えるだけ。まるで親に許しを請う幼子のように哀れで情けない。
されどここで攻撃の手を緩めるルピアではない。相手は卑劣残虐なる魔物、一片の情けも無用だ。敵の額へ降下すると、ルピアは前髪をがっちりと足で掴んだ。
「止めろぉ! 目が……目がぁ!」
強烈な光に目を焼かれ、痛みのあまりスルシスは無茶苦茶に頭を振った。それでもルピアは少しも怯まず、ブローチの針先を敵の耳へ向けた。魔力の武器でなければ傷付けられない魔物も、力を失えばただの針でも貫けるはず。ルピアの予想は的中し、針は易々と耳たぶを貫通してブローチを固定した――しっかりと。
『あーら素敵なピアスですこと。とってもお似合いよ』
ルピアは樹上へ移り、さも楽しそうに囃し立てたが、そんな冷やかしの言葉も相手の耳へは届いていないようだ。光のピアスを付けたスルシスの苦しみようは尋常ではない。闇雲に飛び上がったり跳ね上がったりしては、樹木に衝突して転倒することを繰り返している。たちまち白い身体は傷だらけとなり、幾つもの赤い筋が体表を走った。
ただ残念な事に、ルピアが無様なダンスをゆっくり見物することは適わなかった。光目指して真一文字に駆け寄る二つの人影。アルドモンド卿とブラス男爵だ。気配を察したのか、スルシスは逃げだそうとした。だが目も見えないうえ、弱った身体でどうして逃げ切れようか。たちどころに前方をブラス男爵、後方をアルドモンド卿にとられてしまった。
「スルシス……。天に代わり、今ここでお前を討ち滅ぼす!」
アルドモンド卿はおもむろに三日月刀を掲げた。愛する家族、気の毒なパン職人、そしてヴィラ・ハーに討たれた者達……。全ての人々の思いをこの一撃に込めるかのように。
「兄の仇! 思い知るがいい、スルシス!」
ブラス男爵の手にぐっと力が入った。唯一の肉親であった兄を殺された恨み、一日たりとも忘れたことはなかったのだろう。
「覚悟!」
二人が口を揃えて叫んだ次の瞬間、刃はスルシスの身体をとらえた。ブラス男爵の剣が首筋を、アルドモンド卿の剣が左脇を切り裂き、夥しい量の血が噴き上がった。地を揺るがすような悲鳴を上げ、魔物は鈍い音を立てて地へ伏した。
「この……我が……。人間如き……に……。グ……グワーッ!」
それが人の世に多くの災いと悲劇をもたらしたナイトスタリオン・スルシスの断末魔の叫びだった。じたばたと四肢で宙をかくも長くは続かず、血の泡にまみれた口から最後の吐息が漏れ、魔物は事切れた。
「やった……。ついにやった……。兄の仇をこの手で……」
ブラス男爵は感涙に噎び、身を震わせた。しかしアルドモンド卿は、勝利の余韻に浸る間もなくスルシスの死骸から尾を切断し、懐から取り出した革袋へ収めた。
アルドモンド卿が離れると同時に、魔物の死骸に異変が起きた。深紅の眼球がボタリと零れ落ち、毛が抜けて筋肉が赤黒く変色し始めたのだ。腹はぱんぱんに膨れ上がって破れ、ガスと内蔵が撒き散らされた。まるで一月分の時間を一気に進めたかのように、凄まじい勢いで腐敗しているのである。
吐き気を催さんばかりの腐敗臭が辺りに漂い、ブラス男爵は思わずうっと呻いて鼻を押さえた。ルピアも激しい目眩を覚え、墜落しそうになったほどだ。ただ一人、アルドモンド卿だけは微動だにせず、じっと凝視するだけであった。
ものの二十も数えぬ間にスルシスの躯は骨だけとなり、その骨すらもひびが入って塵と化した。そして突然吹き荒れた一陣の風にさらわれ、魔物の身体は一滴の血の痕すら残さず消え去った。地面に転がっているのは、群青石のブローチだけだ。
「魔物はこの世の生き物ではありません。そのため死骸は一瞬のうちに消え去るのです」
そう言ってアルドモンド卿は袋をブラス男爵へ見せた。
「それでそなたは死骸が消える前に尾を切り落としたのか」
「はい。魔物を討ったという証拠を確保するために。この袋は魔術によってあつらえた一品です。この中に入れておけば、魔物の身体も保存することが出来ます」
「流石はアルドモンド、見事だな」
心底感心したかのように大きく頷くと、ブラス男爵はアルドモンド卿へ右手を差し出した。そしてそれに応えるようにアルドモンド卿も。共にナイトスタリオンと戦った両雄は満面の笑みを浮かべ、がっちりと固い握手をかわした。
『ああ、これぞ戦う男と男の握手だわ。何てステキなのかしら……』
枝の上でルピアはこの光景を恍惚と見とれていた。互いの健闘を讃え合うブラス男爵とアルドモンド卿の心意気に、深い感銘を受けたのだ。
「ルピア、来い!」
突然の呼び声にルピアは陶酔から冷めた。ブラス男爵が左手をルピアの方へ向けて伸ばしている。その手へ降り立つや否や、ルピアは荒っぽい歓迎を受けた。ブラス男爵がルピアの身体をかきむしり始めたのだ。
「よくやった。本当によくやってくれたな、ルピア。ハッハッハ!」
豪快に笑うブラス男爵。バサバサと翼をはためかせ、無邪気に喜ぶルピア。すると今度はアルドモンド卿がルピアを両手で掴み、目よりも高く持ち上げた。
「私からも礼を言わせてくれ、ルピア。お前がいなかったら、ナイトスタリオンを倒すことは出来なかっただろう。本当に有り難う」
『そ、そんなあ。私は何もしていませんよ。お礼ならあのブローチに言って下さいな』
はにかみながらルピアは、ジェスタのブローチを嘴で指した。ナイトスタリオンを震撼させたあの光も、徐々に弱まりつつある。
何故群青石は陽光を放ったのか。今はルピアもその謎に挑むつもりはなかった。恐るべき敵・ナイトスタリオンを倒した喜びに、思う存分浸りたかったのだから。
スルシスとの対決から、はや一ヶ月が経過した。秋本番を迎え、ライナ湖畔の木々が赤や黄に色付き始めた、十月十五日の夜。ホーガニー宅の食堂には家主の他、アルドモンド卿、ジェスタ、そしてルピアが顔を揃えていた。アルドモンド卿がマイアムを出立する前夜、ささやかながら別れの晩餐を催すことになったのだ。
「やはり私と共に来る気はないのか、ジェスタ」
主賓席に座るアルドモンド卿が尋ねると、隣でジェスタは肩を竦めた。
「はい。俺が騎士に向いていないってことは、卿といた間によーくわかりましたから」
「そうか。ならば仕方があるまい」
アルドモンド卿は落胆した様子も、ジェスタを責める素振りも見せない。自分の生きる道は自分で決めるといい――そう告げているようだった。
「それで卿、マイアムを出たら、やはり王都へ行くんですか?」
「そうだ。急ぎ男爵にお会いし、ご尽力頂いたお礼を申し上げなければ。私の逮捕令解除も全ての諸侯へ届いたはず。もう国内を堂々と歩いても問題はなかろう」
身の潔白が証明されても、アルドモンド卿の表情は冴えない。自分の無実を証明するために王都へ赴いたブラス男爵が、未だマイアムへ帰還していないからだ。
スルシスを討った後、一行は翌朝マイアムへ戻った。そしてブラス男爵は僅かな供を連れ、その日のうちに王都へ向かった。
五日後、王都へ到着したブラス男爵は国王に謁見。ヴィラ・ハーとナイトスタリオンの関係を報告し、魔物を討ち取った証としてスルシスの尾を提示した。袋から取り出された尾は、暗い室内でぼんやりと青白く光った。光ばかりか、死しても未だ禍々しき妖気を放つ魔物の尾に、国王も側近も震駭したという。
この証拠だけで国王が自分の話を信じるかどうか、ブラス男爵も正直なところ自信がなかった。しかし意外にも国王は疑う素振りすら見せなかった。ブラス男爵がヴァドラー大公の件で王都に赴いた際、誠実な態度を見せたため国王も彼を信頼していたのだろう。
直ちに国王はアルドモンド卿の逮捕令を解くと同時に、ヴィラ・ハー事件が解決した旨を公にした。ただし真実は己と側近の胸の内に封じ、国民には「ヴィラ・ハーは妖馬の傀儡であり、魔物の死によってヴィラ・ハーも消滅した」と、発表したのだ。国王もレイやジェスタには責任なしと判断したのである。もし全てを報じれば、この二人に報復を企てる者が出ることを予測しての処置でもあった。
ヴィラ・ハーの「死」によって国民の動揺はおさまり、落ち着きを取り戻した。殺害された要人の後任も多少のごたごたはあったが何とか決まり、国情も回復しつつある。王都東地区の復興も本格的に開始された。さらに国境警備隊の報告によれば、ナラン軍は国境付近より撤退したらしい。今戦っても分が悪いので侵略を断念したようだ。
戦争は回避され、ケルンに再び平和が訪れた。国王の賢明な判断によってジェスタも救われ、ブラス男爵はアルドモンド卿と共に国を救った英雄となった。が、おかげでブラス男爵の人気は急上昇、マイアムへ帰りたくても帰れない――と、カレンは水晶球の中からホーガニーへ苦笑い見せたものだ。
「宮廷雀……ではなく、貴婦人の間で男爵は大人気だと、カレンも呆れておりました」
「ならば尚更早く王都へ赴き、お救いしなければ。その後は叔母上にお会いするつもりです。叔母上には随分と御心配をかけましたので。そして王都を出た後は、ジェスタ」
アルドモンド卿は静かな眼差しをジェスタへ注いだ。
「お前の故郷へ行って、レイに会ってこようと思う」
「え……。レイにですか? で、卿はレイに何を……」
「お前のこと、有りの儘に伝えるつもりだ。『ジェスタは訳あって私の側を離れたが、今は胸張って帰郷出来るよう努めている』と……」
「卿……」
ジェスタの頬を涙が一筋伝った。アルドモンド卿の心遣いが余程嬉しかったのだろう。
「何かレイへの言伝はあるか?」
「ありません。あいつに渡すつもりだった群青石も、こんなになったし……」
ジェスタは胸のブローチへ手を当てた。かつてはコバルトブルーの輝きを放っていた宝石も、今では鮮やかさを失い、ただの青い石となっていた。
群青石は如何にして陽光を放ったのか。ブラス男爵より報告を受けた国王は、王立魔術研究所に群青石の調査を命じた。そして数日後、驚くべき事実が判明した。群青石の内部には、目に見えない小さな赤い粒――陽光の結晶が無数にちりばめられていたのだ。その結晶は人の血と涙に反応して「燃焼」し、陽光を発する。全ての結晶が燃え尽きると光は消え、青い石と化してしまう。こうなれば群青石はもう二度と光らない。
青い「水」が赤い「陽光」を取り込んだ石――これが群青石の正体だった。この石が夏の暑さ厳しい南部海岸の岩場でのみ産出されるのも、これで説明出来る。ナイトメアやナイトスタリオンは、石内部に潜む陽光の気配を敏感に感じ取っていたのだ。
ただし、謎は全て解明された訳ではない。研究所の魔術師が何度実験を繰り返しても、群青石は蝋燭の火に毛が生えた程度の光しか発しなかったのである。
「オホン! 儂が思いますに、あの時ジェスタは深い悔恨の念にとらわれていました。その熱い感情が涙に乗り移り、陽光の結晶を一気に燃え上がらせたのではないかと……」
鼻を高くして自説を説くホーガニーに、ルピアは冷ややかな反応を見せた。
『あーら。随分と閃きがいいこと。あの時はからっきし役に立たなかったくせに』
「それはないじゃろう、ルピア。ちゃんとスーちゃんを攪乱させたじゃろうて」
『スルシスを怒らせただけじゃない! あんな恥ずかしい真似、二度としないでよ!』
羽を膨らませ、プリプリとむくれるルピア。しかしホーガニーは謝罪の言葉すら述べず、今度はジェスタに話しかけたのだ。
「ところでジェスタ、お前さんはこれからどうするつもりじゃ? このまま儂の下働きを続けていては、いつまで経っても故郷に錦を飾れんぞ。何か職を探すか?」
「うーん……。でも俺、わからないんだよな。自分でもどんな職業に向いているのか」
首を傾げるジェスタを見つつ、ホーガニーはニカッと笑った。
「そうかそうか。それなら儂からの提案なんじゃが……。いっそのこと儂の弟子になって、魔術の勉強をせんか? 儂は今まで弟子をとったことがない。儂もこの年じゃ。せめて死ぬ前に一人ぐらい、この手で弟子を育てておきたいのじゃよ」
「はあ、俺が魔術師に? 冗談よせよ、爺さん。俺は字だってろくに読めないんだぜ」
「心配せんでもいい。文字くらいどうにでもなる。それにルピアが魔術を使えるのに、主であるお前さんが使えないっていうのも、格好がつかぬのではないか?」
ホーガニーの熱心な勧誘に、ジェスタは腕を組んで唸った。眉間に皺をよせて考え込む様は、真剣そのもの。どうやら本気で検討しているようだ。さてどう返答するのかと、ルピアがわくわくしながら様子を窺っていると、ジェスタは腕を解き――黒い嘴を指先でピンと弾いた。
「そうだ……な。特にすることもないし、やるだけやってみるか。お前にガミガミ説教されたり、偉そうな顔をされるのもいい加減嫌になってきたしな」
『じゃ、決まりですね!』
ルピアの心にパッと明るい光が灯った。ぐうたら主を真っ当かつ、レイにも堂々と自慢出来るような職に就ける。ルピアの最大の目標が、達成される可能性が出てきたのだ。根性なしのジェスタのこと、また修行が嫌になって逃げだそうとするかも知れない。だが今度は自分がついている。挫折させはしない。一端の魔術師になるよう、必ずや自分が主を支えてみせる――強い決意を表わすかのように、ルピアの瞳は宝石の如く輝きを放っていた。
『今日はお祝い事続きです。さあ、祝杯をあげましょう!』
小躍りしながらルピアはワイン瓶へ歩み寄り、魔術を用いて栓を抜いた。この赤ワイン、ホーガニーがブラス男爵から譲り受け、何か特別な席で飲もうととっておいた、とびきりの一品だ。ルピアがグラスへ瓶を傾けると、心地よい香りが仄かに鼻をくすぐった。
鮮やかな赤紫色が食卓に彩りを添えたところで、ルピアは卓上でグラスの脚を掴み、残る三人はグラスを手に起立した。音頭取りのホーガニーが厳かな口で述べる。
「アルドモンド卿の今後の益々の御活躍をお祈りすると同時に、ジェスタの門出を祝って――」
ホーガニーの声を合図に、高く掲げられる四つのグラス。
「乾杯!」
全員が声も高らかに唱和した――ルピアも一緒に。主の再出発を心から祝福したい。その純真なる思いを受け、ルピアの喉は初めて人の声を生み出したのだ。今夜の赤ワインの味はルピアにとって、生涯忘れられないものになることは間違いなかった。
かなりのスピード投稿となりましたが、無事完結しました。「死神の騎士」、如何だったでしょうか。以前、コンテスト用に書いた作品ですが、作者である私でさえ詳細は忘れており、今回投稿して「ああ、こういうことだったのか」と思ったものですーーお恥ずかしいことですが。
さて、ここで少し「召使い鳥」について説明しましょう。元はただの鳥ですが、魔術師によって人並みの知能と長い寿命ーー場合によっては百年以上の寿命を与えられます。魔術師の執務や家事の手伝い、伝令などが主な仕事。そこそこの腕を持つ魔術師なら作れますが、ルピアのように魔術が使える召使い鳥になると、高名な魔術師でないと無理ですね。ルピアは作中で幻影、透視、浮遊、加速等の複数の術を使っていましたから、彼女の「前の旦那」はかなりの腕利きだったのです。
鳥の種類も様々で、鴉の他にもオウムや鷲などの猛禽類も人気です。オウムのいいところは、テレパシーがなくても人と会話が出来ること。言葉が喋れますからね。猛禽類は見栄えも良く護衛にも使えますが、肉食であることが難点。餌の確保が雑食の鴉や草食のオウムに比べ、容易ではないんです。
鳥以外にも召使い犬や召使い猫なんていうのもおり、役割は召使い鳥と同じです。まあどんな動物を使うのかは、作成者の好みということですね。
それでは今回はここまで。最後まで読んで頂き、有り難う御座いました。