第008話 フォーリンエンジェル
回転扉がゆっくりと動き、ミーシャがその中へと入っていく。
ホテルレッドアイ。そこはゼダン通りでもっとも高級なホテルとして知られており、ミーシャはそのホテルのロビー中央を自然に歩いていく。ミーシャの向かう先はこのホテルの最上階、243街区を支配しているノエル・レーベの住居であった。
そして、ロビーに入ってきたミーシャを見たボーイが、その姿に眉をひそめながら呼び止めようと近付こうとして、そばにいた別のボーイに止められているのを横目にしながら、ミーシャはエレベータルームへと進んでいく。
『ケケケ、今追い出そうって目ぇしてたぜ』
ホルスターの中から声が聞こえる。
「そりゃあ、この格好だしな。魔獣皮のツナギに羽織ってるだけの革ジャンだろ。それに脇下と足に銃。腰にはボウイナイフだぞ。俺だって知らなきゃ止めるっての。まあ新人なんだろ」
そう言いながらミーシャがエレベーターの前に立ち、扉が開いたところで中から出てきた女性に「あら、ミーシャじゃない」と声をかけられた。
「よう、エレナ。今日も美人だな」
「あら、ありがと。あなたからの言葉なら無数の花束を贈られるよりも嬉しいわね」
赤目のボーイと共に出てきたのは、ひどく身なりの良い服装をしたサングラスをかけた蛇髪の女性であった。
「ノエル様にご用事かしら? 今日はお客様が来ているみたいだったけれど」
「ああ、そうなのか。けど、呼び出しがあったんだし問題はないだろ」
「そう? なら、いいけど。ミーシャ、たまにはお店にも来なさいな」
「金がありゃーな」
ミーシャの言葉にエレナはクスリと笑うと、そのまま赤目と共にロビーへと向かっていった。
『アレを呼び出すたぁ、随分と強力なヤツが泊まってるんだな』
「勘ぐるなよジョニー。さっさと行くぞ」
リボルバーの言葉に眉をひそめながらミーシャはエレベーターの中へと入ると、そのままカードキーをかざしてから最上階のボタンを押す。そして動き出したエレベーターはほとんど揺れることなく、瞬く間に最上階である45階へと辿り着いた。
そこは階層すべてがノエル・レーベの住居であり、例えホテルの人間でも許可無しでは入ることを許されない一種のアンタッチャブル、セフィロシティ内でも有数の、強固だと言われている要塞のひとつであった。
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「よく来たミーシャ。寄り道はせずに来れたようじゃな」
部屋に入ったミーシャに、椅子にもたれ掛かった赤髪赤目の少女が声をかけてきた。その少女こそが赤の女王として知られるノエル・レーベその人であったが、ミーシャは「うわぁ」という顔をしてノエルではなく、その足元を見ていた。
「いや。来たけどさ……なんだよ、それ?」
ミーシャの言葉にノエルが「フンッ」と鼻で笑う。
この部屋の中にいるのはミーシャとノエル、それにノエルの後ろに控えている赤い瞳の執事のみ……といういつものメンバーだけではなく、なぜかもうひとり、知らない人物が存在していた。それはノエルの足に踏みつけられ、足座の代わりにされている、白い翼を生やした裸の男だった。
「あぉ、あぉあぉ……あ」
顔はラバーマスクに覆われていて、口元もギャグボールによって封じられているために、表情も読めないし、言葉を発することもできないようだった。それを嫌そうな顔で見ているミーシャにノエルが笑いかける。
「おいおい、一応こやつも立場ある身なのじゃぞ。そんな蔑んだ目で見てやるなよミーシャ?」
そのノエルの言葉に翼男がビクンと震えた。明らかに言葉に反応して興奮したのが分かったが、ミーシャはそれを見なかったことにしてソファに座る。
『もしかしてよぉ、外で待ってたあの巨乳の天使姉ちゃんって……コイツ、待ってたんじゃねえか?』
「うるせぇ黙れ。何も知りたくねえ。俺は仕事の話をしに来たんだ」
リボルバーのツッコミに頭を抱えながら、ミーシャがそう口にする。男が再び震えたが、ノエルの白タイツに包まれた小さな足がさらに強く踏みつけると歓喜の声を上げてうつ伏せた。
「気にするな。これもプレイの一環なのじゃ。この豚はな。部下を待たせながら、妾というあどけない少女に踏みつけられ続けることに興奮を覚え、さらには見ず知らずのそなたらに見られていることにも感じている最悪の変態なのじゃよ。妾は金を貰うためだけに、嫌々踏みつけているだけなのじゃがな」
翼男がブルブルと身体を震わせて紅潮している。それに対してミーシャは、ともかくそれを視界に入れないようにしようと思いながら口を開く。
「とりあえずは土産だ。連絡は入ってたんだろ? ほらよ」
そう言ってミーシャはウェストバッグから、紙に包まれた肉を取り出して、テーブルの上に置いた。
「ベヒモスのエンジェルラダーか。リチャード、仕舞っておけ」
「ハッ」
ノエルの言葉に、背後にいた赤目の若い執事が前に出て、その肉を恭しく手に取ると、そのまま別室へと持っていく。
「で、今これなんで。ちと、あんま集中できねえんだわ。仕事があるってんなら、話進めてくれねえ?」
ミーシャが包帯で巻いた左腕を見せながら、そう口にする。
それにはノエルの赤い目の色をさらに深い色に変質した。今も止血し切れてないようで赤く染まっている包帯を見て興奮したのだろう。ノエルは無意識に舌なめずりをしたが、ミーシャが一歩引いたのを見て自分の状況を悟り、「まあ、今日は抑えておこう」と言いながら椅子に深く腰をかけた。
「じゃあ、仕事の話をするがの。といってももうそなたらも察しの通りであろうが、バーバルファミリーのことじゃ」
「連絡が早すぎたんだよ。見てただろ?」
ミーシャの言葉にノエルが笑みを浮かべる。
この街区では、人界より仕入れた監視カメラが至るところに設置してある。幻術などでも防ぐことはできるが、隠す意図もない騒動が起きているときなどには有効なものであった。
「騒ぎがあったのを部下が発見しての。そなたが盛大にぶっ飛ばしおったから慌てて妾に連絡があったのじゃよ」
「ま、そんなんだろうとは思ってたさ。けど、そのバーバルファミリーってのをマークしてたってことはよ。仕事を寄越すつもりではあったんじゃねーの?」
「そうじゃな。連中、派手に動いておるようでな。まあ、こちらから直接的にアタックをかけたのはそなたぐらいじゃから、そなたに行って貰おうと思ってな」
その言葉にミーシャが嫌そうな顔をする。
この街区にはミーシャ以外にも用心棒は存在するのだが、真っ先に問題を起こしたが故にミーシャに白羽の矢が立った……ということのようだった。
「そうかい。けどよぉ連中、別街区からの移民だろ。なんでいきなり面倒ごと起こすんだよ。面倒くせえ」
「仕方あるまいよ。元いた場所が場所だからな。リチャード、出せ」
その言葉にすでに戻ってきていたリチャードが「ハッ」と一礼して、用意していた資料を取り出しテーブルの上に置いた。それを受け取ったミーシャが眉をひそめる。
「なぁるほどな。272街区の連中かよ。あそこ、やたら問題が多かったよな?」
ミーシャの言葉にノエルが頷く。
「ああ、支配者の権利争いで抗争の真っ直中じゃからな。簡単に言ってしまうと負け組のひとつがここに逃げてきたというわけじゃ。そして妾の椅子を狙っておるというわけじゃな」
そう口にするノエルの言葉に眉をひそめながらも、ミーシャは資料に目を通し続ける。そして二枚目には写真が一枚張られていた。そこに映っているのは、豚というには強面すぎる顔だった。
「うわ、濃い顔のブタだな」
「そいつがバーバルファミリーのボス、ドルグじゃ。ベヒモスの血を輸血して強化されておると聞いておる」
「あれのかよ。コエーな」
数時間前に仕留めた相手を思い出しながら、ミーシャが素直にそう返す。
「で、だ。すでに連中には赤目がふたり殺られててな。女も何人かさらわれておるらしいのじゃよ」
「それでも動いてなかったのかよ?」
「殺られたのは昨日で、相手の特定が難しくてな。バーバルファミリーの足跡を掴めたところにお前さんが暴れてたというわけじゃよ」
その言葉にミーシャが「やれやれ」と肩をすくめる。どうやら最悪のタイミングで絡んだようだった。それからミーシャがドルグの写真をペラペラと揺らしながら尋ねる。
「んで、これを倒すのは良いとして、さらわれた女はどうする?」
「救えとまでは言わんよ。まあ、最悪ドルグだけでも殺せればいいさ。ま、そなたがそれで良しとするなら……じゃがな」
その言葉にミーシャが嫌そうな顔をして、ノエルが「ふっ」と勝ち誇った笑みを浮かべた。少なくとも、存外にお人好しな目の前の男が女たちを放置するとノエルは思っていなかったし、ミーシャも助けるつもりではあった。
その事実を見透かせされていることがミーシャには気に食わなかったが、反論しても負けるのは理解しているので、顔だけ不機嫌そうにしながら口を開く。
「了解、なら急いだ方がいいな。オレが殺ったのがバレたら、マリシアたちやさらわれた女らにも危害が及ぶかもしれねえ」
「そういうことじゃ。連中もそなたが仲間を殺したと知れば、動きもさらに派手になろう。そうなる前にさっさと始末を付けて欲しいものじゃな」
そう言ってからノエルが足下の人物を蔑んだ目で見下ろす。
「赤目が殺られたのじゃ。本来であれば妾自ら出向いても良いのじゃがな。今はこれの相手をせねばならぬし、リチャードを向けるわけにもいかぬ。まったく、妾の時間を金で買おうとするとは……ホンに卑しい豚じゃよ、これは」
「あぉ、アォォオオン」
さらに紅潮するラバーマスクの翼男が咆哮し、ミーシャが「うわぁ」という顔をしながら立ち上がった。用が済んだのであれば、こんな変態のいる場所に居続ける意味はない。
それからリチャードに案内されて部屋を出たミーシャは、玄関前で眼鏡をかけた天使族の少女と対面した。
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「シオ様。お部屋でお待ちいただくようにお願いしていたと思いましたが」
リチャードが一歩前に出て、そう口にする。対してシオと呼ばれた天使の少女は「分かっています」と言いながらも一歩前に出て、リーリャを見ながら口を開いた。
「そちらの男と少々話をしておきたかっただけです」
その言葉に、リチャードが少しばかり眉をひそめながら尋ねる。
「私も一緒にお伺いしても?」
シオと呼ばれた天使族の少女は「構いません」とだけ言って、再度ミーシャへと視線を向けた。
シオはまだ十代程度に見える少女だったが、身なりからして天使族の中でもかなり高い地位にいる人物であろうことはミーシャにもすぐに分かった。
「あなたがノエルの雇っている243街区の用心棒、ミーシャ・ドッグですね」
「そうだけども。アンタは……どういった方なのかは聞かない方がいいかな?」
セフィロシティの支配種族と揉めてろくなことがないのはミーシャも理解している。だがシオは特に気にした風もなく首を横に振った。
「構いません。私の名前はシオ・ゼアミリス。市長メタトロス様の従者です」
その言葉を効いた途端にミーシャの顔が歪み、何かを悟った。その様子に何かしらの感触を掴んだシオがさらに話を続けていく。
「敢えて名を明かしたのはあなたに忠告するためです、ミーシャ・ドッグ。あなたがここに呼ばれて奧に入ったということは、あの吸血姫とメタトロス様の秘密の会合についてあなたが何らかの役割を担っている……ということでしょう」
秘密の会合。天使族らしき男が、少女の足座になって興奮しているアレが果たして会合と呼べるものなのだろうかとミーシャは考える。
(というか……まさか、あれが……この街の市長?)
とっさに浮かんだ最悪の想像だったが、それは目の前の少女の自信に満ちた顔から紛れもなく現実なのだとミーシャに知らせていた。
「ふふ、今更ながらに己の立場を理解して怯えているようですね、人間。まあ、無理もないでしょう。ですが、覚えておきなさい」
シオがレイピアを抜いて、スッとミーシャの前へと突きつけた。
「あなたが請け負ったモノは、この街でもっとも偉大なる方から任されたこと。決して失望はさせぬように。そして彼の方がここにいることを外には漏らさぬように……お分かりですね?」
その言葉にミーシャが冷や汗をかきながら、うんうんと大きく頷く。シオはその反応に満足そうに頷くとレイピアを鞘に納めて笑みを浮かべた。
「であれば、よろしい。それでは行きなさい。ミーシャ・ドッグ。あなたの名は覚えました。その意味を決して忘れぬように」
トドメの言葉にもミーシャは何度も頷きながら、肩を震わせて部屋の外へと出ていった。その、まるで怯える子羊のような姿を見てシオは満足したのか踵を返して部屋へと戻り、リチャードが困った顔で外に出るミーシャに一礼をして扉を閉めた。
それはまさしく絶妙なタイミングであった。何故ならば、完全防音の部屋の外では、扉が閉まったと同時にミーシャとリボルバーの笑い声が木霊したのだから。